小説 未来へ―あべこべのカインとアベル/シスター・コンプレックスの後に
「今日はこれで失礼するね」
佐原真幌は、机の上に散らばった紙を集めながら、目の前の青年に声をかけた。
何かの数式を書きつけていた彼は、手を止めて視線を上げた。
「…何か、良いことでも?」
そう尋ねたのは、彼女の声音に、いつもと違う響きがあったからだ。
真幌は、ふふ、と笑った。
「気づいた? 阿礼も、人の感情の変化に敏感になってきたね。そう、良いことがこれからあるのです」
阿礼と呼ばれた青年は、視線だけで先を促した。
真幌は、手っ取り早く帰り支度をしながら、明かした。
「あのね、今日はこれから、妹とお茶するの。水穂のほうから誘ってくれたんだ。こんなの初めてなのよ」
ああ、と阿礼は小さく頷いた。
「あの、カメラをプレゼントした」
「そう」
「どうでした?」
その短い言葉でも、真幌は意味を正確に読み取り、答える。
「直接渡したわけじゃなかったけれど、帰ったら、お礼を言ってくれた。喜んでくれたと思う、な」
しかし、いまいち、自身なさげだった。それに対して、阿礼は淡々と言った。
「喜んだのでしょう。それだから、今日、誘われたのではないですか」
「そうかな」
といった真幌は、少し自信を得たようだった。
「ありがとう、阿礼。元気づけてくれるなんて、最初のころと変わった」
「私は事実を述べているだけです」
「わかってる。だから、私は阿礼を最初から信頼してるの」
にこりと笑いかけて、ふと思いついたように、彼女は言った。
「そうだ、阿礼も後で来る? カフェとか、あまり行ったことないでしょう。和泉教授は、絶対連れて行かなそうだし。長谷川さんも忙しいだろうし」
「いえ。姉妹水入らずなのでしょう。私は遠慮しておきます」
そう? と真幌は首をかしげた。
「でも、今日じゃなくても、いつか水穂に会ってほしいな。この間、私の友人に、私より背が高くて異国的な雰囲気の男の人はいるか、て聞かれたの。それって、ぴったり阿礼のことだなと思って。阿礼、水穂に会ったりした?」
笑みを浮かべているが、彼女の眼だけはまっすぐに阿礼を貫いていた。
しかし、彼は全く動じずに、言葉を返した。
「いえ。覚えはないですが。もしかしたら、私と真幌が共にいるところを見たのかもしれませんね」
真幌は、そうね、と言って目をそらした。支度を終えて、彼女は阿礼に手を振る。
「でも、考えてくれると嬉しいわ。じゃあ、お先に。和泉教授にはメモを残しておいたから」
どうせ、声をかけても気づかないだろうしね、と笑って、彼女は去っていった。
阿礼は彼女の姿を見送った後、数式に戻るのをやめ、ペンを置いて立ち上がった。
研究室の仕切りで区切られたもう一角に、顔を出す。そこには、先ほど真幌が「どうせ声をかけても気づかない」と言っていた和泉の姿があった。
「…聞こえているがな」
額に深く皺を刻んだ初老の男性は、さらに眉間の皺を深くした。
「珍しいですね」
阿礼の言葉に、ふん、と和泉は返した。
「言うようになりおって」
「私は事実を述べているだけです」
先ほど真幌に言った言葉を彼は繰り返す。
しかし、泉はそれに反応せず、「それで?」と別のことを聞いた。
「長谷川からその後、何か言われたか」
唐突な話題変更にも慌てず、阿礼は頷いた。
「はい。明るい未来のためには必要なことではないか、と」
それは、阿礼が真幌の妹、水穂の前に姿を現したことだった。
「あの姉妹のための明るい未来、ということか」
「そうでもあるし、それだけではないでしょう。真幌は、あなたたちの未来―私の過去にとって、重要な人物ですから。彼女の明るい未来はつまり、これからの明るい未来を作る一部かもしれません」
淡々と述べる阿礼に対して、和泉は怪しむような顔つきを見せた。
「お前にとっては、佐原のためだろう」
こういうことを言うのは、和泉にとっては珍しい事だった。驚愕すべきことと言ってよい。なぜなら、和泉は基本的に、他人に対して興味がないからだ。
阿礼が驚くような表情をすると、和泉は自らの言葉を後悔したように見えた。和泉は、忘れてくれ、という仕草をした。それから、再び彼は自分の作業に没頭した。
阿礼は彼に背を向け、少し考えた。いろいろなことを。しかし、明確な結論は出なかった。
なんにせよ、水穂の前に姿を現したことは後悔していない。真幌のためには必要なことだろうと思ったから、したまでだ。
真幌がもう二度と、妹に殺されないために。
阿礼が生きているのは、真幌のおかげである。彼女はまだ知らないが。だから彼女の命を救うことは彼にとって当然である。
それが、阿礼が過去へ来た必然の一つに、今や追加されたわけだった。
しかし、そういうことを、おそらくこの先も、真幌の妹は知ることはないだろう。彼女の友人も、自分がなぜ未来の人間の訪問を受けたのか、この先知ることはないだろう。
村崎栞が未来の人間の訪問を受け、そのことを友人の佐原水穂に話し、それに影響を受けて、彼女が姉を(事故ではあるが)殺してしまう。
しかし、本来はこの時死ぬはずではなかった佐原真幌は、本当ならば後に阿礼の命を救うはずだった。因果が歪んでしまうから、阿礼は真幌の命を救った。
別に、歪んでしまった過去を修正する前に、水穂と話をする必要はなかった。
だが。
もしかしたら、何か、真幌のためにできるかもしれないと思ったのだ。過去を修正する以外に。
そんな気持ちを抱いたのは、阿礼にとっては殆ど初めてで、新鮮で、驚きだった。
阿礼の行動で、あの姉妹がめでたしめでたしになるのか、それは分からないが。
少なくとも、きっと、この現在は、正しい。
それだけは、阿礼にも、言える気がした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?