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小説 私だけの世界 Ⅳ、再生②

 その数日は、最悪最低な数日だった。

 おかしいな、とは思っていたのだ。けれど、それを深く考えなかったのはなぜだろう。

 覚悟をしておかなかったことを、私は後悔した。まあ、覚悟の有無で事実が変わるわけじゃないけれど。

 それでも私は、あんなに唐突に、勝手に決められた知らせを母から聞きたくはなかった。

 夏休みのある日、母は、私たち姉弟にこう告げたのだ。

 「お母さんたち、離婚するの」

 そのとき、頭が真っ白ということはこういうことなのだと初めて知った。なにも考えられない。

 え? 今なんていったの? 嘘でしょ、冗談はやめてよ――咄嗟にそんな言葉も出かかったけれど、口にする気力さえも奪われてしまったようだった。それとも、すでに私はその事実を理解していて、なにを言っても無駄だということを、既に悟っていたのかもしれない。

 優希の小さな声が、まだ耳に残っている。

 「リコンって、お父さんとお母さんがいっしょに暮らさなくなるってこと?」

 優希は、とても幼く見えた。いや、事実幼いんだけれど、もっとなにか――痛々しいものを感じた。

 私は、普段はしたこともないけれど、弟の手をぎゅっと握った。優希の手のひらは小さかったけれど、あったかい。少しだけ、平静を取り戻せた気がした。

 「……そうよ、お母さんたちは別々に暮らす。あなたたちも、お父さんかお母さんのどっちかを選ばなくてはいけないの。だから、どっちがいい? 真奈、優希」

 それは、疲れたような――けれど吹っ切れたような顔だった。

 ああ、だからだったのだと思った。最近、夜中に目を覚ましてトイレに行くと、リビングで両親がなにかを話していた。談笑ではないことはわかった。低く、押し殺したような声だったから、どちらも。

 けれど、まさか、離婚についての話し合いだったとは。どうして私は、そのことに気づかなかったのだろう?

 両親の仲は、あまりよくなかった。それは充分、理解していた。けれど、ここまでとは。知らなかった。思いもしなかった。

 ……いや、昔は思ったこともあった。もしかしたら両親は離婚するかもしれないと、不安で不安でしかたなかったことが。

 けれど、なかなかその不安は現実のものにならなかったから、いつしか、これは私の妄想に過ぎない、そんなことは起こるはずがないと決めつけていた。なんの根拠もなかったというのに。

 どうして今なのだろう。私は今年受験生だ。大事な時期だ。それを考えてくれなかったのだろうか。子どものことを考えての放任主義だと思っていた。けれど本当はそうじゃなく、私たちのことなんて、ただ単にどうでもよかったのだろうか。

 そうじゃない――それはわかっている。両親の見えない愛情は、ちゃんと感じていた。

 けれど、私は両親を悪者にしたかったのだ、この時は。せめてもの反抗心だった。両親の目には映らないだろうけれど。

 一週間。それが、決断の期限だった。

 時間がいくらあっても、突きつけられた事実をどうにかすることは、私にはできない。

              * * *

 このことを亜梨沙に相談しようとも思った。けれど、相談しても虚しいだけかもしれないと、怖かった。

 亜梨沙の家族は、私から見れば絵にかいたような理想の家族だった。何度か会ったことがあるけれど、お父さんは気さくでアウトドアが好きで、お母さんは穏やかでお菓子作りが得意で――そんな両親を持つ亜梨沙に相談したって、自分が惨めになるだけのような気がした。

 けれど、思わぬことに、亜梨沙から「話があるので会いたい」と連絡がきたのだ。母に離婚のことを告げられてから、二日後のことだった。

 私は出かけていった。支えがほしかったのだ。優希も私の支えだけれど、私が守るべき対象だった。

 私は誰かに守られたかった。それを亜梨沙に期待していたわけではなかったけれど。

 亜梨沙に会ったのは、駅の近くにある公園だ。昔、一度だけ、家族四人で来たことがあった。私は小学生だったろうか。それとも、まだ学校に上がっていなかっただろうか。でも、あの頃はまだ、両親の仲は良いほうだったのだ。

 胸の痛みを抑えつつ、私は亜梨沙に向き合った。公園に人影はなかった。だから、亜梨沙はここを選んだのだろうか。あまり、他人に聞かれたい話じゃないから。それを知ったのは、この数十秒後だったけれど。

 「ごめんなさい、真奈、わたし――駿河くんと付き合ってるの」

 三角関係の話なんて、亜梨沙にしてみても、他人に聞かれたい話じゃなかったろう

 
 両親の離婚については、途中で頭から吹っ飛んでしまった。亜梨沙の告白が衝撃的過ぎたのだ。

 どうして今、それを言うのだろう。親の離婚が決まったばかりで、これからの生活を選択しなければならなくなった私に対して。その事実を亜梨沙が知るはずもなかったとはいえ。

 運命というものは、残酷だ。

 私は亜梨沙の話を聞き終えても、ほとんど何も言わなかった。責めたりもしなかった。本当は、思いっきりなじってやろうとも思ったけれど。残念なことに、そんな気力は残っていなかったのだ。

 なにも言わずに、私は亜梨沙に背を向けるしかなかった。

             * * *

 そのまま、私はいつもの癖で、あの商店街に行った。そこはいつもと変わらなかった。私の日常が崩れ去っても、変わることなくそこに存在して、人々は行き交っていた。

 妬み嫉み――そんな感情が湧いてきて、その捨て場に困った。

 どうして私だけが、こんな目に遭わなくちゃいけないんだろう? どうして彼らの日常は、私みたいに崩れ去らないんだろう?

 ひどい、悔しい、つらい、痛い。

 私は、無力だった。

 両親の離婚は、どうにもできない。私は私なりに、家族だと思っていた。両親の間が冷め切っていても、会話がなくても、それでもそれが、私の家族だった。その関係性が好きになっていたのに、父も母もそうではなかったのだ。本当は、嫌いだったのだろうか。尋ねてみたいけれど、怖くてできそうになかった。嫌いだったと言われてしまったら、私の存在自体が崩れてしまうような気がした。自分を自分で追いつめる必要はない。

 だから、私は、黙っているしかないのだろう。

 亜梨沙と駿河くんのことだって、どうにもできない。亜梨沙のことは許せないかもしれないけれど、それでも駿河くんは、彼女を選んだのだから。

 私は一体、友情と恋、どちらが破られて悲しかったのだろう。駿河くんに彼女ができたことは、悲しくて悔しくもある。けれど、彼に近づこうとしなかったのは、私なのだ。駿河くんに対する思いがどの程度のものだったのか、今ではもうわからなくなりそうだ。

 それよりも、もしかしたら、亜梨沙の裏切りのほうがショックだったかもしれない。駿河くんのことを好きになったのなら、正直にそう打ち明けてほしかった。打ち明けられるのもショックだけれど、隠し事をされて、あとで実はこうだったと告げられるよりはマシだと思う。

 そして、謝られたこともショックだった。亜梨沙は誠意の気持ちで言ったのだろう。けれど、謝られた私が惨めになることを、亜梨沙はわかっていないのだろうか。彼女の謝罪は、相手より優位な立場の者がする謝罪だった。

 傲慢だ、自己満足だ。卑怯だった。――といっても、謝罪の言葉がなかったら、どうして謝ってくれないのだと思ったかもしれない。卑怯だと言ったかもしれない。

 ……めちゃくちゃだ、私の言葉は。ただ、自分の非を認めたくないだけなのだ。すべて亜梨沙のせいにしたいのだ。

 ……亜梨沙に、苦しんでほしいのだ。

 私は、無力だった。心の中で恨みの言葉を吐くことしかできず、その言葉は誰に届くこともない。

 世界は自分だけのものじゃないのだと、初めて、身をもって体感した。もちろん、頭では理解していた。けれど、今まで、自分中心でしか物事を考えていなかったようだ。

 世界は、私ひとりだけに振り向いてはくれない。

 その事実が、こんなにも悔しくて虚しい。

 こんなにも簡単に、私の日常が崩れ去ってしまうなんて。

 この広い世界では、ちっぽけなこの私の声なんて、どこにも届かない。

 抗っても、どうしたって、崩れ去ってしまった日常を取り戻すことはできない。

 寒気がする。どうしようもない、深い闇に呑まれた無力感と虚無感。

 未来を想像しても、なにも見えない。黒い闇があるだけ。いや、これを黒と言っていいんだろうか。黒と呼ぶにはあまりに深すぎる、実態のつかめない、手を触れられない色だ。苦しい。こんな気持ちが、ずっと続いてしまうのだろうか。

 どうして世界は、こんなにも理不尽なのだろう。

 どうして私は、こんなにちっぽけな存在なのだろう。

 私の日常は戻らない。どんなに願っても、けっして叶わない。それが、現実であるなら。

 それなら、いっそ……

              * * *

 その女性には、なんと話しかけられたのだろう。

 ……靄がかかったようで、意識が記憶に潜ってくれない。たぶん、優しい言葉をかけられたんだと思うけれど。

 気づくと見知らぬ家にいて、その女性と向かい合っていた。彼女の家だっただろうか。

 女性は、美しい人だった。といっても、こちらも靄がかかったように顔はほとんど覚えていなくて、はっきりしているのは首から下の部分だけだったけれど。

 それでも、美人だという印象を抱いたのは覚えている。それと、二十代前半だろうか、憧れていた姉という存在にその人を重ね合わせていて、話しやすかったことも。

 私は彼女に、自分の身に起きたことを話していた。見知らぬ人だったのに、まったく抵抗はなかった。どうしてだろう。

 女性は、親身になって聞いてくれた。そして、私が話し終わったあと、こう言ったのだ。

 「あなた、自分だけの世界が欲しいのね」

 声も、聴きほれてしまうような響きだった。どんな声だったか記憶を手繰り寄せようとすると、消えてしまうようなものだけれど。それでも、例えるならば、鈴を転がしたような、甘ったるくもなく強すぎることもない、心地よく聞ける声だった。

 私は、頷いていた。

 すると、女性は頬に手を当て、考えるような仕草をした。彼女がひとつ仕草をするたびに、なにかの香りが漂ってくる。まるで、香をたいているみたいだった。なんの香りなのだろう、と私は考えたけれど、よくわからなかった。

 「……実を言うとね、あなたの願いを叶える方法はあるの。でも、危険が伴うから、あまりお勧めしたくはないんだけれど……」

 願いを、叶えられる? 本当に?

 危険、という言葉が頭をかすめた。けれど、そのことについて考える前に、女性が言葉を続けた。

 「――それでも、叶えたい?」

 魅惑的な響きだった。私はその時、なにを考えていたのだろう。これから起こることについて、少しは考えていたのだろうか。

 もしかしたらこの時、私は女性に誘導されていたのかもしえない。それとも本当に、私自身が望んだのか。今となってはわからないけれど、私はその時、頷いてしまったのだ。

 「……叶えたい」

 女性が、微笑んだような気がした。

 彼女は立ち上がり、ティーカップを持って戻ってきた。それを、私の前に置いた。

 「これを飲みなさい。そうすれば、気持ちが楽になるから」

 見つめるティーカップの液体は、琥珀色をしていた。両手で包むようにすると、温かさが手のひらに伝わってくる。夏だけれど、温かい飲み物を飲むことに抵抗は無かった。今の季節が夏で、周囲は暑さに見舞われているなんて、忘れていた。

 香のような香りのほかに、甘い匂いが鼻腔を刺激した。その匂いも液体と一緒に、喉に流し込む。

 甘く温かい飲み物。香のような香り、甘い匂い。それらは、いつまでも記憶の底に残っていた。

 それから、女性の声も。

 「あなただけの世界……生かすも殺すも、あなた次第。楽しんで、そしてどうぞ気を付けて――」

 靄が立ち込めてくるように、意識がもうろうとする。それからあとは、なにも覚えていない。

 現実での記憶は、そこでぷつんと途切れていた。

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