小説 私だけの世界 Ⅲ、崩壊⑦
先生によると、亜梨沙は風邪で休みだということだった。
本当に風邪なのかどうか、私にはわからない。けれど、私は、どうしたらいいのだろう。いや、できることなど、今の状況ではなにもないんだけれど。
学校が終わったら、亜梨沙の家にお見舞いに行ってみようか?
今朝の私なら、迷わずそうしただろう。でも、今は。
私は、亜梨沙に避けられている。それは、たぶん、確定で。
とすると、私は……どうしたらいいんだろう。
こういう場合、どう対処するべきなのだろう。わからない。泣きたかった。
こんな風に拒絶されるのは、初めてかもしれない。親友だと思っていた人に拒絶されることが、こんなにもつらいものだなんて、知らなかった。
誰とも話したくなくて、私はそっと教室を出る。休み時間ということで、廊下には生徒が結構いた。トイレにでも行こうかと思った。
私の所属する一組からトイレまでは、近い。けれど、故障中で使えない個室がふたつもあって、混み合ってしまう。だから、私は反対側の西階段のほうのトイレに向かう。
廊下を横断するので、否応なしに各教室の様子が目に入る。三組の教室に近づくと、不意に、そこは駿河くんのいる組だということを思い出した。今日は亜梨沙のことが気になっていて、駿河くんのことをすっかり忘れていた。
いったん思い出すと気になってしまって、私は三組の教室のドアを見る。すると、廊下の壁に貼られた掲示板の前に、その駿河くんが立っているのに気づいた。
はっとする。
彼と話しているのは、彼のそばにいるのは、いつものふたりの男子じゃなかった。
女の子。綺麗な髪をしていて、気が強そうな、美人だった。
誰、と考えるまでもなかった。親しげなその様子、まるで互いのことを昔から知っているような、そんな気安い雰囲気。
橋田さん、なんだろう。
私は今まで、彼女を見たことはなかった。でも、気づかなかっただけで、見かけてはいたのかもしれない。てっきり、違う学校なのだと思っていたから、気づかなかったのかもしれない。
でも、そんなことよりも、ふたりから目を離せない。
がやがやと周りは騒がしいはずなのに、なぜか、ふたりの会話が明瞭に耳に飛び込んでくる。
「――そういえば、スマホのカバー、割れちゃったんだって?」
「あ、うん、でも」
駿河くんは周りを気にしながら、ポケットからスマホを取り出した。そして、その裏面を彼女に見せる。青い空に白い雲、そして一本の木。
「あ、変えたんだね、きれー」
彼女は、相手をよく知っている者に特有の口調で言った。
「そういうの、好きそう。でも、前のカバーはシンプルだったから、こういうのを買うの、意外でもあるなぁ」
「ああ、それは」
駿河くんは眩しい笑顔を見せた。それが、少し照れくさそうに見えた。いつもの友人たちといるときには見たことのない、その表情。
「もらったものだから」
ああ、と思う。私は何も知らなかった。
もしかしたら、あの五日前に見かけた駿河くんは、あのあと橋田さんと会ったんじゃないだろうか。待ち合わせの相手は、彼女だったんじゃないのか。
心臓に水をかけられたような、そんなヒヤッとした気分になる。
本当に、泣きたい気分だ。
私は足早に、ふたりの前を通り過ぎる。そのとき、橋田さんの、
「亜梨沙ちゃんのことだけど――」
という言葉が聞こえた。
亜梨沙。
彼女は、駿河くんと橋田さんが一緒に出掛けたことを、知っているのだろうか。私に連絡してこないのは、それが私にばれることを恐れて? 私に気を使っているの?
それとも……
そこまで考えて、私は最大級にヒヤッとした。
もしかして、亜梨沙は、ふたりのデートに協力したんじゃないだろうか?
* * *
気持ちが悪い。それとも、気分が悪いと言ったほうがいいんだろうか。
泣きたいわけじゃないし、涙も出ない。けれど、心が鉛のように重い。
あの少年におかしなことを告げられたときも、かなり気分が沈んだけれど、今回はまた違う落ち込み方だ。
なにをする気力もない。なにも考えられない。頭の回転が鈍くなったように、自分の身体を動かすのにも億劫だった。
今回は、私の様子がおかしいことを、誰にも気づかれてほしくなかった。なにがあったか訊かれても、絶対に話せない。そして、上手くごまかせる自信もなかった。
幸い、放課後になっても、だれも私の様子がおかしいとは気づかないようだった。ほっとした。だれかが敏感に、私の様子に気づくかもなんて、少し自意識過剰すぎたかな。
大勢の生徒が帰っていく。私は今すぐにでも自分の部屋に帰りたかったけれど、あの生徒たちの中に混じって帰っていく気はしなかった。
私はトイレに逃げ込む。西階段のほうではなく、一組から近い東のほうのトイレだ。幸運なことに、故障中のトイレを抜かしても、個室は結構空いていた。そのなかのひとつに入り、鍵を閉める。
ほっと息を吐いた。
私は右手を両目に当てる。視界が暗くなる。私はしばらくそうしていた。
何度目か深く息を吐くと、少し落ち着いてきたようだった。
私は、ポケットに入れてきたスマホを取り出す。
画面に表示された時刻を見る。まだ出ていくのは早いだろう。もう少しここにいるべきだった。
意味もなく画面を見つめていると、画面から光が消えて真っ暗になった。設定していた一分が経過したのだろう。
ため息をついて、スマホをポケットに仕舞おうとした。そのときだった。
画面に再び光が灯った。
はっと息をのむ。
メッセージの受信。送信主は――亜梨沙。
驚いて、咄嗟にメッセージを開いてしまった。
心臓は大きな音を立て、飛び出してしまいそうなほど、脈打っている。
亜梨沙からのメッセージは、一度にたくさんの言葉が書かれて送られてきていた。
真奈、メールを返せなくてごめんなさい
いろいろ、わたしなりに考えたいことがあって、
今日まで引きずってしまいました
真奈はなにも悪くなくて、わたしの問題だったの
心配かけて、ごめんなさい
それで、わたしなりに結論を出したので
真奈に会いたいです
三階の西階段の正面に、空き教室があるので
わたしはそこで待っています
まず、真奈は何も悪くないと書かれていて、正直ほっとした。
なぜ、結論を出したから私に会いたいのか、どうして、休みだった亜梨沙が指定した場所が、学校の空き教室なのか、それはよくわからなかったけれど。亜梨沙は、学校にいるのだろうか。
相変わらず簡潔とは言えない文章だったけれど、久しぶりにそれを見られて、なんだか懐かしい。
――会いに行こうか。
駿河くんと橋田さんのことで、訊きたいこともある。本当は、知るのが怖いけれど。
でも、私は、亜梨沙を信じたい。このメッセージで、亜梨沙に間接的にだけれど触れて、そう思う。
もしかしたら、駿河くんたちとは全然関係のない悩みがあって、それで亜梨沙は落ち込んでいたのかもしれない。そして、このメッセージは、その悩みを私に聞いてほしいということしれない。
すべてがすっきりしたら、私の悩みも打ち明けてみようか。あの少年のこと。
さっきまでの、解決まで道筋が見えない状態とは違って、亜梨沙のほうから、解決に向けて道を示してくれたのだ。
視界が明るくなった気がしたのは、もう手を両目に当ててふさいでいないからでも、ケータイ画面の光のせいでもないだろう。
行こう。これで逃げたら、きっと、これから先も亜梨沙から逃げ回ることになってしまう。
そう、会いに行くことが正しい道だ。
私は逃げない、と心の中で呟くと、なんだかかっこよく聞こえて、照れた。不覚にも、私すごい、とか自分自身で思ってしまった。
私は逃げない、ともう一度、今度は小さく声に出して呟いた。
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