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占エンタメシリーズ③ 浅田次郎『蒼穹の昴』 は嘘の予言で運命を切り拓いた少年の物語

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 直木賞作家であり、日本を代表するストーリーテラーである浅田次郎さんの小説『蒼穹の昴』は清朝末期を舞台に占い師の老婆・白太太(パイタイタイ)の次のような予言から始まります。

幼き糞拾いの子、小李よ。
汝は必ずや、あまなく天下の財宝を手中に収むるであろう。

 父を亡くし、極貧の中で母と妹と身を寄せ合って糞拾いで生計を立てる少年・李春雲(リイチュンユン)は荒唐無稽と思えるこの予言を信じ、自ら刀をとって男根を切り落とし、都へ出て京劇の俳優になります。そして抜きんでた演技で清国を支配する西太后の目に留まり、紫禁城に入って立身出世を遂げていくのです。

 一方、幼馴染の兄気分だった梁文秀(リャンウエンシウ)は科挙の試験を受け、最上位の成績で進士登第を果たします。そして西太后の甥で清の第11代皇帝光緒帝に仕え、イギリスやフランスなどから王朝を守り、崩壊を食い止めようと、改革派の俊英として春雲と敵対する立場に立つようになります。彼らがお手本としたのは、徳川幕府を倒して近代化を押し進めた明治政府でした。

春雲のかわいさと境涯に同情し嘘の予言を告げた占い師

 読者は冒頭の白太太の予言を信じ、春雲がどん底から這い上がれるのは、春雲の守護星が昴で、清王朝の最盛期を創出した高宗乾隆帝弘暦と同じくらい強運の持ち主だからだと信じて読み進めていきます。ところが、文庫本の第2巻で白太太の予言は嘘であったことが判明するのです。本来は飢えて死ぬ定めであった春雲に偽りの卦を告げたのだと。驚く文秀に老婆は嘘をついたわけを語ります。

 かわゆいやつじゃ。父に死なれ兄に死なれ、それでも決して笑顔を失わずに糞を拾うておった。母と病の兄と、幼い妹のために、あやつはいつも凍てついた街道を駆けまわっておった。そのようないたいけな子供に向かって、おぬしには何の夢もない。いずれ遠からず飢えてこの葦原に骸を晒すだけじゃと、一家もろとも凍え死ぬばかりじゃと、どうして言うことができようか。

  文秀はその言葉に衝撃を受け、皇帝の早世まで予言した占い師の白太太がなぜ春雲だけに真実を告げることが出来なかったのかと尋ねます。すると老婆は驚くべき答えを口にするのです。

 わしは人間の力を信じておる。人間には誰しも、天上の星々をも動かす力が眠っておるのだと信じておる。だからわしは、薩満(シャーマン)の掟を破って、あやつに偽りの卦を伝えた

 挙人は上天の星に通じ、進士は日月をも動かすと言う。だが挙人や進士にそのような力がないことは、他ならぬおぬしがわかっているであろう。それでも、わしは信じたいのじゃよ。この世の中には本当に、日月星辰を動かすことのできる人間のいることを。自らの運命を自らの手で拓き、あらゆる艱難に打ち克ち、風雪によく耐え、天意なくして幸運を摑みとる者のいることをな

運命を転換した春雲には浅田次郎の人生が投影されている

 この「天意なくして運命を自らの手で摑み取る」ことこそ、浅田次郎さんが『蒼穹の昴』で伝えたかったテーマではないかと思うのです。浅田さん自身、9歳の時に家が破産し、両親が離婚して、親類宅を転々とした後、母に引き取られているので、大学にも進学していません。13歳で小説家をめざし、新人賞に応募しつづけましたが最終選考にも残らず、『きんぴか』が刊行されたのは41歳の時でした。足掛け30年近くも小説家を夢見て書き続け、「風雪によく耐え」てデビューしたわけです。

 私は春雲には浅田さん自身の人生が投影されているように思います。清国一のエリートで皇帝の参謀である文秀は、白太太に「万歳爺(皇帝)の側に仕えて宰相になる」と予言されますが、西太后との闘いに破れ、妹の玲玲とともに日本に逃れようと船に乗ります。この時、餓死する運命だった春雲は大臣に相当する大総管太監(ダアツォンクワンタイチェン)となっており、妹との約束を果たすために、杏色の轎に乗って、艀から二人を見送ります。

 科挙に首席で合格した文秀は日月を動かすことは出来ませんでしたが、春雲は日月を動かし、運命を自らの手で切り拓いたのです。

命あるうちに春雲のように「天をも動かす努力」をしてみたい

 『蒼穹の昴』で衝撃的だったことは二つあります。一つは先ほど言ったように、白太太の予言は嘘だったこと。もう一つは、実は春雲も予言は嘘だと知っていたことです。春雲はずっと人から豆や粥をめぐんでもらっていたので、白太太が自分に夢をめぐんでくれたことをわかっていました。豆や粥は食べてしまえばなくなりますが、夢は腹の中にずっとこなれずにあります。春雲は言います。

「お告げなんてそんなもんだ。運命なんて、頑張りゃいくらだって変えられるんだ」と。だから、白太太の予言のように皇帝の側に死ぬまで仕えるのではなく、自分がやったように生きてお告げを変えてみてくれと頼むのです。

 私は春雲が運命を変えられたのは、一つは男を捨てたことで出家状態になり、当初の魂のマップからずれたこと、もう一つは天が憐み、心を動かすほどの努力をしたことにあるのではないかと思っています。

 「天をも動かす努力」。命あるうちに、いつか自分もそう言える努力をしてみたいと思っています。それによって日月は動かずとも、自分で自分を誇れる人間になること自体、人生におけるめぐみなのですから。



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