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映画「ミッシング」2024年日本(@Tジョイ博多)

映画「ミッシング」2024年日本(@Tジョイ博多)

 自らの運命を切り開く人がいる。石原さとみはそういう方ではないか?自分がこうしたいという想いがあり、そのために動く。7年前に今の自分を変えたい、新たな段階に進みたいと思い、吉田恵輔監督を見つけ出し、吉田監督につなげるルートを見つけ、頼み込み、そうしてこうしたプロダクションが成立したらしい!石原さんはその7年間で結婚しこどもを生み、また仕事に復帰した。現在はこの映画が公開され、ドラマでは「デスティニ―」で検事の役をやり、主役を演じている。石原さん自身が、このように自らのチカラでキャリアをバリバリと形成していく人なんだと思う。常に今ではない高みに行こうとする姿がそこにはある。ホリプロも本作には予算を出している。こうして事務所も一緒になってアーティストでもある俳優と並走しながらやっていくというのが今後ますます芸能界のマネジメントは増えていくのではないか?「お抱えのタレント」ではなく「アーティスト」をマネジメントするエージェント的な役割がより強く求められる時代になったのではないでしょうか?
 吉田監督の映画で「ヒメノアール」という怪作がある。おどろおどろしいマンガの原作をほんと原作以上に映画の世界で作りあげていた。本作もかなり深いところまで追いつめられた様子が描かれる。しかし、不思議なことに石原さんがそれを演じるとどこか品が出てくるというのは彼女のキャラクターのなせる業なのか?それとも?
 僕の一番好きなシーンは弟(森優作)と姉である石原さとみが車を路側帯に停めて弟が姉に謝るシーン。心がえぐられるような気持になる。思い出すと今も心がしくしくとしたような感じになる。
 本作の企画はあの河村光庸さんだったことをエンドロールを見て知った。河村さんだからこうした映画が出来たのだろうか?河村さんは「宮本から君へ」の映画で文化庁が出演者の不祥事があったということで認定していた補助金を取り消したということがあった。その取り消しを不当だとして裁判を起して勝訴した。これは制作者にとっては当然だが、貴重な判例となった。しかし河村さんはその結果を見ないまま2022年6月11日に亡くなった。
 本作は河村さんが生きておられた頃に、企画が動き出したものなんだろう。本当にモノを創るのって「誰がやっているか?」ということに大きく左右される。

 小学校1年生か2年生の女の子「みうちゃん」が行方不明になる。石原さとみと青木崇高の夫婦は娘である「みうちゃん」をずーっと探し続けている。街頭で「みうちゃん」のビラをまき、TVの調査報道などに積極的に協力する。静岡の沼津が主な舞台。静岡にある地方局のディレクターの中村倫也はこの「みうちゃん、行方不明事件」を報道し続けており、何とかこの夫婦のチカラになりたいと思っている。しかし、事件から1年が経過してしまい目新しい目撃情報などがほとんどないなか夫婦はそれでも折れることなく「みうちゃん」の手がかりを探し続けている。何の手がかりも得られないままという環境下で石原さとみはさらに自身を追い込んでいく。まるで、本作の役作りと重なっているような。特にネットでの書き込み、SNSでの書き込みによって。名前がない世が誰かの投稿を見て、事実や詳細をしらないままの表層的な情報のみをおおげさに捉えて、激しい言葉でディスる。まさに世間の酷いところがティピカルに描かれる。
 並行して、メディアのことが描かれる。TV局がどのように事件を扱うのか?視聴率以外の指標がないまま売上などが報道でも主体となっていく構造!世間の見えない「悪辣なもの」を加速させる加速器のような役割を結果、果たしてしまうというジレンマ。現場の記者(中村倫也)とデスク(小松和重)の報道に関してのスタンスの違いが対比的に描かれる。この構図はマスメディアだけではない!多くの営利的な団体で起きていることではないか?いや組織というものが持つ性質と言えるのかもしれない。営利団体でなくてもそうしたことは起きる、と思わせるものがこの映画にはある。
 しかし、吉田は私たちの個々の人間の希望も見せてくれる。世間の匿名の非情な書き込みとは真逆の手助けが確かにある。それを見て私たちも生きる希望を見出せるのかも知れない。
 中学や高校の時に学校にいられなくなった、友人関係で悩んだ、その時にこうした映画を見て本当に癒された、と学生が私に語ってくれた。確かに芸術作品が持つ人への効用は確かにあると、彼らは私に教えてくれた。
 
 創作者はそんな人たちを救っているのかも知れない!

 そのためには真摯に作品に向き合い創作を続けること。嘘がすぐにバレる時代になった、SNSの発展でそれは加速している。そんな時代だからこそ、嘘のない制作をすることが本質的にモノを作る者たちの姿勢であるということが見えてくる。創作された映像は決してドキュメンタリーにはならなくなった時代。ドキュメンタリーや調査報道を演出することの是非も本映画では問われる。そんなことも含めて、まさに河村光庸さんらしい仕事なのかも知れない。

 そうしてミッシングは私の中で受け取られ、その物語は自己内部で醸成され新たな発酵が始まっていくのかもしれない。そのために問われるのは自身の自覚と覚悟やで!と言われているような気がした。上演時間119分。



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