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まなびとしての文化祭・高校演劇を観にいく

友人に声をかけてもらって、とある都立高校の文化祭を見に言ってきました。
その学校は、文化祭のクラス演劇がとても有名な学校で、とりわけ3年生の劇は整理券を取るために長い列に並ぶことが必要なくらいでした。学校の文化祭で!と思われることもあるかと思うのですが、内容としても中々に素晴らしく、並んだ甲斐もあったなあ、と思わせてもらえるくらいに面白かった。そして学校におけるPBLや探究学習として大変興味深かかった。自分は表現活動や、探究学習やPBLにも興味を持っているので、このような場はとても面白く、もちろん演劇自体も楽しんだのですが、その背景になる彼らの学習体験にも大いに興味を持ちました。

さて、ただ素晴らしい!と言っても何にも伝わらないので、どのようなところが素晴らしかったのかということについて考えを進めてきます。
単純に演劇として面白いという点だけではなく、心の発達のまさに途上の高校生の彼らが演劇をするということが生む面白さの部分が少なからずありました。もし質の高さを求めるのであれば、プロの劇団に観劇に行けば良いのですが、それとはまた異なる物を見ることができました。文化祭って今まで思っていた以上に大きな可能性を秘めているのかもしれない。


さて、まず観に行ったのは二年生の劇です。演目は「ウエストサイドストーリー」。アメリカの貧困層の子ども達の暮らす厳しい社会状況を背景に、若い男女の2日間のラブストーリーを描いた大定番の演目です。音楽はかのレナード・バーンスタインという点でも有名です。ロミオとジュリエットに着想を得た、と説明されますが、若い男女を阻む身分や立場の差、生死そのカタルシスが描かれる王道の演目です。大定番。ではどの点が良かったか?

・キャスティングがよかった

彼らが自分たちの持ち味を最大限生かすキャスティングをしていることを肌身で感じました。舞台は教室を半分に割って、半分が客席で半分が舞台なので、その間足先数十センチ。舞踊のシーンでは近すぎて心配になる程。そんな近いところで観劇してて思ったのは、彼彼女らの普段を知っているわけではないのですが、役として不思議ととてもしっくりときた、ということです。彼らは”演じる”ということをもちろんしているのですが、(もちろんその技術にしてはということもありますが)ほとんど気になることがなく、セリフがすんなりと入ってくる。役を演じるという時に、彼らのように、(おそらく)ほとんどが初めて演劇をする、という時には、個人が持つパーソナリティを鑑みた配役をするということはとりわけ大事なのだと思います。もちろんそれをするためには、彼らがテキストを深く読み解くことが必要です。

役を考える時に、ウエストサイドストーリーで重要なのは、明確な悪役がいない、誰もが血の通った複雑な思考を持つ人間であり、発展途上である、しかしそこで悲劇がおこり、発展途上の彼彼女らの心を動かす化学反応が起こる(しかし社会は変わらないのだ・・・)シンプルだけど余韻のある問いが彼らに残される、ということだろう。
要するに彼らは社会に翻弄される未熟な少年少女であって、役の中で背伸びをした振る舞いをしている、という役どころなのが絶妙だった。そして演じる彼らは演じる役の少し年上である高校2年生でまさに彼らも大人になる途上の青年少女だった。物語を読み解くにあたり、人間の未熟さ、そして争いはなぜ起こるのか(そして終わらないのか)、という主題について考察を深めて、それをどのように演じるか考え抜くということは、とても豊かな経験になるだろう。
そして、もちろんクラスで演劇に参加しているのは、演者として人前に立つ生徒だけではありません。そのためにおそらく道具係や脚本係、演出家とかがいるのでしょう。それぞれが持ち味を持ち寄って、一つの表現をしていくということがどれだけに豊かな学びになるかということは語るまでもありませんし、それぞれの個性を持ち寄り表現活動をしていくということは、とても面白いだろう。


・文脈を尊重する姿勢がよかった

自分は国語教育出身なので、もう少しこの演劇をその観点から深めると、元の演目の文脈を徹頭徹尾尊重している点がとても良かった。もう少し詳しく言うと、限られたアセットの中で、どのように自分たちなりの解釈を表現するか、を突き詰める設計が良かった。劇は20分程度なので、ダイジェスト版になるのだが、それを補うための人物相関図、絵本を捲るように作られた背景パネル(プーさんのハニーハントを想像すると良いだろう)など、短い時間でどこを表現するかを考え抜いて、その結果脚本ができて、そのための表現の工夫が見て取れた。

もし国語の活動とするのであれば、全体の物語を読み込んで、何が主題なのか考える。いくつか主題とそれを取り巻く小さな主題も見えてきて、そのためのテキストに鏤められた要素の効果を考察する。そして自分たちでそれを再構築する場合に、自分たちの表現の主題を何とするか、に基づいて、編集をしていくのだ。勝手にこんな活動を想像しているけれど、まさに読解力と情報編集力だ。
学習活動のインプットの成果をアウトプットするために、学びを導くものが大事にするべきなのは、たくさんあるが、そのうちの大きなものが以下の二つだ。

①制限を用意すること
②晴の場を用意すること

一つ目の制限を用意するということは、枠組みを決めるということであり、それは窮屈にさせることを目的としない。制限があって、その枠の中で何かをしようという時にこそ、焦点が定まり、一つの方向へ表現を高めるいうことができる。例えば川柳や短歌は最たる例で、音数という制限を設けることで、その中で表現を突き詰めていく、ということができる。高校生くらいになって、複雑な物事を考えられるようになってきたからこそ、ある一定の制限のなかで、知的に表現活動を楽しむという方が、学びの深さという点では質的に高まるし、何より楽しい。これは自分が時々する比喩なのだが、サッカーは手を使わないという制限(ルール)があるからこそ、難しさがあり、楽しいのである。著名なゲームデザイナーであり学者であるマクゴニガルも、ゲームを楽しくする4大要素のうちに、制限があるということを述べている。時間も場所も方法も自由、となると発散的になりすぎて、学習活動は密度という点では、濃度が低くなってしまい得ない。もちろん変数設定を全てを彼らに渡すという活動もそれはそれで価値のあることだ、重要なのはどこからどこまでを彼らに余白として渡すかである。この文化祭も学年によってその範囲がだんだんと広がって彼らが考えることができる余地が広くなっているというデザインがされているやもしれない。

二つ目の晴の場について、これは彼らにとっては年に一度のまさにこの文化祭のことだ。学校は地域に開かれて、一般の参加者が朝から並んで自分たちの演劇を見にきてくれる。そしてチケットが投票券になっていて、自分たちの演劇がどんなに素晴らしいものであるかフィードバックされる。1年生の頃は、チケットが早朝に完売する三年生の演目の練習の決起迫るものを見て、自分もあんな風に表現ができたらば、と思ったりするのだろう。
学習活動において、発表の場はいうまでもなく大事だ。一つ目の制限という意味で期日が設けられるという側面もあるが、何より自分の学習プロセスがどこに向かっているのか、どこまでに何をしなければいけないか、明確なモデルを見て、体験して、自分の表現を作り込んでいく、そのための目的地点して昨日し、一旦その目的地点に辿り着き、晴れの場を経験することで、それが次の学習活動に向かう活力となるような強烈なフィードバックシステムとして大いに有用だからだ。
High Tech Highという米国チャータースクールでPBLのモデルとして大きな成功を示している学校でも、同じように自分が年間を通して、知識を統合し、仲間と共にそれを表現(まさに演劇や、アート、複雑な相互関係を表現するギアなど)する場として、地域に開かれた祭りがある。これが彼らの一つの学びのサイクルのピークと内省の分岐点なのである。
文化祭はこのような晴の場としてとても有効で、彼らは心からこの文化行事を楽しんでいたように思える。(そうでない人ももちろんいるのであろうけど)





そして三年生の演目を見に足を運ぶ。整理券制度が今年から変わったらしく、ずいぶん楽にはなったと聞いていたけれど、こちらのチケットは結構並んで取ることになった。三年生には普通教室よりも広い、特別教室が割り当てられている。そしてもちろん満席だ。

演目は「山椒魚」をもとにして完全に書き下ろしたオリジナル脚本。こちらも大変興味深かった。2年生のウエストサイドストーリーが、王道を真っ当に、物語をしっかりと踏襲して、しかしその中で自分たちの個性、持ち味を生かして、作っていった演目だった。一方で三年生の演目は、完全に自己表現にチャレンジしたものでした。

王道を狙って、万人にうけるような脚本ではなくて、自分たちが表現したいこと、伝えたいメッセージを発信するためという目的があって、そのあとで演劇という手段をとった、というように見えました。これが一つの表現のあるべき姿で、それは自分たちの表現したいことファーストであるということだ。一つの、ということは、これが例えば演劇や詩やアートというシーンの中で、ということだ。明確に何かを表したい、それを「いかに分かりやすく伝えるか?」というプロセスを踏むだけではなくて、その先に「何を表現したいか、それを元にどう表現すべきなのか?」というプロセスがあるのだ。分かりやすさを目的にすれば、それはある種一つの表現に収束していくが、メッセージファーストの時に、表現がそれまさに彼ら自身になるのだ。

こちらの劇の方が、その意味では、ウエストサイドストーリーよりも完成度という点では余地があったと、もしかしたら言うことができるのかもしれない。しかし、可能性、発展性や解釈の多様性、そして何よりも、等身大の表現であることは圧倒的だった。これはまさに高校生が一つの場所で一緒に生活して、その中で現在進行形で(そこで舞台に立って声を張り上げている時にも)色々なものを感じ取っている、その彼らたちだからこそできる表現であると言えるだろう。

受験生の主人公たち。彼らが冒頭でやりたいことがわからない、見つからない、夢ってなんだっけ?という主題を発して、問いを共有し、向き合い続ける人たちが代わる代わる台詞を捲し立てます。演劇としてはそこそこ前衛な作り込みでした。そこの脚本の詳細とかは一旦おいておきますが(とはいえくすっと笑えるポイントを作っていたり、仕掛けも面白かった)彼らが表現したいことを自由にセリフにおいて鏤めて発散する、というスタイルをとっていたのは、大変に興味深かった。高校生という時間は発散的で刹那的で、彼らの発達は非常に微妙かつ繊細で、一方向的ではない。心の動きとしては人生の中でも最も激しい時間、そしてそれを限られた時間で表現するためには、マシンガンのように捲し立てる言葉たちが必要だったのであろうし、同じフレーズをあたかも同じ意味のように、しかし微妙に発話者によって意味が異なっている形で、繰り返し続けるということが必要と彼らが判断したのかもしれない。


・抽象化して、問いを作り、問いに向き合うこと


また学習活動に引きつけて考えてみると、主題の抽象度をあげるということがこの演劇における面白さだったと思います。この演劇の底(おそらく問いの出発点)になったのが井伏鱒二『山椒魚』でした。これまた有名な、とりわけ日本の近代文学の短編の中では最も有名な作品のうちの一つといえる佳品です。

とある高校で「山椒魚」をテキストとして一単元分の対話の授業を作り、実際に高校生と一緒に対話を通してこの山椒魚を考えるということをしたことがあるのですが、これは高校生の彼らにとっては(もちろん大人にとっても)非常に解釈が分かれる作品でした。なぜ対話という形をとったかというと(自分自身が始めた実戦ではないので追試ではあるのですが)対話するに値するテキストだからと言えます。何時間もずっと対話をし続けることができる程に(もちろん色々な下準備は必要ですが)様々な意味を読み取れる。あらゆる要素が解釈によって異なるという点では、教科書に掲載されている高校3年生国語の授業の一つの到達点ともいえると思います。そして教科書に長らく採択されている、というのはその懐の深さゆえとも言えるでしょう。

この文化祭では、山椒魚が閉じ込められた岩間を模したであろう、受験生の勉強部屋が常に舞台になり、その中で倒錯的とも言えるめくるめく場面展開がされる。これは多分演劇好きな生徒の工夫だろうけれどこれは実に効果的だった。

そして心から練り上げた脚本だからこそ、セリフは実に彼らの主張として心に入るものに多くはなっていたし(特に主役たち)捲し立てるような長台詞ももはや楽しげにこなしていたのは印象的でした。

まず物語の示すものを読み取り、そこからさらに自分たちが抱える主体的な問いに引きつけて考える、ということが彼らの表現活動をさらに高次にしている要因でした。模倣から、自己表現へと進んだのです。

自分から表現を生み出すということはとても難しいことです。だからこの文化祭では、どの演劇にも元となる脚本があるのでしょう。(これは制限がある方が楽しいということもあるでしょうけれど)
この文化祭を経験した彼らたちは、社会に出て行った時に、自分がゼロから表現をする、自分自身を内省するということに向き合う土台にはきっとなるんだろうなと思います。

「守・破・離」とは言いますが、一年に一度、三年間の学校生活で三度巡ってくる学校の演劇のなかでそれを試みようとしているのが、この学校の文化祭であったように思います。

学校の中で学習活動を構成する時には、その単元が目的とする力を伸ばすのにマッチしたテキストを使います。これはこのテキストが元から持つ力を発射台にするためです。それは(一般的には低学齢の際には)彼彼女らの生活に根差した共感を生む物語であり、(より発達した学齢では)社会の重要なファクターについて語られた論説であり、誰もが解釈をある部分では渡されている詩である。
それらのテキスト自身が力を持っていて、そして若い彼らの思考を持って解きほぐし、また学習プロセスを伝って、(典型的には整理・分析・再構築して)彼らの成長を促すのである。とりわけ国語が目指すのは、読解力だけではありません。PISA2018の国語力低下が話題になりましたが(PCスキルの面と指摘されますが、実際PISAほどの調査ならば有意に下がったことが説明できるはずです、そして測定能力の情報活用能力の側面の追加も要因でしょう)、国語が責任を持つのはそういったスキルセットの部分だけではなくて、もっと人間的な陶冶、具体例としては、他者(それは二人称だけではなく、三人称、そして社会)への想像力、思いやりを育むこと、などを育てていく必要があります。言葉とはすべての学習活動ひいては人間が社会的存在として生きていくための重要な基盤です。言葉を育てていく、精緻化していくことはそれすなわち人格を作っていくということに深く結びついています。人間は育つと言葉も育っていくという側面が語られがちですが、少なくとも言葉が育つことで、人間が育つということも考えられるでしょう。

国語科で学んでいる時には「どのような言語活動を構成するか」ということから学びを構築することを、教授と現場の先生とともに学んできました。なぜなら従来はどの教材を使うか、が先であったのですが、これからの学びでは、より活用的な側面が重視されてきているからです。国語の観点である、読む・聞く・話す・書くのどの技能を使うのか、質的な側面で、どのようにそれを伸ばすことをするのか、言語活動を設定して、テキストはじめ、学習の構成要素を考えるわけです。

その点、この文化祭というものが、一つの言語活動として、伝統になっていることは、大きな学校の資産であると言えます。一つの言語活動の学びの型が、先生依存ではなく、文化として継承されているのです。彼らは先輩の演劇を見て、来年の自分たちの学習モデルとして活用し、来年のその日に自分たちが演劇することを想定して、練習に励み、遂に舞台に立って、人前で表現するという経験と、強いフィードバック、動機を得て、来年に向けて自分たちの演劇をブラッシュアップする機会に向けて、内省し改善点を考え、最終学年に向かうのです。

学校行事が持つ、学習活動としての可能性は多分思われているよりも大きいと思います。自分は国語の観点でこの行事を見ましたが、もちろん他の教科の観点もあるはずです。例えばウエストサイドストーリーは世界史の観点が必要になるでしょう。もちろん学びを教科の枠組みに当てはめる必要はありません。彼らが社会で必要とするであろう、ソフトスキル。例えば、自分の活動を内省して次の行動に生かす力、仲間と個性を持ち寄り、強みや弱みを踏まえそれぞれの持ち味が最大限発揮されるように協働する力が育まれることでしょう。

そしてその時に大事なのは、日頃の授業で培った知識がどれだけ活動が結びついているか、ということです。「活動あって学びなし」という言葉が2015年ほどにアクティブラーニングが一般的に流行っていたときに、言葉の上部だけをすくって、ただ活動だけをさせることに重きが置かれた授業を揶揄する言葉として使われましたが、ただ楽しく劇をする、だけではなくて、高校段階ではそれにふさわしい認知プロセスを経た学びをする必要があって、それをデザインするために学校の先生がいるわけです。本人たちはとても楽しんでいるのだろうけれど、その裏側にはきっと先生たちの頑張りがあるんでしょう。すごいなあ。

さて、自分はひとりの観客でしかなかったので、実際のところどうなっているのかとんと知らないので、彼らの表現活動を見て聞いて思いを巡らせた文章なので、実のところが気になるところですが、自分にとっても学びがとても深かったです。さて自分だったらどんな演劇をするだろうな。

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