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「のほほん顔」に惹かれて――太宰治『走れメロス』

 太宰治って人に好かれたんだなあと思った。太宰治好きですか?今でも何かと大人気だと思う。『文豪ストレイドッグス』の魅力的なキャラ始め、「太宰」「太宰」とみんな話している。

 今回読んだ新潮文庫の『走れメロス』にはメロスほか8編の短編が収録されていた。なかでも彼の人気ぶりを示すのは「帰去来」だ。「人の世話にばかりなって来ました」という一文から始まる。私生活の諸々や度重なる留年で兄とかなり仲が悪くなり、家族からの援助も絶たれたらしい太宰。けれど、青森の幼少期から知っている2人の男性が常に助けてくれるのだ。本の出版祝いのため着物を用意してくれ、兄に気づかれないよう故郷を訪ねる手助けもばっちり。太宰いわく、それでも太宰本人は「のほほん顔」。「のほほん顔」なんて書くところもまた「憎めない」って感じだ。
 どうしてか助けたくなる人だったのかな。書き方も含めて太宰が太宰たるゆえんというかこちらが期待する太宰像ができているというか。東京で住んだ街を振り返る「東京八景」を読むと「どうしようもない人だ」と思うけれど、今の時代に読むとその「どうしようもないな」が好ましく思える気がした。だって今はあまりに「いい子」に振舞わないといけないから。本当に、「いい人」ばっかりだ。身も蓋もないことを言うと太宰の小説に書かれていることはSNSに書けば炎上すると思う。読んでいて「それはどうなんだろう」と感じるところもある。でも、「いい人じゃないぐちゃぐちゃの面」を自分に都合よく編集して書かない、ということはとても難しいのだと思う。今なら私のような人だって自分のだめな部分を「さらけ出す」ように書いて発信することはできるけれど、自分の内側に閉じたものになってしまう。でも太宰治の小説は閉じてはいない気がするのだ。なんて私が書いてもせんないけれど。

 「走れメロス」は疾走感のある語りでお馴染みだが、ユダが語り手の「駈込み訴え」も畳みかけるような調子でどきどきした(クリスチャンとしてはどう捉えられるのだろう)。

 いい短編集だったが、解説に書いてあることがとても残念だった。女性作家には「女生徒」のような作品は書けず、「そこに文学の秘密があるように感じる」(p.291)という一文には疑問を抱く。時代もあるだろうが、こうした書き方をされることにはがっかりだ。

『走れメロス』
太宰治 新潮社

 

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