『クイーンズ・ギャンビット』と「女ことば」とフェミニズム批評

今日は国際基督教大学ジェンダー研究センター主催のイベント『フェミニストとして書き、訳し、出版する』をZoomウェビナーで視聴した。話し手は作家の松田青子さん、翻訳家の小澤身和子さんとフリアナ・ブリティカ・アルサテさん、エトセトラブックス代表の松尾亜紀子さん。

 内容は4人が翻訳・執筆・出版を通して感じ考えたフェミニズム、それぞれの経験や日本の文学・出版をめぐる問題点について。まだまだ、フェミニズム文学に対するちゃんとした批評やフェミニズムを意識した翻訳が少ないという話があった。例えば「女ことば」。もう既に言われていることだけれど、特に映画・文学の「女ことば」はあまりに氾濫している。

 私は去年、小澤身和子さん訳の『クイーンズ・ギャンビット』(ウォルター・テヴィス 新潮社)という小説を読んだ。ネットフリックスでドラマ化もされた、孤児院の少女がチェスの才覚で自立していくフェミニズム小説である。読書会で読み、小澤さんの話も伺うことができた。

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 主人公ベスの自立、孤児院で出会う黒人女性ジョリーンとの友情(恋愛とも読める)、ジョリーンが受けた差別、ベスを引き取ったアルマの葛藤とベスとの関係など、フェミニズム小説としていろいろな観点から話せる『クイーンズ・ギャンビット』。そして日本語訳の話をするなら、ベスの話しことばが「女ことば」でないことが、私はとても嬉しかった。読書会でもそのことを伝えられずにはいられなかった。

大抵の海外小説の翻訳では、女性は「~だわ」「~よ」と「てよだわ言葉」を使う。使うことになっている。歴史・背景があり*、「てよだわ言葉でないと不自然」な域にまで達してしまっていることも分かる。でも、違和感は拭い去れず、むしろ年々不快になってきた。特に男女差別や性役割を主題にした話の時に主人公が「女ことば」を使っているとがっかりする(抑圧を示すためにわざと「女ことば」で訳す、という方法もあるかもしれない)。
だからベスの自立と男社会のチェス界での闘いを描いた『クイーンズ・ギャンビット』で、彼女が今を生きる女性たちのことばで話していることが嬉しかった!そして「女ことば」から解放されると、こんなにも真っ直ぐ怒りや葛藤が伝わってくるのだと感動した。「女ことば」では遮られてしまっただろう思いが、染み込むように伝わってきた。ベスは理不尽な状況に怒り、自分の弱さに葛藤し、もがきながらチェスプレイヤーとして頭角を表していく。アルコールやドラッグ依存の問題もあり、けしてクリーンで完璧な存在としては描かれない。そこがとても面白い。ベスと読者の私では生きている時代も背景も全然違う。でも、私が普段使うことば使いで話すベスに、読んでいる間共鳴していた。日本語で読めて良かったと思った。
「「女ことば」じゃないと雰囲気が出ない」と言う人がいれば、ほら!と『クイーンズ・ギャンビット』を差し出したい。

 また、イベントでは、本の「解説」でもフェミニズム小説であることを無視したりバイアスがかかった説明をしたりといった問題があることが指摘されていた。
私は文学とフェミニズムを学んでいるため、「なんの役に立つの?」と聞かれることが多い。法学や科学に比べて「役に立って」いるように見えにくいらしい。最近も「意味ない」と言われた。でも今日のイベントを聞いて、「フェミニズムの視点からの批評と翻訳」は大切だなと改めて思った。フェミニズム文学がきちんと評価されなかったり、見落とされたりすることがあるから。私はまだまだではあるけれど、方向は間違っていないし、フェミニズム批評を続けていこう、と思えた。

そして自分の修論を出版したい。自費出版てできるのだろうか。「日本の中のオリエンタリズム」について書いていて、自分ではすごく面白いと思うのだけれど。

*「てよだわ言葉」の歴史は中村桃子『女ことばと日本語』(岩波書店)に詳しい。

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