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アニー・エルノー『嫉妬/事件』

映画『あのこと』が話題になっている、アニー・エルノーの『嫉妬/事件』。「嫉妬」と「事件」(『あのこと』原作)の二編が収録されている。

嫉妬(堀茂樹・訳)


 原題の「L'Occupation」が指すとおり、語り手の脳内を支配する、別れた恋人の今の恋人のイメージが延々とつづられる。「L' Occupation」(日本語だと「占拠」か)ということばがぴったりなのだ。語り手は恋人よりその相手の女性のことの方を考えているのではないかと思う。妄想し、怒り、調べてしまう。恋人への嫉妬に限らず、何かが頭を支配して離れない状態を表すのに、これほど適したことばはないと思った。たとえば不安に陥っているときは、その不安をかきたてる対象のことを、本作の語り手と同じくらい執拗に考えるのではないだろうか。「彼女は車の運転ができない、免許を取ったことがないんだと聞くと、それもまた、通俗的でない本物の知識人のしるし、実用的なものに対する無関心という優位性の証であるように感じた」というくだりなど見事だ(p.57)起こってもいないこと、いるかわからないことも妄想し、それで頭が満たされてしまう。その状態を、他人を通して追体験するような小説だ。

事件(菊地よしみ・訳)


 「事件」でも、語り手を通して"事件”を追体験した。中絶が「違法」とされていたフランスで、医師に断られ、中絶してくれる人を探し行うまでが描かれている。妊娠(ということばを語り手は使わないが)の不穏な感じや中絶の痛み。これは読み手が「女性の身体」をもっているとされるかされないかにかかわらず、読んでいれば身体的に迫ってくる恐ろしさや痛みだと思う。「妊娠」が祝うべき楽しいもののようなイメージだけが氾濫するなかで、語り手が「自分の状況を考える際に、それが指し示す言葉―"子どもが生まれるのを待っている"とか"妊娠”という言葉(中略)は使わなかった」(p.108)と書いているのを読み、ここがとても大事な部分ではないかと思った。「女性は妊娠や出産があるので」とまるで女性が一人で妊娠するかのように言われる社会では。そして「子ども」に何かあれば、女性だけが悪者にされる社会では。読み手の私が住む、子どもを産むことは奨励されるのに、一方で多くの人が若くして自分で死を選ばされる国では。話が広がり過ぎてしまったかもしれない。でも生まれてきた人が大事にされないことと、「中絶」はもちろん他の話でも、特定のグループの人から権利が奪われていることはつながっている気がする。

どちらの作品でも、アニー・エルノーは「書くこと」への意志を丹念に書いている。女性が自ら語る、語り直す作品はフェミニズム小説だと思う。これを書くことが必要なのだという意識が漲っており、私なんかがそれに何を言えるでもないけれど、読んで思ったことをここに書いた。

『嫉妬/事件』アニー・エルノー 堀茂樹・菊地よしみ(訳)早川書房
 

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