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自分の時間は必要なくなる

30代の子育て真っ只中のころ、とにかく「自分の時間」が欲しいと、そればかり考えていた。ゆっくりと休む時間、考える時間、学ぶ時間。

でも40代も後半になって思うのは、それが手に入るころには、自分の時間さえも人のために使う習慣ができているということ。母性の発揮が止まることなく溢れ出し、もしかしたらそれがいわゆる、おばちゃん、おじちゃんのお節介領域なのかもしれないと、腹落ちする。大袈裟にいえば、「よのため、人のため」。 控えめに言えば、ちょっとした親切心と繋がりたい感。

アイデンティティの模索や自己実現の欲求が延々と続くわけではない。それは、私たちが長生きになって、社会が成熟してそうなった点もあるのかもしれない。

自分が何者か?から、自分は何の一部なのか?に人生のテーマが変わり、いつしか世界に溶け込んでいくことが、自分の終わりなのかもなという感覚が少し、見え隠れし始める。30代や40代前半では全く見えなかった景色だ。

会社でキャリアを積んで、経験や力を得ることが、イコール自己実現につながること、そしてそれが立派な生き方という時代はとうに終わっている。けれども代わる道筋はまだ個人が切り開く茨の道だ。

今求められているのは、成熟した精神が育つころ、ごく身近なひと、慣れた会社や家族や近所の狭い範囲でのお節介に終わらない、ともに歩める道筋だ。今の狭いつながりの一歩先にお節介を発揮するエネルギーと能力があっても、その時につながり、コラボレーションするスキルが足りなければ、それ本当に狭い範囲のただのお節介、うざったいおじさんおばさんで終わってしまう。

自分の時間が必要ないと気づく世代になる手前に、自己実現欲と社会貢献欲がクロスするタイミングに、つながるチャンスと、それを掴むスキルが備わる場を。そんなイメージが湧いてきて、「職歴でも役職でもないキャリア」を棚卸しして、価値として解釈し提案スキルを上げる、事業開発を促す、そんな場がプロデュースできないかなと。30代後半から40代の大事な時期を過去の産物の生き方に合わせることに費やすのはもったいなすぎる。

冬の木々が美しく枝を広げ、見えないところに根を張っている。私たちの体の中でも血管が同じ形で巡り、自分に留まらないエネルギーをたくさん備えている。健康の技術と食の贅沢は有り余るほど私たちのエネルギーを豊かにしているはず。

生き方もまた目に見えないけれど、木や血管ときっと同じ形をしている気がする。エネルギーは手を伸ばしている、手を伸ばしているのだから、つながれる。春が来る頃までに、もっとイメージを生き生きと膨らませたい。

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