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元パタンナーが古本を集め、なくなく着物と別れを告げたご先祖様の声を聞いてみました。そのー (写真はWikipediaより…)

🔵昭和の和・洋裁関係の専門書などを見ると、着物への別辞(別れの挨拶)のことは多くの本で必ずといっていいほどに書かれているようで、

衣服のことを考えるうえでとっても大切な部分だから、

そして、何よりも、

服作りに携わった方々の共通に感じられる「使命感」

後世に伝えたい、

伝えなければならないと確信されていたからだと思います。

🌸今回、オークションで落札した本(また買ってしまった^^;)にも、泣く泣く洋装の習慣をつけられた女学院生達のことが書かれていました。

昭和2年、初めてのドレスメーカー女学院が開設され、その生徒さん達は洋服を学校で習って作ったにもかかわらず、タンスにしまっておく生徒がほとんどだったそうです。

学校側は、困って「来週から洋装で登校してもらうことに決めました」と発表。生徒は大変なショックを受け、町を歩くのが恥ずかしくて、グループでタクシーに乗って登校したものもあったということです。

「このような非常手段によってようやく洋装をする習慣をつけることができました」とあります。

まあ、自分の専門学校時代のことを考えても、自分の作った服を着るのは恥ずかしかったですが、それとはまた違う理由であったはずです。

🌸もう一つ、これは有名な話で、高層ビル火災が教訓となり、洋装が見直されたという痛ましい事故(リンクを張り付けさせていただいていますが、つらい気持ちになるかもしれません)

🔻大阪市の千日前デパートの火災(1972年)

私は、夜間の服飾専門学校に通っていまして、その時初めて服をつくる仕事に携わりました。
場所はプランタン難波(元千日デパート)の地下にあるSHOP。
ピースマーク(平和を象徴するハトの足跡のデザイン)のボタンのついたTシャツをデザインし、つくったことを懐かしく思い出してしまいます。

ピースマーク

私物であるボタンがもったいなくて💦、一着しか作らなかったのですが、その時使ったボタンの残りです。


🔻熊本市の大洋デパート(1973年)


この二件の高層ビル火災で、着物を着ているばかりに逃げ遅れた方がおられ、洋装意識が高められたという。私は大阪市、熊本市ともに住んだことがあり、それぞれの現地の方にお聞きしました。

そして、今回購入した本には、もっと昔で、、、

🔻昭和7年(1932)江戸時代から昭和にかけて営業された、東京の白木屋(デパート)の火災のことが紹介されていました。

---------------【引用開始】---------------

「…和服であったために窓から脱出することをためらい痛ましい犠牲になった沢山の女子店員の悲劇が教訓となり、ようやく洋装意識がたかめられたといわれています…」

---------------【引用終了】---------------

🌸それまでと比較にならないほどに浸透していったのが第二次世界大戦後

--------------【引用開始】--------------

「…戦争の厳しさが身に染みた人々が自らの体験によって必然的に衣生活の改善を要望し、その機能性と経済性を洋装に求め新しい日本人の衣服として改めて認識したからに違いありません

洋裁を求める人達が激増し、それに応えるための施設がみるみるうちにマンモス化し、日本独特の洋裁ブームの時代になりました…。」

---------------【引用終了】---------------


⭐今回は洋裁の本(近藤れん子立体裁断と基礎知識ーモードェモード社)を参照させて頂きました。

⭐次回は和裁の本から泣く泣く着物と別れを告げた方の声をお聞きしたい思います。戦後の日本女性の心情については和裁の本の方がより詳しく書かれている感じがします(毎週土曜日更新*目標です)m(__)m







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