もしかしたら情緒が赤ちゃんだって話かもしれない


 人生3人目のルームシェアを提案されてまた1ヶ月悩んでしまった。己はいつもそうだ。でもなんでそうなんだろう。そう、というのは、なんでルームシェアしようよって言われるたびにどれほど仲の良い友人が相手でも「おわり」を想定して逃げたくなるのか、という意味なんだが。
 なんとなく一通り考えたのでまとめておく。

 自分が初めてルームシェアを提案されたのは中学生の頃だった。その頃いわゆる親友というのがいて、まあ仮にYちゃんとしよう、彼女とは比較的学校から家が遠い人間同士一緒に帰宅することが多かった。何かの雑談の折に彼女が言い出したわけだ。
「(当時のあだ名)とはすごく気が合う、一生付き合っていける友達だと思うし、将来ルームシェアとかしたいな」
 当時の自分は特に何も考えず賛同した記憶がある。まあ中学生にとってルームシェアって言葉は魅力的だったから。一人暮らしより素敵な感じがするし、親友同士って感じもするし。

 話は脱線するが、小中学生の頃はやたらと「親友」という言葉にこだわっていた。というのは私だけの話ではなく、おそらく周囲の女子生徒全般がそうだったのだと思う。「友達」より「親友」は上で、なんか素敵な響きだと信じられていた。自分もそれを信じていた一人だったと思う。
 けれどもよく考えるとこの時代の「友達」とか「親友」というのは奇妙なことに暴言や暴力が介在していて(今思うと「自分達はそれくらい遠慮しないでいい関係である」ということを互いにアピールしていたんだろうなあ)、まあもちろん心地よいものもあったのだけれど、振り返ると割と痛々しい姿だったなと感じる。今の自分は「自己肯定感を下げるような奴とはつるまないのが吉」と思っているので、そこの信条ともだいぶ合わないコミュニティだった。
 とはいえ、中学生の学校というコミュニティにおいてそんな贅沢は言ってもいられない。何しろ「それしかない」ので。小中学生なんて学校以外の世界をほとんど持たないものだろう。せいぜいが中学校、あと自分の場合は宗教を通じた合唱団というコミュニティがあったので比較的多めの世界に所属していた記憶はあるが。

 閑話休題。

 ともかくルームシェアを初めて持ちかけられたのはこの時が最初だった。
 その後高校が別々になり、私は高校で暴力を介在しない友人関係を築くことを覚え、現在まで付き合いの続く理性優位型の人間達と出会った。
 ルームシェア案件に続報が来たのは大学生になった頃である。
 大学進学直後だったか、2年生になる直前だったか、そのくらいの時期にYちゃんから連絡が来た。久々に遊びたい、とのこと。遊んだ。その結果、結構な苦手意識を持った。

苦手意識。

苦手意識……?

 や、我ながら衝撃だったのでまだ覚えているんだが、あの時自分は、自分が彼女と遊ぶ時常に相手の感情を先回りして、わがままを言われることを見越して、適度に振り回されつつ軽めの暴言をいなしつつ、あと暴力が来ることを前提としながら立ち回っていたんだよ。それに気付いてしまったんだよ。高校時代の友人達と遊ぶ時にはそんなこと意識した覚えもなくて、それが何より衝撃だった。
 だってそれがめちゃくちゃ自然だったので。絶対今始まったことじゃないし向こうも違和感を覚えていなかったので。何なら軽い叩く・蹴るみたいな暴力がなかったことを笑って指摘したら笑って「もうそんな子供じゃない」って言っていたくらいなので。つまり以前の自分達の関係には暴力が自然に溶け込んでいたってことなんだよな。嘘だろ。

 友人って何だろう。多分これを言及していくともっと長文になるので今回は割愛するけれど、少なくとも暴力を前提にした関係性は健全な友人関係ではないと思う。けれども自分は、中学時代はそれを違和感なく受け入れていたのだ。

 びっくりした。自分の倫理観のなさというか、自尊心のなさというか、自分を大事にしていなかったという事実に。あと、それだけ苦手意識を持ったにもかかわらず、何も変わらず「親友」として接してくるYちゃんに。
 この時Yちゃんは、彼女の母君とそのご友人のように長く続く友情というものに対してすごく憧れているようなことを言っていて、二人で旅行しているのがいいなと思う、自分達も行こうと言っててきた。前述の通り相手の感情を先回りする癖のついていた自分は特に深く考えず了承した。だって断ったら不機嫌になるやんけ。機嫌悪くさせるのはよくない、うん。

 帰宅して考えた。一泊二日の旅行を彼女と過ごすことを。朝集合してから解散するまでを一通りシミュレートした。これは自分が、誰が相手でも割とよくやるやつだ。誰かと関わる時は事前に一部シーンを想定して、そこで起こる問答を流すというのをやらずにはいられないのである。その時は珍しくフルセット考えた。集合、電車内、昼食、道中、宿に着いた時、部屋に行った時、夕食、温泉、……翌日改札口で別れるところまで。結構な細かさで。で、想定するどのシーンでも自分は彼女にめちゃめちゃ気を遣っていた。もうアホらしくなるくらい。
 これは無理だ。と考えた。一泊二日こんな疲弊する状態で過ごしたくねえ。そう思った。ので、LINEだかメールだかでその旨を懇切丁寧に書き綴って送った。
 今思うと割とひどい話よな。彼女の立場からすると親友だと思っていた人間から「あなたから受けていた対応がしんどいな〜と数年越しに気付いたので一緒に旅行は無理です。ごめん」ってメール来たら泣いちゃうよなそれは。いやその節はまじでごめん。
 ちなみに数日後に電話して良いかってLINEが来て通話で泣かれている。や、ごめんって……でも無理やったんやて……
 その電話では1時間くらい話したと思うんだが、結局妥協案として①お泊まりではなくて温泉に日帰りで行く、②今までとこれからにおいて嫌なことがあったらすぐ言ってほしい(直すようにするから)という2つを泣きながら提示された。ずっと泣いてた。ごめんな。でもあの時自分でもびっくりするくらい心が平静で、こういう時こんな泣く奴いるんだな、とか、めんどくさい彼女のテンプレみたいだな、とか思ってた。多分その時点でもうダメだったんだと思う。

 その後、温泉行って、喋る中で「ああいうふうに言われて反省した、これからは君をちゃんと尊重していきたい」って言われて、前述②の件もあったので温泉行くまでの間にまとまった「嫌だったこと」の一つを帰り際にぽろっとこぼしたら「そんなのずっと前の話じゃん今言われても覚えているわけがない、その時すぐ言ってよ」と言われ、アッなるほど「尊重」とは「(彼女の中で彼女が私に許す限りの)尊重」なんだなと理解し、以後連絡をほぼ全て絶って今に至る。

 ここからが本題なんだが(クソ長くてすまん、Twitter拡張パックだから許して)、どうやらこの経験が己の中で結構な重さを持っていたらしい。
 というか、この一件で己は己のちょっと困った性質を発見した。
 すなわち、自分の感情に対する鈍さである。

 普通小説なんかの登場人物は何かを経験した時の感情をたいてい即座に出力している。表面に出すかどうかはともかくとして、ああ感じたこう感じたというのを持つ。アニメやドラマならもっと顕著にその場で表情に出す。ということはおそらく世間一般の人間にとってはそれが普通なのだと思う。
 自分はそれにちょっと時間がかかるようなのだ。
 ポジティブな感情はまだいい、こちとら何もしないでも顔が笑っているような人間なのでデフォルトからちょっと弄るだけで出せる。あと割と陽気なことが多いのでポジティブな感情はすぐ抱けるしすぐ出せる。
 でも例えば怒りだとか悲しみだとか嫌だとか辛いとか、しんどいとか、そういうものに関してはだいぶ鈍くて、まず「あ、自分しんどいんすね」に至るまでに時間がかかる。最短でも半日くらいかかっているのでその日の終わりに「今日誰それさんが言ってきたこのセリフが嫌だったな」が出てくる。その場で「その言い方嫌ですやめてください」と言うどころか「言い方が嫌だな〜」と「思う」ことすらできない。せいぜいもやっとする程度。さすがに面と向かって怒鳴られたり暴言吐かれたり殴られたりしたら即座にやり返すんだけど、それも若干ただの反射なのではというところがある。
 困るのは、その時はにこにこへらへらしているのに数日後に「あ、あの時のアレダメだったな、嫌だったな」が出てくるというやつだ。下手を打つとYちゃんの事例のように数年越しに出てくる。そんなのもう相手も覚えていない。そんなこと言ったっけの世界である。足を踏んだ方は忘れるけど踏まれた方は忘れない、云々に通ずるものがある。
 しかし、思えば鈍いのは感情に限らないかもしれない。痛みとか火傷するような熱さとかも数拍遅れたり、血が出ているという視覚情報が来るまで気付かなかったりするし。ついでに言えば感情表出もあまりお上手ではない方で、ご飯を食べている時においしそうに見えないという理由で母親を怒らせて以来、家ではご飯に対してトーンを上げた声で感想を言うようにしているし、友人諸兄からも笑顔以外の表情を見たことがないと言われるし。うーん。無表情よりマシなとこない? いや無表情の代わりに笑顔が張り付いてるだけって言われたらちょっと弁明のしようがないんだが……
 まあ、この際表現の下手くそさは置いておくとして、ルームシェア問題に関して重要なのはこの感情センサーの鈍さのほうである。
 二人目のルームシェアを申し出てきたほうに関してはまあ、四十歳まで互いに独身だったらという話なのでまあ横に置いておこう。
 3人目が現れた。多分これを読むんじゃないかなとも思うのでちょっとドキドキだ。こちらはSちゃんとかにしとこうか。別の友人宅に遊びに行った際にそんな話題が出て、言われたのだ。
「言っとくけど割と真面目に検討してるよ、理性的にものを考えられる人が相手なら揉めなさそうだし」
 Sちゃんは我が愛すべき理性優位型・感情に振り回されにくい友人のうちの一人で、感情はそこそこガッツリ動くが切り替えがしっかりしているので付き合いやすい人間である。ここ数年、感情に振り回される人間と同居するのにだいぶ辟易としている様子だ。まあ自分は例によってその瞬間は特に不快感や心配をすることもなく頷いた。
 が。
 Sちゃん、たしかルームシェアしたいねって言い出したのがこれが初回ではない。何度か、多分高校時代くらいから時々話題に登っていた。ので、「割と真面目に」はガチの「割と真面目に」なのだ。自分は帰路の段階で悩みに悩んで、うだうだ言い淀んだ挙句言った。
「終わりはどのタイミングなわけ……?」
 始まってもねえんだよなあ。
 でもSちゃんもこの面倒な人間との付き合いが長い人なので「とりあえずやってみれば良くない?」と言った。自分もまあそうか……となった。
 が。
 割と真面目にと言われたので割と真面目に考えるやん? どんな生活するかな、こういう日はどうなるかな、こういう時はどうしようかな、こういうシーンがあるかもしれない、とか細々。んでやっぱり始まる前からやだな……いつか嫌われて終わりそうだな……になったわけですが。
 今回さすがに結構真面目に考えるフェーズに来たなと思ったので「なぜ嫌われて終わりそうだなという考えに至るのか」を細かく考えてみた。

 自慢ではないが中学時代までの自分の人を見る目はそりゃあ酷かった。まあ前述の通り暴力が前提の友人を当たり前だと思っていたし、何度めかの恋(もしかすると恋に恋した結果の手頃な相手がそいつだったのかもしれないが)の相手も自分を虐めていた奴だった。顔がよかったんだよな。唯一真っ当だった記憶がある好きだった人とは、キスという行為に耐えられなくてそっと距離を置くことで縁を切ってしまった。ごめんな。
 言うて酷いのはこれだけではない。先輩や同級生、下級生は言語化されたことがないのでわからんが、少なくとも前者2種類に関しては「自分が慕っていた人間に裏で死ぬほど嫌われていて悪口や悪評を蔓延らされていた」という案件が複数人分ある。いやほんと見る目がない。おかげで今まで残っている小中時代のフレンズはわずか2名だ。さすがにめちゃめちゃいい奴らなので大事にしたい。うん。
 ただまあ、自分があまりにもこう……慕う人間に嫌われてきたので、自分はつい「自分が悪いから嫌われる」と思いがちだ。
 可愛くないから嫌われる。態度がハッキリしないから嫌われる。いつもニコニコしていて内心がわからないから嫌われる。好意の示し方がよろしくないから嫌われる。あとなんだろうな、一番は「普通じゃないから嫌われる」とか。これ結構思っている気がする。中学生の頃割と本気で「普通になりたい」と思っていた記憶がある。
 だからつい自分を慕う人間からも距離を置きたくなってしまう。自分が彼らを嫌いたくないので。多分慕うことと嫌うことをセットだと思っているので、慕われたら自分はいつかその人を嫌うんじゃないかと思ってしまうのだ。言うて彼らが嫌なことをしてこない限り嫌ったことなんかないのにね。
 そいで「なぜ嫌われて終わると思いがちなのか」問題である。おそらくこの、「慕う人間に嫌われてきた記憶」が問題なのだと思う。
 ルームシェアを申し出てくるくらいなので相手は自分を良き友人として好んでくれていることは間違いない。であれば現状の好感度は高かろう。でも同居するということは一緒に過ごす時間が今までよりずっと増えるということだ。互いのいいところも嫌なところも見えるということだ。
 一緒に旅行するくらいなら全然問題ない。だって期間限定だし。むしろ楽しい。多少の遠慮も、まあ私は家庭でも親と弟妹の間に挟まれて色々胃を痛めているタイプなのでそこまで苦にならない。
 でも、一緒に住むとなると話は別だ。
 家族は、家族だから、生まれてから今までの経験値で諦めとかもあるし許容範囲がそりゃ大きい。我が家のオカンは結構理不尽なうえに「言わないでもわかってよ!」の感情優位型人間なので、理詰めで生きる人間とは相性がよろしくないのだけど、五十年以上生きてきた人間に自我を変えろというのは難しいのでこちらも対応を覚えている。弟もたまに過激な意見を言い出したりするけどそれはあしらえるし、妹の癇癪も右に同じ、父親の急に不機嫌になるところもまあ、まあ、上手いピースの嵌め方があるんで大丈夫。嫌だって何だって家族なので、捨てるわけにもいかないので。
 でも友人は違う。いつでも切り捨てられるのだ。自分がかつてYちゃんをそうしたように。学生の頃は学校が一緒だとかで縁を切るのは難しかったけれど、社会人になればちょっと連絡を取るのを怠れば関係なんて秒で途切れる。さよならは一瞬だ。
 同居したとして、半年かそこらで嫌気が差すかもしれない。その時に同居の解約だけで済めばいいけれど、やっぱり元の関係には戻れないだろう。どうしてもギクシャクはするだろう。自分はそれに耐え切れるか? 多分無理だ。ギクシャクするくらいならと全部の連絡手段を絶って、何なら国外逃亡まで考えそうだ。あと共有の友人も一緒に切り離してしまいそうな気がする。なんかもう、全部捨ててしまうと思う。
 ここまで考えて、自分はようやく気付いた。

 自分が恐れていたのは「嫌われること」ではない。
 「嫌うこと」こそがいっとう怖いのだ。

 前述した通り自分は自分の感情にめちゃめちゃ鈍い。「嫌だった」が5年越しに出るレベルだ。なので自分でも現在の自分の中の「相手への正確な好感度」がわからない。じわじわと蓄積されている悪感情は時限爆弾みたいなもので、私にはどこに埋まっているのかもいつ爆発するのかも皆目見当がつかない。というかあるのかないのかすら不明だ。地雷くらいたちが悪い。
 これは怖いことだ。だってルームシェアをした直後に爆発してみろ、目も当てられん。幸いというか不幸にもというか、己は我慢強いほうらしいので(例によって「嫌」へのセンサーが鈍いともいう)、その状態でも平然と暮らしていけるだろう。表情や態度が分かりにくいということはそういう精神状態だってことも気付かれにくいんだろうし(前述Yちゃんの様子を鑑みるに)。
 でも、いつまで保つのかはわからない。自分が精神を病むのが先か相手に嫌われるのが先か、みたいな事態になりかねない。正直ネガティブモードの己からするとほぼ確でそうなる気もする。ポジティブモードの己はどうか知らんが。ポジティブモードに入れるのは初夏から初秋までなんだ、すまない。
 というわけで現在自分はルームシェアにものすごく後ろ向きだ。言うて半年後にはどうにか折り合いをつけてルームシェアしている可能性はあるけれど。
 Sちゃんとルームシェアをするかどうかは現状神の味噌汁、今後の私の思考回路と我々の関係性次第なのだが、真面目に考えたことによって自分の気をつけなければいけないこと、あるいは今後の人生の中で「血の繋がった人間以外と暮らす」というフェーズに入る場合に直したり何なりして折り合いをつけるべきこと、は見えた。それだけでも今回の件は少なくともマイナスに傾く出来事ではなかった、と思う。今のところは。
 好きな人を好きでいたい。生きにくい環境で生きたくない。それはそうと一人で生きていくのも多分寂しい。全部自分なので、両方大事にできる道を選べればいいな、と思う。


 まあマンションなり何なり買って別の部屋に住むのが最適解って言ったらそこまでだけどさ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?