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旅の話:原発労働者だったおっちゃん


 わたしは社会にあまり溶け込めない半引きこもりである。ひとりでじっとしてるのが耐えられず、思い切って路上に出て人と話して投げ銭をもらったり、ヒッチハイクをかましたりしてできるだけお金をかけず旅をしたりしている。

 路上に出たり、旅でヒッチハイクなどをするのは、人と話して孤独を紛らわす目的もある。そうしていると、社会の隅に取り残されたような人とも話したりする。つつがなく暮らしてる人と話したり、世間話や地域の話を聞くのもいいが、わたしは生きづらさを抱えた人や周縁にいる人に印象を受ける。わたしと同類、同じ匂いがするからだからか。

 民俗学者の宮本常一は長屋で暮らす貧しい人々や橋の下で暮らす人の話を聞いて生活史を書いていた。『忘れられた日本人』など、誰もが気にかけない社会の隅で生きている人、あるいは社会から疎まれている人に目をかけていたようだ。自分もそういう人たちに出会って話を聞いて感じたり思うこともある。


 去年の5月に金沢に向かう途中、福井県でヒッチハイクで移動した。最初にヒッチハイクで乗せてくれたのは福井の原発作業員として働いていたおっちゃんだった。しかし、今はギャンブル依存症を何とかしようと休職中だという。昔からギャンブル依存でパチンコのことで頭がいっぱいになる。仕事を早退してパチンコに行ってしまうこともよくあったという。これではいかんと今はパチンコはやめているが、自助グループは苦手だから行かないという。

 わたしをヒッチハイクで乗せてくれたのは、話し相手がほしかったという。「乗せてってやるから、俺の話に付き合ってくれや」と、原発で働いてた話やギャンブル絡みの打ち明け話を聞きながら車で走った。誰かと時間をともにしたり話したりしてパチンコに行く衝動を紛らわしたいという。

 このおっちゃんはやや緊張気味で、話し方からも対人関係やコミュニケーションにしんどさを抱えているのだろうと察しがつく。落ち着くことができず立て続けに話をしてしまう。衝動的な気質であることがわかる。刺激に振り回されやすい性分なのだろう。自分も依存症であり、似たような気質だからわかってしまう。

車の中から見た敦賀の海(2023年5月)



 もう一人は去年の9月に高知県を旅してた時に出会ったおっちゃん。その時もヒッチハイクで移動していた。路上でヒッチハイクして車を止めようとしていると、「お前、何してるん?」と呼びかけられた。ヒッチハイクしてると言うと、「移動したいなら、歩いて行けよ。足があるんやから」と返された。ヒッチハイクで車が止まらなかったので近くの道の駅に行くとさっきのおっちゃんが休憩していた。まだ午前中だがチューハイを飲みながらラジオを聞きスポーツ新聞を読んでいた。話しかけてみたら、このおっちゃんも原発で労働者として働いていたという。でも、気が荒く話も一方的にまくし立てる感じだったので、一緒にいるとメンタルがやられてしまう。こういうおっちゃん西成にはよくいるなと。しかし、地方にいたら一人ぼっちになってしまう。西成に行けば一人ぼっちにはならないのになと思いながらこの場を後にした。

 この二人に共通してるのは、原発労働者をやめたら地域の中で孤立してしまってることだ。話し方のクセが強く、人との交友が苦手なのだと察しもつく(全く他人のことを言えないが)。


 自分は原発は無くすべきだと考える人間だが、その原発が社会不適合者の受け皿にもなっていることを思うと複雑な気持ちになってしまった。原発が寄る辺なき人を吸い上げる現代のサンカのようにも見える。

 筒井功『日本の「アジール」を訪ねて 漂泊民の居場所』(川出書房新社)では、天王寺のみかん山など近代の都市部では貧民が身を寄せて暮らすサンカ村があちこちにあったという。しかし、街はきれいになりそのような貧民窟は解体された。そこの人たちはどうなったのか。近代化の過程で街の中でのアジールがなくなり、今度は原発などがアジールのようになっていったのではないか。原発は寄る辺なき人を一時的に収容する。しかし、原発から離れると着地点がなく浮遊してしまう。拠り所が得られない現代の困難について思う。

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