見出し画像

遊びの「破壊性」について

人が「遊ぶ」ことで、それが「遊び」になる。

日常的には「遊び」という言葉でまとめて括られがちだが、遊びについて考えていくとき、この「遊ぶ」と「遊び」というのは分けて向き合わないと全くもって何も見えてこないと思っている。

そして、遊びにおいて重要なのは、遊びを行う対象ではなく、「遊ぶ」という行為そのものなんじゃないかと思う。
人が持っている根源的な能力で、ただの石ころであろうとその人が「遊ぶ」を見出したとき、その石ころは「遊び」へと昇華される。
逆に言えば、どんなおもちゃであろうとも、その人が「遊ぶ」を見出せなければ、そのおもちゃはその人にとっては「遊び」ではなく、ただの物体でしかない。

これがざっくりとした「遊ぶ」と「遊び」の関係式で、ヒヨコが先かニワトリが先か的理論でいくと、「遊ぶ」が先であるというのが個人的な見解である。

ーーー

「遊ぶ」という行為はなんだろうか。

『人が「遊ぶ」ことで、それが「遊び」になる。』という話から考えると、「遊ぶ」というのは創造的な行為と言える。
それはなんとなく、多くの人が納得できるのではないだろうか。

ただ、この考え方に何か違和感も感じる。
「遊ぶ」と「遊び」の関係を見ていくと、どうもそんな綺麗に収めれるものではないのではないか?
これは「遊ぶ」という行為にネガティブな要素を感じるこのにも繋がっているのではないかと思う。
「遊び」とは時には悪のように捉えれることがある。
そして遊び好きの身ととしては「そんなことないよ」と思いつつ、それを否定しきれない自分もいた。

遊びにおける「悪」。
むしろこの「悪」という要素が遊びを遊びたらしめている重要な部分ではないかと。
つまりそれは、「遊びは創造的だ」と言うと同時に、「遊びは破壊的だ」と言えると言うことであり、なんなら遊びは「破壊」という言葉の方が似合うのではないかと。

ーーー

「創造」と「破壊」。
この言葉は相反するようで、実際は両義的な存在である。
何かを作った時、それと同時に何かを壊しているのである。
「石ころから遊びを作った」と言い方もできれば、「石ころという概念を破壊した」とも言えるのと同じだ。
なので、「創造であり、破壊である」というのは別にたいした話ではない。
しかし、それを踏まえて上で、遊びの根底にあるのは「破壊」の方ではないかと考えてみた。

なぜこうも「破壊」という言葉に拘るかというと、それは、自分が遊び制作をしている時の気づきからである。
遊びを企画し、制作するまで一連をやった時、私が常に頭を悩ませたのはこの「遊びの破壊性」についてだったのかもしれない。
遊び作りという言うと、どうも楽しい雰囲気がしてくるが、実際のところ真逆であり、重要なのは面白いアイデアより、冷静で真面目な考えと行動であった。

それは、遊び作りというのは、もう少し詳しく言うと「遊びの秩序作り」だからではないかと思う。
プレイヤーがその遊びで全力で遊ぶためには、そこにちゃんとした秩序がなけらばならず、例え人に対して面白そうと思わすことに成功したとしても、この遊びの秩序が脆弱であればすぐに壊れてしまい、プレイヤーは遊びを続けられなくなる。
秩序が壊れた遊びは、もはや遊びではないのである。

映像はどんなに下手でも、何も考えなくとも、カメラで撮影すれば映像となる。
絵というのも、なんでも描いて額縁に入れれば、それは絵である。
しかし、遊びには明確な額縁はない。
遊びを成り立たせるのは、プレイヤーによる「遊ぶ」という、変則的で、しかも見えない額縁なのかもしれない。
そんだけ柔いものだかこそ、他のものづくりより真面目な秩序づくりが大切であり、絵だけでなく、額縁まで一緒に考え、作り上げないといけない。
遊びというのは特異的である。

少し話が逸れた。
遊びの破壊性の話が、遊びという存在の脆弱性の話になっていた。
これも関係している話ではあるが、とにかく遊び作りにおいて私が肝に銘じていたのは「遊び作りにおいて、作り手は遊んじゃいけない」であった。
それはつまり、「遊び」と「遊ぶ」は実は同じ存在で仲良く方を組んでいるのではなく、どちらかというと向かい合って殴り合っている関係の方が正しいように感じる。
もう少し言うと「遊び作り」と「遊ぶ」の関係式。
つまり、遊びという大きな括りの中で「遊び作り」が創造的だとすると、「遊ぶ」は破壊的であるわけだ。

ーーー

ここで重要なのは根底にあるものである。
「遊び作り」において根底にあるのは「遊戯空間を作りあげること」であるが、「遊ぶ」は「その人にとっての遊び作り」と言えるとしても、根底にあるのは「面白いか、面白くないか」なのである。
それは面白いうちはいいが、面白くなくなればすぐさま遊ぶということをやめてしまう。
そして、遊び手は面白くしようとするあまり、その遊びの創造によって秩序が壊れ、遊びが崩壊し、逆に面白くなくなるという現象が起きやすい。

遊ぶ対象が作り手によってデザインされたものならまだ大丈夫だが、例えば、学校の友達同士で自作のカードゲームを作ったとして、最初は楽しんでいたが、新しくカードを作った時に、攻撃力99999とか面白そうといって作っちゃう。
その発想自体は面白いのだが、それが遊びに加わるとゲームが一方的になり、秩序が壊れ、面白くなくなった人たちがやめていく。
そうすると、攻撃力99999を作った人も遊べなくなり、その遊びが消え去るなんてこと経験した小学生時代を経験した人がいるのではないだろうか。

このように「遊ぶ」は「面白いか」が目的にあるが故に、瞬間的でその目の前にあることだけで物事を判断しがちである。
ここで破壊と創造を比較して考えると、おおよそではあるが、創造という積み立てる行為より、積み立てたものをなぎ払うような破壊的な行為の方が瞬間的で簡単であると言える。
つまり、面白いという直感的な気持ちで動く「遊ぶ」という行為は、破壊的な行為になりがちなのかもしれないと考える。

そうなると、「遊び作り」は実は「面白くいか、面白くないか」というだけ考えては不完全であるという風にも考えられる。
「遊ぶ」を点だとすると、「遊び作り」は線である。
そこには時間軸が存在する。
ただただ面白いについて考えるだけでは、面白いは作れないのである。

ーーー

さて、なんだか文章がとっ散らかっているような気がするが、とにかく遊びという概念の中で「遊ぶ」とは、案外破壊的な行為であり、なんなら遊びとはこの破壊的行為を肯定するからこそ面白いのではないか、という話である。
しかし、この破壊性が暴走した時、むしろそれが愛していた遊びを壊すこともあり、また、それが遊びの外へ漏れ出た時、その破壊性は悪になることもある。

とりあえず今回はここまでにしておく。
もう少し綺麗にまとめれたらまた書こうと思う。

この記事が参加している募集

最近の学び

ゲームの作り方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?