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真面目な会話に冗談をそえる


人と話しているとき、なにか冗談を言いたくなる。
もう少し言ってしまうと、冗談を言える人でありたいと思っている。
会話を成立させることに頭を動かしつつ、なにか面白い冗談になるような素材とか、それを言うタイミングとかを探している自分もいる。

それは、話している相手に面白い人と思われたいという、他人からの自分のの評価を上げたいという理由もあるが、それとは別に、会話の質を上げるためにも冗談というのは必要なのではないかとも思っている。

別に冗談がなくとも面白い会話って成立する。
むしろ冗談というのは、相手に対して攻撃的な側面もあるし、スベってしまえば辛いしと、言うことに対してリスクがある。
そんなことなら、変に刺激せず、ただただ会話をした方がいいんじゃないかと。

だがしかし、会話のキャッチボールを淡々と繰り返すだけでは、なにか会話の範囲が狭いように感じてしまう。
冗談というのは、このミスらないように緊張感のあるキャッチボールを和らげるような、いやもっと言うと、キャッチボールという行ったり来たりの直線的な行為を昇華させるような力があるのではないだろうか。

思うに、冗談は現実という世界観から浮き上がったような、現実を装った独自の世界観を持つ虚構である。
現実の世界に生きる人が、同じ現実の世界に立ったまま会話をすれば、現実と現実がぶつかり合うことになる。
そうすると同じ世界線軸状なので、会話はダイレクトにやってくる。
それは人によるとは思うが、個人的には少し怖い。
怖いといかなくても、やはり何かしら構えてしまう。
そうなると型が生まれてしまい、それは別に悪いことではないが、型が生まれればそれ以上のものというのは生まれにくくなる。

この現実と現実の間に虚構を加えてみると、発射された情報は屈折、拡散されてよくわからなくなる。
これは一次元だったものが、二次元、三次元となり、自由に動き回れるような、そういう会話空間になる。
そうなるとキャッチボールという「投げる」「受け取る」という形式から解放され、もっと自由に遊べるような、そんな会話空間ができるような、そんな感覚がある。

もちろん、ただただ冗談を言えばいいとか、そういうこともない。
冗談とは「じゃれあい」のような、非言語コミュニケーションに近いものでもある。
子犬の「じゃれあい」を思い浮かべるとわかるように、相手に噛みつきに行くような行為でもあり、力加減を間違えれば人を傷つけることになる。
しかし、この言葉のじゃれあいは、ある意味では他者に対して接近できることでもあり、この遊戯を通して、より豊な関係性や会話が生まれるのではないかとも思う。

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