見出し画像

孤独を、感情を自覚する

7月の後半は、家族ともどもコロナに罹り伏せっていた。
幸い家族も自分も重症化はせず、後遺症じみた倦怠感は残っているもの、無事療養期間は終了した。
療養中、徐々にしっかりした物が食べられるようになり、起きていられる時間が長くなるにつれ、心に猛烈に、ぽっかり穴の空いたような感覚が出てきたことに気づいた。

何かしたい、でも、動く元気はない。
誰かと話したい、でも、部屋の外には出られない。

うっすら自覚はありつつも、これが「寂しい」「孤独」という感覚であることに気づくまで、だいぶ時間がかかった。

人との交流が絶たれていたからか。
社会との恋流が絶たれていたからか。

どちらにせよ、寂しいという自覚がないまま、それを焦燥感と勘違いして、何かなさなければと、病み上がり(というか病み真っ最中)の身体で何か考えて、でも何もできなくて(そりゃそうだ)、自己嫌悪というまたも負のスパイラルに陥っていた。
我ながら自家中毒みたいに心を病ませているな…と冷静になって、何度目かの「椅子に体を預けるチャレンジ」(当時長い時間起きていると貧血で気持ち悪くなっていた)をしている時、ふいに「あ」と気づいた。

私、寂しいんだ、と。

何を欲しているのかわからないまま、欲しがって、近くにあった携帯で気を紛らせたりして、でも根本的な解決には至らず、虚しさを感じていたのだ。

自分がどんな名前の感情を感じているか、それを自覚するって大事なんだなと感じた。
今回の場合は、孤独を自覚する、ということ。

……で、次の問題が浮上した。
孤独は自覚した。じゃあその後、私はどうすりゃいいのだ。

どうやったら、この寂しさは満たせるのか。虚無感は消せるのか。

満たす、つまり「満足」とは、「満ち足りる」ということ。
ああ、だから私の欠けた心は、何かすることで満足感を求めていたのか。

そういう感覚が、たぶん人間の欲求に繋がっていくのだろう。マズローの欲求段階説で、低い欲求からどんどん満たしていくように。

結局当時の私は体調がままならず、アクションには移せず時間の経過に身を委ねることにしたのだが、振り返っている現在、当時の私の欲求が満たされていたのか、ざっと整理してみた。

・生理的欲求…お腹は徐々に空くようになったが、体調の関係でたくさんは食べられない。寝ても寝ても、身体はしんどくてひたすらに寝るしかない。×
・安全の欲求…未知のウィルスへの恐怖がやはりあり、不安は療養期間が終えるまで消えなかった。×
・社会的欲求…感染拡大を防ぐため、自宅療養で社会から完全に隔絶された状態。家族ともラインでのみの会話で、ドア越しに話すこともあったが、互いに喉と咳の痛みで長い会話はできない。×
・承認欲求…それどころじゃない。×
・自己実現の欲求…それどころじゃないPart2。×

なるほど、振り返ってみると、当時の自分の心身は脅かされまくりであった。
これじゃ欲求を満たす以前の問題である。

感情(欲求)を自覚することと、それが実現できるかはまた別の次元の問題という結論に至った。

そして今現在、私の自覚した孤独はどうなったのか。
それは療養期間という名の隔離期間を終え、家族と久々に会話したこと、会社に久々に出社したことでだいぶ満たされた。
罹患する前はコミュ障なのもあるので、むしろ一人でいたいと持っていたのに。
面倒臭さが先に立って最近は短い会話しかしていなかった父とも、積極的に会話をしている。

自覚していなかったけれど、私の環境は恵まれていたのだな…と感じた。
同時に、なんて自分は現金なものだろうかとも思った。
自分から遠ざかっていたくせに、寂しさを覚えたら構ってもらいたがるのかと。

ただ、今その社会的欲求や承認欲求の部分が満たされたことで、ようやく自己実現の欲求…日々を充実したものにしたい、という欲がまた沸々と湧き起こってきた。

エゴに満ちた感覚であるが、実感として欲求段階説が正しいことが立証されたことに「学者さんとはやっぱりすごいんだなぁ」という月並みな感想を覚えたのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?