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私と場面緘黙症①〜闇の12年間〜

今回からは私の場面緘黙症の頃の話について書いていきたいと思います。
ちなみに場面緘黙症は自己診断です。
認知度が低かったため、成人済みの人は自己診断のケースが多いと思われます。

場面緘黙症になった原因

私は保育園入園をきっかけに場面緘黙症を発症しました。年齢で言うと3〜4歳の頃です。なぜ場面緘黙症を発症してしまったのか原因は分かりませんが、自分なりに考えてみました。

  1. 場面緘黙症の子に多いとされる行動抑制的気質や脳の扁桃体の過敏性をもともと持っていた

  2. 保育園入園前の2〜3歳頃に両親の離婚があった

  3. ASD(自閉症スペクトラム)の傾向があり対人関係が分からなかった

  4. 保育園や保育園の先生が怖かった

  5. 保育園のお迎えが遅く最後の方まで残ることも多く分離不安が強かった

これらのことが合わさって場面緘黙症を発症してしまったのではないかと考えました。

場面緘黙症の経過

〜保育園時代〜

 私が保育園に入園したのは3〜4歳の頃です。はじめの頃は毎日泣いていたようです。自宅では普通に喋り、普通に笑ったり泣いたりの感情表出はできていました。保育園に入園してから、保育園で喋ったり笑ったりしていた記憶はありません。その頃から自宅を出ると無口・無表情になってしまったのです。なので悲しいことに保育園で購入された写真にも笑っている写真は1枚もありません。友達という友達もいませんでした。とにかく保育園に行きたくない、怖い、休みたいと思っていた記憶しかありません。毎朝のように登園拒否をしていた記憶があります。
 遊ぶ時にも1人で遊具に登ったり、ブロックを少し持ち遊んだりと1人遊びがほとんどで活発に動くことはありませんでした。今でも覚えていることとして、私が男の子の足を踏んだのかぶつかったのか忘れましたが、謝れと男の子が言ってきました。謝らないと先生に言うぞと…。しかし私は謝ることができず困っていました。あの時の光景を今でもよく覚えています。他にも、年長さんクラスの時に○○ごっこをしようと数人の女の子グループに誘われました。ちゃんとその役を演じるよう言われますが、どうして良いのか分からず困惑していました。
 また、非常に先生が怖かったのです。不定期にくる先生もとても怖くて、何となく来そうな日は朝から行きたくないと泣いていたのをよく覚えています。他にも昼食の時間が非常に怖かったのです。私は食べるペースが遅く、食べ終わってない組で最後に1つの机にまとめられて食べさせられていました。私は飲み込んでもないのに先生に次々に押し込まれて、吐きそうになりながら食べさせられるのが恐怖でした。そしてある日、持参の白米ではなく保育園の炊き込みご飯が出る日がありました。その日は隣に女の園長先生が座っていました。私はいつもの恐怖があるので残らないように急いで必死にご飯を食べていたのです。すると園長先生が「そんなに急いで食べんくていいよ」と言ってくれたのです。でも私は園長先生はあの怖さを知らないからと小さいながらに思っていました。今の時代だと虐待だと言われるのでしょうか。これらのせいで食べる時間の恐怖を植え付けられた私は年長クラスの宿泊行事にも、ご飯がどんな量かも分からない不安と食べれないと怖いからという理由で行かないと訴え続け親を困らせていました。最終的には唯一優しくて私が好きだった先生に食べれなくても大丈夫だからと説得され行くことになりました(笑)この時の光景もよく覚えています。余談ですが、私はこの先生がお母さんだったらよかったのになと保育園の帰り道に言ってしまい母を傷つけたようで、未だにその話を持って来られます。
 こんな状態でしたが、意外な一面もありました。発表会では鍵盤ハーモニカが主でその他の楽器は希望制みたいな感じだったのですが、私は鉄琴や木琴などその他の楽器を希望していました。鼓笛隊の発表も、キーボードやみんなの前にでてステッキ?旗?をクルクル回したり投げて取ったりとかのパフォーマンスする役などを自分から希望していたのです。小さい頃の自分は勇気あったなと思います。

〜小学校時代〜

 小学校は地元の公立小学校に進学しました。普通に進学時は楽しみでした。同じ保育園から一緒の小学校へ入学した子もまずまずいましたが、他の幼稚園などから入学した子の方が多かったです。やはり環境が変わっても喋ることはできず、無口・無表情が続きました。忘れ物をした時にもなかなか声を上げることができませんでした。同じ保育園だった子と遊具で遊んだりすることもありましたが、やはり喋れないので友達という友達はできませんでした。休み時間も1人でいることが多かったと思います。
 小学校1年生の頃から、男子生徒にブタと言われたり、私の描いた作品を選んで私だと知った途端に悪口を言われたりといったことはありましたが、小学校1.2年生の頃はまだ我慢できる学校生活だったと思います。小学校3年生から酷いいじめにあうようになりました。この頃の私はボロボロでした。毎朝、腹痛、嘔気・嘔吐、食事は食べれないと身体症状がでていました。毎朝学校に行きたくないと訴えていましたが、休ませてはもらえず学校に通っていました。家族にも先生にも話すことができず辛かったです。しかし、ある日をきっかけに母親にいじめがバレてしまったのです。その時の対応が私には許せず、このあたりの出来事をきっかけに私は人に相談することができない人間になってしまったのです。このへんの内容に関しては、またいじめについて書くときに詳しく書いていきたいと思います。
 緘黙の症状の程度としては、声かけに対し頷くことは基本できていました。話しかけられた内容に対し返事を返したりするのはできたりできなかったりでした。筆談はできませんでした。音読などの絶対に声を出さないといけない時には小声ながらも何とか声を出すことはできていました。怪我をしたり体調不良でも申し出ることができずに我慢していました。もちろんトイレにもなかなか行けません。真夏も水筒を持って行っても学校でお茶を飲むことはできませんでした。体育館での劇なんかも精一杯の声を出しているのに毎度怒られていました。雛壇に乗って歌の練習なんかの時には過緊張で倒れそうでした。体育の時間なんかはなかなか動けず成績も悪かったです。見た目の変化も苦手で、髪型はいつも一緒、体育の時間は真冬でも1人半袖短パンでの授業、視力の低下があっても裸眼で過ごすような感じでした。
 小学校6年間で誰も場面緘黙症に気がつく人はいませんでした。そのうち治る、いつか喋るようになる、ただの恥ずかしがりや、何で喋らないんだ、次の学年でこそは喋りなさい、などなど緘黙の子たちが言われることは一通り言われてきました。喋れない・笑えない私を受けとめてくれる人はほとんど存在しませんでした。いつも私は否定されている気持ちでした。でも、小学校6年生の時の担任だった男の先生は、少しだけ違ったように思います。担任になる前(小学校4年生)に私が学校行事の祭りで普通はグループで回るところを1人ぼっちでいるところを発見されてしまいました。その時に、うろ覚えですが、1人でも良いじゃんみたいな1人でいることを否定しないようなことを言ってくれたのです。暗唱に関しても、業間休みの時で私と先生しかいない時に、覚えられたかとか言えそうなタイミングでいいよみたいなことも言ってくれたし、体育の授業中にグループから取り残されたらみんなに叱ってくれたり(これは目立つので嫌だった)。人権教育みたいなのに力を入れているタイプの先生だったように思います。ちなみに小学校6年生の頃に宿泊研修の山の学習があり、その間に私が誕生日を迎えてしまい、2〜3校の生徒の前に立たされてお祝いされるという最悪すぎることがありました。
 後に母親から聞いた話ですが、小学校6年生の頃の担任の先生は個人懇談の時に、これだけ話せないのには何か人に言えない理由があるのかもしれないとのことでカウンセリングを受けてみてはどうかとの提案があったようです。しかし、母親はうちの子がおかしいみたいなことを言ってと腹を立てていたようです。私はその話を聞いた時にすごくショックでした。もちろん母親に対してです。私の苦しみを分かってほしかった。そのカウンセリングとの繋がりがあれば何か変わったかもしれない。それは喋れるとか喋れないとかではなく、大きくなってからの気持ちの面での変化があったかもしれない。
私は小学校時代、家では話すのに学校では話せなくなるし笑えなくなる、こんなおかしい人間は世界で1人だけだと思っていました。自分がおかしい人間だと思っていました。自分の存在に否定ばかりで、そりゃあ自己肯定感なんてなくなりますよね…。

〜中学校時代〜

 中学校ではこれまた最悪な始まりでした。私は幼少期に両親が離婚しています。しかし、名字を今まで変更していなかったのです。保育園時代にでもしてくれていればよかったのに、小学校高学年頃に名字変更の話をされたのです。私はもちろん変化に恐怖心があるので拒否しまくりました。でも仕方なく中学入学を期に名字変更を受け入れました。
 そして中学校1年生から同じクラスにいじめっ子はいるし、ヤンキーはいるし、もうそりゃあいじめられますよね。小学校3年生からノンストップでいじめは続きます。もちろん名字についても他の小学校から来た子にまで言いふらされるし、体操服のゼッケンもジロジロ見られてすごく嫌な思いをしました。こんなこと親は知りません。英語の授業中、担当の先生が女性で新任の若い先生だったので、私は1番前の席にいるのに名字のことをいじめっ子に何で名前が変わったんだとか、離婚したのかだとか色々言われて辛い思いをしました。先生も新米だし困ったでしょうね。家庭科の授業では、調理実習でグループに入れず、そのまま授業が進み、当日休んだこともありました。
 相変わらず、喋ることも笑うこともできませんでした。中学2年生の頃には1日1回は全員発表しないと班の全体責任として居残り掃除とかって時もあって、その時は何とか挙手して発表できていました。私の心は恐怖心の塊でしたが。当時の担任の先生は前年度に特別支援学級の先生をしていたんですけどね…。
 中学時代にも理解者は現れず、大人になったら喋るようになる、何で喋らないのなど言われてきました。
 でも、中学で困るのは高校進学に向けての面接対策ですよね。非常にしんどかったです。私は喋れない上に、人の目を見て話すこともできない、最後の方は校長先生とも面接練習をしました。
 中学時代もいじめられ、部活にも入らず、ただただしんどい学校生活でした。死にたいとすら思っていたし、何で小学校3年生の頃に死ななかったんだろうとも思っていました。

本当にこの12年間は闇の中を生きてきました。よく頑張って生きてきたと思います。

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