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「溢れだす気持ち」のワケは、きっと、すてきな瞬間に触れたから。


写真家で、元猟師の幡野広志さんが、ほぼ日の糸井重里さんと対談されていた。なんと興味深いおふたりだろう。
あとから、校正担当している方が、古賀史健さんと言うことを知る。これまた素敵な人。

(『古賀史健がまとめた、糸井重里のこと。』を思い出して、また読みたくなった。キューライスさんの描く糸井さんも、すっごい似てるし可愛いしこの世界観だいすきだ・・・。)

夢中でこの対談を読み漁り、気づけばtweetをしていた。
(対談読んだ後なのに、対談についての感想ではないけれど)


私が、幡野さんの存在を知ったのはどなただったか、
幡野さんのことをtweetをしていたから。(もしくは、いいねをしていた)

この記事のメインビジュアル。
雪の上に載せられた、イノシシの頭部。
タイトル、『最後の狩猟。』

強烈なインパクト。
だけど、その写真が、まるでお供え物のように祀られている感じがして、一種の経緯、畏敬の念を感じさせる。
(この記事は、幡野さんと糸井さんの対談第一回目にも触れられている)

夢中で記事を読んだ。
読み進める中で、この方はがんを患われているのだと理解した。
その上で、狩猟についてがんについて、幡野さんが感じられてることが綴られていた。

苦しさから解放されて家族にお金も残せる、悪くない。他の狩猟者に迷惑がかかるとか家族が悲しむとかどうでもよくて、まともな心理状態ではいられなかった、それがガンだ。
ガン患者は健康な人に比べて自殺率が20倍も高い。数値で見ても驚くが、自殺したい人の気持ちを死ぬほど理解できた。
「頑張れよ!」なんて言葉を耳でタコが死ぬぐらい聞いたけど「お前の20倍は頑張ってるわ!!」って思う。それでも自殺しなかったのは、緩和ケアの医療従事者と強力な鎮痛剤を開発した研究者、それから家族の存在のおかげだ。

うん。そうだよなぁ。痛いよなぁ。まともな心理状態って何?ってくらい、訳わからなくなるよなぁ。
月並みな(というかオウム返し)言葉だけど、ただただそう感じ、その中で「家族の存在」という言葉にほっと安堵する。

もう狩猟は辞める、鉄砲も所持する理由はない。辞めるから言ってしまうけど僕は狩猟者が嫌いだ。
正確には鉄砲を所持することや狩猟が人生の全てのようにアイデンティティーにしている人が苦手だ。


「狩猟」が、人生の身近にないために、”狩猟が人生の全て”に対して、想像力が及ばなかった。個人の存在表現のひとつなのか、生き死にを体現するのか、なんとも興味深く、畏れ多いと思った。

私は日々、当たり前のように、肉も魚も美味しくいただく。
しかし、自分の手は汚さない。気付かずに足元の小さな虫を踏みつけているかもしれない。けれど、出来るならば無駄な殺生、争いはしたくない。
誰かの命を自分の手でどうにかしようなんて、思っちゃいない。なんとも、我が儘だ。理想論。

個性的というまろやかな言葉でも表現できるけど、自我が強く他者を認められない人が多い。共通して言えるのは出る杭を一生懸命叩くことだ、狩猟以外に何も持っていないから自信がないのだ。
猟師の敵は警察でも動物愛護団体でも銃声に驚いて通報しちゃう住民でもない。
猟師の敵は猟師だ。
幸せなことに心から尊敬できる狩猟者とも出会えた、素晴らしい人格者もいる。どんな世界でも尊敬できる人もいればカスもいる。人格者は何やっても人格者だけど、カスは何やってもカスだよね。
命を扱うので良くも悪くも人格が現れるのが狩猟だと思う。狩猟をやっているのではなくて狩猟に試されていると言った方が正しいと思う。


狩猟に試されている、
その一文に強く、惹かれた。
人は結局のところ、「命」をどうのこうのできる存在ではない、と言われているように思えた。命に試されている、という気もした。
命を奪うのは、簡単なことかもしれない。だけど、それを丁寧に扱えるかどうかはまた別の話なのだ。


苦しめたくないので頭を狙い撃つ。銃声とともに殴られたような衝撃が肩と頬に届く。
自分がガンになり数年で死ぬことが確定してから、初めて動物を殺した。嬉しさと切なさが混じる、初めての感情だ。


雪に散った鮮血。さっきまで血が通っていたものの命が絶たれた。

僕が死んでも妻は息子の目があるから気丈に振る舞うだろう。そんなことを考えながら肉に変える作業を進める。
真っ白な雪が血で蹂躙される。見慣れたのか、写真家としての感性なのか僕は美しく感じる。
内臓からは湯気が出るほど温かい。彼女にも解体を手伝ってもらい内蔵に触れさせる、きっと一生忘れられない経験だと思う。


あふれだすもので、視界がぼやけてくる。
大好きな漫画、『ゴールデンカムイ』のこの一説が、脳裏に浮かぶ。


狩猟を行う者 ―― マタギについて、こんな一節もあった。
きっと皆、自然の摂理によって生かされているのだろうなぁ。


この作品、兵士、民族、罪人・・・あらゆる立場の者の生き様や思惑が交錯する様子がアツく描かれていて、とてもとても大好きなんです・・・。(話逸れてすみません)


次の日、鉄砲を処分した。
未練は全くない、むしろやりきった思いなので清々しい気持ちだ。
鉄砲はただの道具だ、大切なのはその道具でどんな経験するかだ。
カメラと写真の関係性にも似ている。カメラはただの道具で、大切なのはどんな写真を撮るかだ。
だからこそ、素晴らしい体験をさせてくれた鉄砲に感謝している。


安易な言い方かもしれないけれど、素敵な考え方だ、と思った。
鉄砲も、カメラも、ただの道具。ツール。

今の私にとっての”ツール”は、ことばと、絵だろうか。


短い人生になってしまったけど、狩猟を体験できたことは幸せなことだった。狩猟は素晴らしい、価値観を広げ人生を豊かにしてくれた。
狩猟に試された僕は人格者だっただろうか、カスだっただろうか?殺された動物からしたら自分を殺したただの狩猟者だ。こんな発想自体おこがましいかもしれない、それでも考えることをやめたらただの思考停止だ。


ああ・・・。
そこに散りばめられた言葉と写真が、目に焼き付けられるよう。
写真家、そして元狩猟者としての、幡野さん。
重く、だけどすんなりと心に刺さる言葉、写真だった。私はばかみたいに、泣いた。

がん患者、ということで、今までより一層、世間の注目を浴びることになられたのだと思うが、その作品たちは、がん患者ということ関係なしに、光っている。

幡野さんによって、狩猟の世界を垣間見て、生き物の命について知るきっかけをもらった。そこからだ、私が幡野さんのnoteに、ひたすらはまったのは。


幡野さんのnoteに触れる前に、糸井さんとの対談「これからのぼくに、できること。」で、印象的だったもの。
――  病気になる前後でいちばんおおきく変わったのは人間関係だった、ということ。

はい。そういう人たちは、ぼくの病気や生き方の選択についてちゃんと理解してくれているんですけど、健康だったときからの知り合いはなかなか受け入れてくれないですね。むずかしいです、そこはやっぱり。
病気の前から変わらないのは
妻だけじゃないでしょうか。
ほかはみんな、変わっちゃいましたね。


対談の中で、糸井さんは幡野さんの奥様のことを「けろっとさん」と称されていて、その内容に、あたたかみを感じた。

「けろっと」する、それがどんなに勇気があって、素敵なことか。


幡野さんのnoteは、ひたすら読んだ。
がんのこと、早朝の光での撮影のこと、そして善意からの「迷惑」のこと。

中でも、目を奪われるのは、息子さんに関すること。


tweetで触れたのだけれど、
この記事の中で、息子さんが旅行先のベッドの上だろうか、浴衣姿ではしゃいでいる写真がある。にこにこ、躍動感あるその姿がとてもかわいくて。楽しそうで。(お誕生日の、金色の壁飾りを持ち上げて、笑顔を見せている写真もまたすきです。「ねぇ見て見て~」って声が聞こえてきそう・・・!)

その浴衣姿の写真に続くのは、幡野さんと息子さん、二人並んでベッドに埋もれている姿。後ろからがっしりと息子さんを抱きしめ、目をつむる幡野さん。これまた息子さんのとびきりの笑顔。今にも「わぁ~!」という声が聞こえてきそう。
きっとこの写真は、奥様がシャッターを切っているのだろう。
そのときの空間が、ほんとうに切り取られているみたいだ。
私がその場にいるはずなんてないのに、なんだかその場に一緒にいて、3人を見ているみたいな、不思議な心持ち。そして程よい心地よさ。


あたたかすぎて、涙があふれて、全身があつくなって、そして目の前が見えなくなる。すごく染みる。


私は、悲しくてこうなっているわけではない、と思う。
きっと、すてきな瞬間に触れたから。だから反射的に気持ちがあふれて、行き場の失った感情は、涙として出てしまうんだと思う。

ただ、周りからすれば、なんでそんな風になるの?と思われる場合もあるだろう。涙を流すことで、当のご本人に不快感を与える場合だって、有り得る。
人には言いたくもない。だけど、自分の中で閉じ込めておくのも苦しさを感じてしまったので、こうしてひっそりと書き連ねているのだけれど。


2016年。私は結婚式とお葬式、それぞれ1回ずつ参列した。
どちらも、同じ人の式。

がんの転移。35歳。8月の終わりだった。

お葬式、
「涙なんか流すんじゃない」なんて思っていたはずなのに、ばかみたいにぼろぼろこぼれた。大きく膨らんだお腹を抱えて、喪主として振る舞う友人。
そんな人を前に、なぜ私はこうなってしまうんだろう、と思った。そうなっている自分も嫌だったし、そもそもこの現実ですらも、嫌だと思ってしまった。


お腹の子は、その年の11月に生まれた。男の子。嬉しかった。

その子はすくすくと成長し、会うと元気な笑顔を見せてくれる。

食パンの硬いところが好きらしく、無心で食パン(のかたまり)にかじりついたり(まるで恵方巻きみたいだ)、犬がこわいみたいだけど恐る恐る近づいてタッチする姿だったり、100円くらいで乗ることができる、小さな鉄道の乗り物に、本当に楽しそうに乗っていたり。
納豆がすき、というのもなんだかいとおしい。あ、お風呂あがりの追いかけっこも。これまた可愛らしいんだよなぁ。


その子はとてもよい表情を見せてくれる。こっちまで笑顔がこぼれる。

母である友人は、子どもとふたりでいる時と、私たちといる時と、きっとどちらも分け隔てない。そんな母の姿を見て育つ子は、きっと広い心をもった人に育つのだろう。


私は夢中で、シャッターを切る。なんだか泣きそうになる。
この光景が、たまらなくいとおしくて。




自分は勝手に、この友人と、幡野さんをリンクさせているのかもしれない。

いろいろな接点はあるかもしれないけれど、この「溢れだす気持ち」のワケは、きっと、すてきな瞬間に触れたから。


私は特にカメラマンでもないけれど、
自然の景色や、
その辺にあるような なんでもないようなものや、
身の回りの人を撮るのがすきだ。
相手が気を抜いている、ふとした一瞬をとらえたり、
写真撮るよ~って言って、ポーズをとった相手に対して「実は動画でした~」なんて言って、「えーーー!笑」と顔が緩む瞬間を撮るのも好きだ。
(写真撮るよ~といって、わざと音を立てて連写しまくって、「えーーー!笑」という不意打ちを狙うこともある 笑)

気持ちは、完全にカメラマンである。
だって、みんないい顔するんだもん。共通しているのは、みんな自然体がいちばんいいってこと。


こうして相手のことを考えていると、色々と想像してしまっておこがましいながらも、「この人たちのこういうところを撮ってみたい」と思ってしまうんだ。

幡野さんと、奥様、息子さん、みんなの写真を私が撮るとしたら、どんなかんじがいいかなぁ、きっと、なんでもないような日常が良いのかなぁ、なんて思ったり。。

なんとも、おこがましい限りである。

#日記 #エッセイ #コラム #幡野広志 さん 

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