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苦しみを生む原因の1つは二元性

1. 二元性とは?


「この世界は仮想現実である」ということを聞いたことはありますか?

この世界は実は幻で、VRゴーグルをかけて見る仮想現実だという情報が出回っていますが、
僕は、まさしくその通りだと思っています。
魂は永久不滅であり、3次元世界という仮想現実(幻)で、人生という名のゲームを繰り広げているのです。

では、何がこの世界を幻たらしめているのでしょうか?
それは「二元性」です。
我々は、二元性という名のVRゴーグルをかけているのです。
二元性が存在することで、この3次元世界は仮想現実として機能することができます。

そもそも二元性とは何でしょうか?
二元性の意味を調べてみると、「物事が二つの異なった原理から成り立つこと」とのことです。
この世には相反する2つの要素があります。
光と闇
男と女
昼と夜
上と下
左と右
善と悪
強いと弱い
白と黒
以上のように様々な相反する2つがあります。
ここで注目すべきは、片方の要素がないともう片方が存在できないということです。
例えば、闇がなければ、光は存在できません。全部が明るい光だとしたら、明るいそれを光だと認知できないでしょう。闇とは、光が存在しない部分の別名なのです。
つまり、闇無くして光は存在できないし、光無くして闇は存在できません。相反する2つで1セットなのです。
コインの表裏だとイメージしやすいかもしれません。表だけが存在するコインはあり得ないのです。逆に裏だけが存在するコインもあり得ないのです。
表と裏の2つが1セットで成立するのです。

「何を当たり前なことを….」と思われるかもしれませんが、このシンプルな仕組みに苦しまされている方が多いのです。

2. この世界のベースが二元性である理由

この記事の冒頭で、二元性が存在することで、この3次元世界は仮想現実として機能することができると記載しましたが、なぜ二元性が必要なのでしょうか?

それは、様々な変化を経験するためです。
様々な変化を体験するためには、二元性が必要なのです。

何かを体験するためには、主体と客体に分離する必要があります。
主体とは、「認識・行為などを行うもの
客体とは、「認識・行為などの対象となるもの
主体と客体も相反する2つであり、対義語同士です。

例えば、リンゴを見るという体験をするためには、
「リンゴを見る主体」と「主体に見られる対象となるリンゴ(客体)」が必要になります。
音楽を聴くという体験をするためには、
「音楽を聴く主体」と「主体に聴かれる対象となる音楽(客体)」が必要です。
このように物質世界で何かを体験するためには、体験する主体と体験される対象である客体が必要なのです。

スピリチュアルな視点になりますが、元々は二元性などないのです。元々はたった1つのものだけが存在します。
それをサムシンググレートと呼んだり、ゼロポイントフィールドと呼んだり、エネルギーと呼んだり、創造主と呼んだり、神と呼んだり、様々な呼び名があります。
本来は、二元性などなく、たった1つのそれが存在するだけなのです。それだけが存在するのです。それ以外のものは何も存在しないのです。

皮肉なもので、言葉には二元性を伴います
ある特定のものを「机」と言うと「机以外」が存在することになってしまいます。なぜなら、「机」と「机以外」のものが存在するから、「机」という言葉が機能するからです。
何かを「それ」と言うと「それ以外」が存在することになってしまいます。なぜなら、「それ」と「それ以外」のものが存在して初めて、「それ」という特定の何かを指し示す言葉が機能するからです。
何かを「1つ」と呼んでしまうと「2つ、3つ」が存在することになってしまいます。なぜなら複数のものが存在するからこそ「1つ」という呼び方が意味を成すからです。もし全てのものの個数が1つだけなら、わざわざ「1つ」と呼ぶ必要がないです。

何を言いたいのかというと、言葉では二元性を超えるものを正確に指し示すことができないのです。
先ほど「元々はたった1つのそれだけが存在する」と表現しましたが、「それ」と言った時点で、「それ以外」のものが存在することになってしまいます。
「たった1つ」と言った時点で「2つ、3つ」と複数存在することを示唆してしまいます。
「サムシンググレート」と呼んだ時点で「サムシンググレートではない」何かが存在することになってしまいます。
「エネルギー」と呼んだ時点で「エネルギーではない」何かが存在することになってしまいます。
「非二元性」と言った時点で「非二元性ではないもの」が存在することになってしまいます。
二元性を超えた何かを言葉で指し示した時点で、そうではないものも存在することになってしまいます。言葉では正確に言い表すことができないのです。

それを承知の上で、なるべく類推させるように言葉で書きたいと思いますが、元々は二元性の無い単一の「何か」だけが存在するのです。
単一というのは、1つ2つ3つという数の1つという意味で使っているのではありません。単一という単語は、それだけが唯一存在し、それ以外は何も存在しないという意味で使っています。同じものが2つ3つと複数あるわけでもありません。それ以外の別の何かが存在するわけでもありません。二元性が無いそれだけが存在します。二元性を超えた単一の「それ」だけが存在します。
「それってなんやねん!」と思うかもしれませんが、地球上に存在する言葉で最も「それ」に近しい意味の単語は「エネルギー」だと僕は思っています。スピリチュアルでは「それ」のことを「本当の自分」や「愛」という単語に当てはめることが多いです。少なくとも「それ」は物質ではありません。「それ」は非物質的なエネルギーに似たようなものです。
要するに、元々は単一の「それ」だけが存在していて、本来は二元性は存在しないのです。

しかし、単一の「それ」だけでは、大して変化がありません。様々な体験を味わうことができません。ずっと「それ」だけが存在しているだけなのですから。非常につまらんわけです。
単一の「それ」はもっと色んな変化を起こし、様々な体験をするために、単一の「それ」自身のエネルギーを使って、二元性へと姿を変えました。なぜなら体験をするためには、体験をする主体体験される対象である客体が必要だからです。
こうして様々な変化を体験するために、主体と客体など相反する2つが二元性がベースになっている3次元世界(物質世界)が生まれたのです。
ここで補足をつけておくと、実際は主体と客体に「分離」しているわけではないのです。「主体と客体に分離しているように見せかけている」のです。元々は全てひとつながりの単一のものですから分離などしておらず、この3次元世界も同様に何も分離していないのです。分離しているように「見える」だけなのです。

視点を変えて、別の角度からこの世界のベースは二元性であることをお話しましょう。
まずは、以下の等式をご覧ください。

左辺の「0」とは、二元性を超えた「単一のそれ」を表しています。元々は「それ」だけが存在しています。「単一のそれ」が永遠に存在し続けるだけです。そこに変化はありません。故に「0」と表現しています。大元は存在するだけでほとんど変化がないので「0」と仮に表しています。

右辺の「1」とは、物質世界を表しています。物質世界には変化があります。何かモノが生まれ、朽ち果てて壊れていく。変化こそが物質世界の真理です。何かしらの変化があるという意味で「1」という数字で表しています。1ではなく2でも3でも良いのですが、物質界での変化があるということを表したいので、仮に1という数字にしています。

当然ですが、0=1は成り立ちません。しかし、どうしても様々な変化を体験するために物質世界が欲しいのです。非物質の世界では物質世界ほど激しい変化を体験できないのです。より激しく変化するためには物質世界が魅力的なのです。変化を起こすために右辺に「1」が欲しいのです。どうすれば右辺に「1」を残したままこの等式を成り立たせることができるでしょうか?

答えは、右辺に「−1」をプラスすれば、右辺に「1」を残したまま等式を成立させることができます。

二元性の仕組み

もともと変化がなかったところに変化を生み出そうとすると、プラス側とマイナス側の相反する2つの変化が必要なのです。これにより、プラスとマイナスが互いに打ち消されて、0へと収束することができます。
プラスだけはあり得ないのです。プラスだけということは、「0=1」を意味しており、成立できないのです。
つまり、変化がない状態から変化を起こすためには、お互いに打ち消しあう相反する2つが必要なのです。相反する2つとは二元性のことです。

これまで主体と客体の観点、0=1+(−1)の観点でお話してきました。
まとめると、様々な変化を起こし、体験として味わうためには、相反する2つで1セットとなる二元性が必要なのです。
二元性を超えている、ただ存在する単一の「それ」が本来の姿なのです。変化する前の姿が本当の現実なのです。物質世界は、より激しく変化を起こし、様々な体験を味わうための擬似世界、つまり仮想現実なのです。その仮想現実を支えているのが二元性なのです。
我々は二元性というVRゴーグルをつけて物質世界という仮想現実を見ているのです。

3. 二元性が苦しみを生み出す理由

ようやく本題に戻ってきました。お疲れ様です。

なぜ二元性が苦しみを生み出すのかというと、理由は大きく2つあると考えています。
1つ目は、相反する2つの立場のうち、片方の立場だけを肯定して、もう片方の立場を否定してしまうからです。

ポジティブだけを良しとして、ネガティブを否定しまうことは誰にでもあるのではないでしょうか?
前の項でも述べたように、ポジティブとネガティブの相反する2つが合わさることでこの世界は成立することができます。片方だけではあり得ないのです。
つまり、いくらポジティブだけを受け入れても、必ずネガティブなことは怒るのです。相反する2つの変化は必ず起こるのです。

自分が否定していた出来事が発生すると、苦しみが生まれます。ネガティブな感情が苦しみを生み出すのではないのです。否定することが苦しみを生み出すのです。
これは比較的想像が容易なのではないでしょうか?

二元性が苦しみを生み出す2つ目の理由は、片方の立場を採用し続けることでバランスが崩れるからです。

二元性がベースのこの世界では、相反する2つがあって初めて正常に稼働します。たとえ自分が採用していない方の立場を否定していなくても、どちらか片方の立場で居続けると、おかしくなり始めます。

たとえば、「好きなことを仕事にする」という考えと、「好きじゃないことを仕事にする」という考えがあるとします。

Aさんは、「好きなことを仕事にする」スタンスを貫いています。「好きじゃないことは一切やらない。好きなことだけやって生きていくんだ!嫌なことや苦手なことはやらない!」という考えで、個人事業主として仕事をやっています。
Aさんは機械関係が非常に苦手で、IT系ツールの扱いが全くわかりません。そのため雑務は全部アナログでやっています。SNSの扱いもよくわからないので対面営業だけ行っています。
最初はそれで上手くいっていました。
しかし、苦手なITツールや自動化に頼ることなく、雑務をアナログでこなしていたので、次第に雑務に時間の多くを奪われるようになっていきました。また、対面営業だけを行っていたため、次第に顧客獲得が難しくなっていきました。コロナの影響でzoomでの営業も盛んになりましたが、Aさんは苦手なIT系ツールはやらないと決めていたので、zoomの波に乗り遅れてしまいました。
その結果、新規の顧客を全く獲得できなくなり、好きな仕事を辞めることになりました。結局Aさんは日銭を稼ぐために、嫌いな事務系の仕事をやらざるを得なくなりました。

一方、Bさんは「好きじゃないことを仕事にする」スタンスを貫いています。「誰もやりたがらないことをするからお金がもらえるんだ!好きなことを仕事にできるのはほんの一握り。やりたくないことでも我慢してやるのが仕事でしょ?」という考えで、会社員として働いています。
Bさんはやりたくない仕事でも努力を積み重ねることで、良い役職に昇進することができました。
順風満帆に思えましたが、役職が上になるほどプレッシャーが大きくなりました。上からの圧力をひどくなってきました。
もともとやりたい仕事ではなかったため、モチベーションは微塵もありません。「仕事でお金をもらってるんだから、頑張らなければならない」と自分に言い聞かせて仕事に励みました。しかし、とうとう鬱病になってしまい、退職することになりました。
この経験からBさんは自分のやりたいことに目を向けようと感じたのでした。

以上のように、どちらの例も、片方の立場で居続けた結果、バランスを崩しておかしくなりました。
白と黒があった時に、白であり続けた結果、白で居られなくなったのです。白のスタンスだと上手くいかなかったから、今度は黒の立場を貫こうとしてもダメなのです。また黒であり続けているうちに、黒で居られなくなるのです。
時には白であっても良いのです。ある時には黒であっても良いのです。ただずっと白で居続ける、黒で居続けるというのは通用しないのです。なぜなら相反する2つがあって、この世界が成り立つからです。
先ほどの例でいうと、
Aさんであれば、苦手なITツールやSNS運用を学べば、より多くの人に自分のサービスが行き渡り、もっと繁盛したかもしれません。
Bさんであれば、業務の中でやりたいことを少しずつ見つけて取り組んでいけば、苦労して獲得した良いポジションと相乗効果が発揮され、もっと社内で活躍できたかもしれません。
つまり、「好きなことを仕事にする」方が良い、「好きじゃないことを仕事にする」方が良いということではなく、どちらの立場であっても素晴らしいゴールにたどり着くことは可能なのです。ただ、片方の立場だけに執着すると、崩れてしまうということを言いたいのです。

片方の立場だけを肯定してもう片方の立場を否定することや、片方の立場だけで居続けることを「二元性の罠」と僕が勝手に呼んでいます。

4. 二元性によって苦しまされないためには

この二元性の苦しみに対して、よく見かける対処法は、
「ネガティブを受け入れましょう」
「自分が否定していることをオッケーしましょう」
「起きること全部オッケーしましょう」
「どちらが良い悪いとジャッジするのではなく、どちらも受け入れましょう」
などです。
要するに、相反する2つのうち、片方を否定しまうのが苦しみを産むのなら、両方ともオッケーしましょうという対処法をよく見かけます。
スピリチュアル系にハマる人に多い傾向にあると思います。全部オッケー、全部良いよとあるがままを受け入れようとする方もいます。
僕もその一人でした。

しかし、これらは二元性の罠にハマっていることにお気づきでしょうか?

「オッケーする」ことを肯定して、「否定する」ことを否定しているのです。
「相反する2つを2つとも肯定する」ことを肯定して、「相反する2つを2つとも肯定できない」ことを否定しているのです。
「あるがままを受け入れる」ことを肯定して、「良い悪いとジャッジして、あるがままを受け入れられない」ことを否定しているのです。
「起きること全部にオッケーする」ことを肯定して、「起きること全部にオッケーできない」ことを否定しているのです。
「ネガティブを受け入れる」ことを肯定して、「ネガティブを受け入れられない」ことを否定しているのです。
「ジャッジしない」ことを肯定して、「ジャッジする」ことを否定しているのです。
「非二元性」を肯定して、「二元性」を否定しているのです。

二元性の罠はシンプルすぎるが故に、うっかりこの罠に陥ってしまいがちです。

じゃあ、どうすればいいのでしょうか?
何もできないのです!自力ではどうすることもできません!
なぜなら、あなたが何か動きをした途端、二元性の罠にハマるからです。
良かれと思って何か動きをした瞬間、「その動きをする」ことを肯定し、「その動きをしないこと」を否定することになってしまいます。
何かを否定することで苦しみが生まれてしまいます。

「じゃあ、自力ではどうすることもできないと思い知ればいいんだ!」と思った方は、もうすでに二元性の罠にハマっています。
「自力ではどうすることもできないと思い知る」ことを肯定して、「自力ではどうすることもできないと思い知ることができない」ことを否定しているのです。
「じゃあ、何もしない!何もしなければ、否定も肯定もしないから苦しみも生まれないでしょ?」という考えも、すでに二元性の罠にハマっています。
「何もしない」ことを肯定して、「何かする」ことを否定しているのです。

ホンマに何もできないのです!
自由意志が与えられているように見せかけて、何もできないのです!

真に自力では何もできないと痛感することで、自然と自分のコントロールを手放れていくと、二元性の苦しみから解き放たれます。
これが「委ねる」ということです。

少し視点を変えてみましょう。
先ほど、「起きること全部オッケーしましょう」という表現が出てきました。
本当に起きること全部がオッケーなのだとしたら、放置しませんか?ほったらかしにしませんか?
なぜなら何が起きてもオッケーだからです。何が起きても問題ないからです。全部オッケーなら、わざわざ対処する必要がありません。
放置こそが全部オッケーの象徴なのです。

だからといって、放置しようとすると、また二元性の罠にハマります。「放置する」ことを肯定して、「放置できない」ことを否定してしまいます。
そして否定することが、新たな苦しみを生み出してしまうのです。

結論:自力では何もできないと真に思い知ることで、二元性の苦しみから解放される
二元性の罠にハマらないようにするために、これを方法論として受け取らないようにだけ注意していただければと思います。















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