帰ってくる場所

ポルノグラフィティが自分にとって帰ってくる場所である。

好きになったのは小学生の頃。
だいたい4年生の頃には知っていて、何だかスゴいぞこのバンドって思ったのだから大体20年弱。
本格的に追っかけ始めてCDを買い始めたのが中学生。
初めて買ったCDは🍏🍎。
そこからずっとポルノグラフィティを聴き続けている。

他のアーティストを重点的に聴いて、ポルノグラフィティから何となく離れた時期もあるが、また気が付いたら戻ってきていて、戻ったら更に好きになっている。

何でなんだろうと考えた夜は片手では数えきれない。
そして答えはいつも闇の中に溶けていく。

ポルノグラフィティはバランス感覚に優れていると思っている。
突っ走る時に突っ走って、息切れする前にきちんとクールダウンする。
加速と減速のタイミングが絶妙なのだ。
このバランスが崩れればエンストを起こす。
(今はMT車のエンストの話なんて通じない世代かもしれない。)
それは曲作りもそうだし、活動においてもそうだ。
そして、曲作りにおいては、昭仁さんも晴一さんもどちらも作詞作曲を担当することができる。
(ボーカルは昭仁さんだが、晴一さんがメインボーカルの曲だってある。)
どちらの担当でも名曲が生まれている。
鉛を胃の腑に入れたような曲の後に、軽快なリズムを刻む曲を作ることもある。
アルバムの中での曲順配置もなかなかの塩梅で組み合わせていく。
特にバランス感覚に優れていると感じるのは、それを1つの曲で実現してしまう時。
つまり、軽快なリズムを刻むメロディに歌詞が鉛。
ぱっと聴いた時にこれはテンションが上がる曲か?と思ったらとても重たいテーマだった時や、いや……この歌詞辛いやんという内容だった時。
リズムが軽快でもどこか短調のようなコードが混ぜてあったりするから、歌詞が浮かない。曲調に馴染んでしまう。

その辺りの感覚というものは身につけようと思って身につくものなのか分からない。
しかし私自身の勝手な意見としては、そうではなくて、ある程度天性のものだと思っている。
服のコーディネートを上手く出来る人とそうでない人がいるように。
天性のバランス感覚とそれぞれの技量。技量もキラリと光る原石のようなものがあったのだろう。
それを本間さんが見出して、ある時からは昭仁さんと晴一さんが自ら磨いて、今に至る。

いくら天性のバランス感覚があっても、それを本人達がある程度自覚をして、努力をしなければここまで長く活動が続くこともなかったと思う。
ファンもついてこない。
けれど、ポルノグラフィティのメンバーはその時出来る最大限のことを常にやってきた。
最高のパフォーマンスを、作品を作り上げられるように。
ポルノグラフィティの原型を結成した因島での気持ちを穢したくないと、神VS神で晴一さんが言っていたように、彼らは己をお互いを磨き続けてきたし今でも磨き続けている。
作詞もそう、作曲もそう、演奏も、声楽も、人格も。

ポルノグラフィティは、自分たちに対して欲張りというかストイックである。そこに原点への熱き思いが込められていて、高校生の時の彼らへの敬愛が表れている。
なのに、周りに対しては驚くほど謙虚である。
周りに対してただ強欲になることはない。
謙虚で、静かで、穏やかだ。瀬戸内の海のように。
そこに惹き付けられる人々がいる。
その人たちと演奏をすることで我々を魅了していくのだろう。
穏やかでいてくれるから、帰ってこられるのだ。
ポルノグラフィティが、因島の青春から陸続きでバランスよくしっかりと立っていてくれるからこそ、音楽の大海に漕ぎ出した私たちはいつでも穏やかな瀬戸内を、ポルノグラフィティを目指して帰ってこられるのである。

いろいろ書いてしまったが、ポルノグラフィティがとても素敵なバンドなんだぞ、ということが伝われば幸いである。

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