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形骸化の、なれの果て

外ヅラの帳尻を無理矢理合わせようとすることで、その内側は歪んでゆく。
そういうことに、溢れている。
社会もそうだし、個人という単位でも。
数字に支配されて、表向きな体裁を取り繕うことや、目に見える結果ばかりにこだわって、その内側の歪みや淀みには無頓着。

ルールに従う、一見優等生。
だけど、そのルールがある意味を、実は深く考えてはいない。
ただ、ルールだから守る、よくわからないけど、言われたから従う。
そういう、思考停止の大人はたくさんいる。
既に風化した、今は必要のないルールを、訳も分からず、無駄に守り続ける人たちもいる。
余計な労力が増えたり、仕事の生産性が上がらないのは、ここが原因になっていることがたくさんある。
それなのに、いつまでもダラダラとそれを続けるのは、「何の為のそれなのか?」という、奥行きに対する問いが欠落しているから。

コロナ禍でもそうだった。
みんな消毒に憑りつかれて、会社では、アルコールアレルギーの人ですら、手をブツブツにしながら消毒しまくっていた。
それなのに、皆で共用で使う複合機やシュレッダーは、埃まみれ。
皆それを、そのまま普通に使っていた。

「え…?感染、怖いんだよね…?」
私は、手の消毒はしないけれど、普通に埃は気になるので、それを拭いて回りながら、「ホント、謎だな…」とよく感じていた。

本当に感染が怖いのなら、滅菌した無防備な手で埃まみれ・手垢まみれの、どう見ても雑菌だらけのこの場所に手を付けるのは、かなり気になるはず。

あぁ意外と、感染が怖いからじゃなくて、マスクと一緒で、みんな周りに忖度して消毒してるだけなのかな…と思ったのも束の間、ワクチン接種が始まったら、我先にと打ちに行く皆を見て、謎は更に深まった。

一体、何がしたいのか。
そういう、行動の筋が通っていない気持ち悪さを、感じることの多いコロナ禍だった。




行動に一貫性がないのは、主体性がないから。
「マスクをしましょう」「消毒しましょう」「密を避けましょう」
そういう、メディアが発信している「これがいいでしょう」に受け身で乗っかっていくだけで、それ以上のことは深く考えない。

コロナ禍に限らず、以前からそういうことはたくさんあった。

その中身に対する思考の深度が浅く、その大元の原因を理解しようとする意識がすっぱ抜けている上、本来は何よりも重要なはずのそもそもの根本の部分が、軽視されたまま形だけが突っ走ってゆく。

あー、、、なんて言うんだっけ、、こういうの、、、


そうそう、形骸化。
見渡してみれば、周囲には“形骸化”のなれの果てのようなものが、そこかしこに転がっている。
「ちゃんとやってます」風、「カタチ守ってればOK」の外身だけを推し進めることに躍起になって、いつの間にか、本当に守りたかったものは何なのか、本当に大切にすべきはどこなのか、そういうことを見失ったまま、抜け殻のようなものだけが暴走してゆく。

こういうのも、まさにそれの典型。
そもそもの中身が無視されて、優等生を装った外形だけが突っ走ってゆく。

最近のトイレの話題については、女性サイドとしても色々思うことがあるけれど…
それはまた、別記事にします。


集団で、この浅はかなラインに甘んじている間、その内部では本当に大切な何かが、搾取されている。
分かりやすくて刺激的な外側ばかりに、条件反射的に気を取られるあまり、わかりにくい、でも本来最も重要なはずの根本の部分が、浸食されていくことに気づけないでいる。
特に日本では、それがけっこう深刻なラインに来ているんだと、最近すごく実感させられる。

本来日本人が豊富に持っていたはずの、“奥行き”に対する洞察や感性。
そこを削ぎながら突き進んできたことが内包する危うさが、分かりやすい形であちこちに現れ始めている。

実際に、私が勤めている会社も例外ではなくて、「このままいったらこうなるだろうな…」と予想していた通りの進路を進んでいる。
私たちは、目先の結果ばかりにこだわってその裏で踏みつけにしてきたものに、気づかなきゃいけない時に来ている。



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