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フィレンツェの窓

いつも一人だった。
それは仕方なく一人なのではなくて、間違いなく自らの手で掴み取った一人なのだ。


日本人はいつも一人に対して恐れ慄いているから不便だ。
いつだって、自分の気持ちは一人で噛みしめるしかないというのに。


「あれ3限のテストの教室ってどこだっけ?」


「1限のテストやばかった。先輩の噂と全然範囲違ったんだけど、あれじゃあ過去問の意味なんかないじゃん。」


「3限の教室は6号館に変わったらしいよ。」


甲高い声を出しながら前に4人が歩いている。その会話を聞きながらなんとなくその最後尾についている。


大学入学当初から縁があり、一緒にいる5人だ。高校時代はバレーが上手ければ何をしていても許されたが、大学は違うんだと思い知らされた。


兼ねてからの希望で、高校の同級生とは違い、芸術系の大学に進んだものの、女子の社会というのはあまり変わらなかった。
友達がいないとテストの情報が回ってこないし、中には根回しさえしておけば単位が取れるものもあった。


私はただ絵を描いていたいだけだったので、それ以外の授業はひどいものだった。最初の夏休みでテストに人脈が必要だということを知り、なんとか縁があった友達の輪に入れてもらった。


化粧もろくにせず、暗い茶色に染めた髪の毛を後ろで束ねた私は、女子の社会では恐怖にならなかったのだろうか。
もしそうなら、男兄弟の中で育ったことは悪いことばかりではなかったのかもしれない。


「凛は夏休みなにするのー?」


甘ったるい声が自分に向けられたことに気づくまで、少しの時間がかかった。


「一人で海外に行こうかと思ってるよ。」


「えー!いいなー!どこいくの?」


「まだあまり決めていないのだけれど、地中海のあたりにいけたらいいかな。歴史のある街にいきたい。」


本心だった。せっかく誰にも縛られない春休みなのだ。近所の精肉屋でバイトをして貯めたお金に、父親から下駄を履かせてもらい2週間ほど一人旅にいくことを決めていた。


私は迷うと、その内容が何であれ、叔父さんに尋ねる。今回も行き先に困っていたので手紙でいい場所を聞いていたのだ。その返事が来ないことには、行き先を決められずにいた。


「凛へ 久しぶり。大学生活はどう過ごしてるかな。旅先だけど、南の方は少し治安が悪いから凛がいったことのあるローマより北のイタリアはとてもいいと思うよ。例えば、ボローニャとか、フィレンツェとか。ヴェネツィアは世界でここしかないって思うだろうし。」


私は単位が全て回収できただろうと、自分のテストの出来にある程度満足すると、早速荷造りを始めた。バッグの中は絵を描くために必要なものばかりになった。
その翌日、ローマまで直行便で行き、そこからは電車でフィレンツェへと向かった。


多くの旅行者と一緒にフィレンツェの駅で降りて、そのままミケランジェロ広場を目指して歩いた。正直なところ、荷物はかなり重くて、バレー部でのトレーニングを思い出した。途中、善意なのか客引きなのか分からない何人かに声を掛けられたが、画家の名前と絵のタイトル以外の外国語はなにもわからなかったので、日本語で断りながら進んだ。


少しお腹が空いたので、パンにトマトと生ハムを挟ませたものを手に、少し座った。そういえばフィレンツェにはそのへんに座れる場所がとても多い。しかしそれほど混んでいる訳ではなく、しっかりとした足取りで歩いている人が殆どだ。
メディチ家の家紋がいたるところに並んでいることから分かるように、とても気品が高い街なのかもしれない。


辺りを見回すと、嫉妬を越えた羨望が、指先から蝕んでくる。バレー部で活躍していた時、意味もなく憧れを抱いてくる後輩の女子の気持ちが、少しはわかってしまったのかもしれないと感じた。


続く石畳、そびえ立つ高い建物、壁には並のセンスでは書けないイラストがある。そして、高い建物を抜けると大きな川があり、思わずかかとが浮いた。


自分はこの街には張り合えないということを、優しく、けれど冷静に伝えられた気分だった。


「それならば、とことん付き合ってもらおうじゃないか」


私は川を渡り、左前方に見えるミケランジェロ広場を、睨んだ。口元は緩んでいた。


絵を描く準備をするまでに30分は軽くかかった。人混みが嫌いなので早めにいったつもりだったが、既に3時を回っていた。
後ろから聞こえてくる音楽は、吉祥寺駅北口の夜、シャッター前の歌声と同じ路上ライブだとは思えなかった。


紅く染まった家々の屋根はなにかを主張しているようにも思えたが、同時に自然の摂理として存在しているようにも思えた。
急いで道具を取り出して、丁寧に目の前の景色を掬っては、自分の持っている紙に落としていった。それは、美しさゆえにとても難しく、苦痛を伴う作業だった。完成だとしたときには、息が上がっていた。


もうすぐ夕日の時間になるからだろうか。人が多く上がってきた。それを感じ取ると、早く川まで降りなければという使命感に駆られた。
恐らく友達と話しながらあの景色を見る人はなにも理解できない。あの光景に対峙するためには完全に一人で臨まないといけないのだ。


橋を渡りきり、やっと安心して呼吸をした。
溜まっていた教授への連絡と、さっき描いた絵の仕上げをしなければいけないと思い出した。宿に向かいたくない私は川を望む壁にひょいっと飛び乗った。


壁の下で私の方にカメラのシャッター音が聞こえる。画になっているのだろうか。私はこの街に張り合える人間ではないのだから本当にやめてほしい。


フィレンツェは理解されない。美しいままでいて。


サポートしてもらたら、あとで恩返しに行きます。