四季、放送室にて ep.4

 そこにどんな感情を寄せればいいか相変わらず分からないまま、ぼんやりと手元の葉書を見つめる。母校の高校から届いた、同窓会の案内。成人の日の午後、校内の講堂で旧交を温める場を設けてくれるという。在校生たちが祝日で休んでいる間に、学校でこんなことが行われていたとは。卒業して二年ほどで再会しても、あまりありがたみが感じられない。
 行くかどうかずっと迷っていた。ところが、この前、心愛と和葉から聞いた話だと、綾芽は間違いなく参加するらしい。それはそうだろう。彼女がいなかったら主役不在の舞台が幕を開けるようなもの。私は行くべきではない。
 そう決めたのに、未だに案内を捨てられず、たまにぼんやりと見つめてしまうのは、まだ自分の中に欲があるから。綾芽に会って、話をして、なんとか許してもらい、かつての二人に戻りたいと望んでしまう欲。
 成人の日はもう明日。私は内側の欲に従順になって、ある種の賭けをしてみることにした。スマートフォンを手に取り、一つの電話番号を選択する。
 機器を耳に押し当てコール音を聞きながら、口の中がひどく渇いているのに気づいた。コップ一杯のお水が飲みたい、だけど、電話は繋がってしまう。一回じゃ出ないと半ば決めつけていたから少し戸惑った。声が掠れないように気をつけて、慎重に彼女の名前を呼ぶ。
 知恵、という花言葉を有する花の名を。


 綾芽と過ごしている日々の中で、時間というものは砂のように掌からこぼれていった。それとともに膨らんでくる想いは抗しがたくて、誰よりも近くにいるのに、ほんとうはその正確な距離を痛切に感じていた。友達という枠から決して逸脱することのない、その距離。
 たまに綾芽の横顔を見つめられる機会があると、なんだか胸がざわざわと騒いだ。じっくり見られていると思っていない、そのあどけないまでの表情は可憐で、手を伸ばして両手で挟み込みたい気がした。瞬きを繰り返すこぼれ落ちそうな瞳も、色づいた唇の膨らみも、すぐそこにあった。絶対にほかの誰のものにもならないと言うのなら、私はきっとこんなに思い悩んだりしないだろう。だけど、あんなに美しいのだ。ほかの人が放っておくはずがない。そうなってしまわないように、心までも抱きしめていたい。――しかし、実行に移すのはとても勇気が要った。
 恋は悲しい。踏み込めるのも、躊躇してしまうのも、どちらも失いたくないからだ。
 悶える日々は続いた。
 歩夢くんに、あれから何度も会った。最初に顔を合わせてからは、私が綾芽の家に上がるとどこからか彼はやって来て、軽く挨拶をしていった。そのときに二、三言葉を交わす程度。私の家に綾芽を招くつもりには到底なれなかった。なにも気にせず綾芽と向かい合えるほど、面の皮は厚くできていない。
 それにしてもよく似ている。そして、端々から綾芽の弟に対する溺愛ぶりが窺える。と同時に、歩夢くんの姉に対する敬意も見て取れる。姉弟とはいえ、これだけ相思相愛な男女というものを私は初めて目の当たりにした。
 気づいたら高校三年生の秋を迎えていた。何気ない日常や行事などを経て、いろんな思い出を共有できている。清々しい気持ちで卒業できると、大学受験に向けて切り替えようとはしていた。しかし、無理にあらぬ方向へ首を傾けようとすると痛めてしまうように、胸の内のしこりが看過できなくなっていた。綾芽とのこの日常が失われてしまう。もちろん、大学生になってからも会うことは可能だ。けれど、今みたいに寄り添える瞬間はどれだけ限られることだろう。
 特別になりたい。それは、綾芽にとっての。
 九月のシルバーウィークの初日、私は体調不良と嘘をついて、予備校を休んだ。勉強道具一式を携えて向かったのは、ここのところご無沙汰になっていた綾芽の家だった。その日、想いを打ち明けようと決めていたわけではない。焦りを感じつつも、卒業まで少なくとも半年あるのは事実だった。ただ、もしかしたら、そんな雰囲気にならないかな――と、期待しないでもなかった。
 呼び鈴を鳴らすと、しかし顔を見せたのは歩夢くんだった。少し眠たそうだ。起きて間もないのだろうか。そのわりには髪型はちゃんとしている。
 ――こんにちは。綾芽は?
 歩夢くんはバツが悪そうな表情を浮かべてから、
 ――ついさっき、買い物に出かけたばっかりなんですよ。たぶん、すぐ戻ってくると思うんで、中で待ってます?
 入れ違いになってしまったらしい。私は頷いて、ご好意に甘えることにした。リビングへと通され、ふかふかのソファに腰掛ける。家の気配を窺うに、どうやら今は歩夢くんだけみたい。
 ――両親、昨日の夜から旅行に行ってるんですよ。海外。プーケット、だったかな。
 胸中を察したように、歩夢くんが教えてくれる。麦茶の入ったグラスを一つ差し出しながら。お礼を口にしてから、
 ――歩夢くんは、行かなかったんだ。
 ――姉さんが受験勉強で残る、って言うから、僕も行かないことにしました。
 さもそれが当然であるかのような話しぶり。
 歩夢くんはいつも、綾芽のことを「姉さん」と呼ぶ。お姉ちゃんでも、姉ちゃんでも、姉貴でもなく、まして綾芽でもなく。この世界で綾芽を「姉さん」と呼べるのは彼だけだ。それがちょっと羨ましい。家族であるというのは、生まれながらにして特別な結びつきを有しているというわけなのだから。
 それから、二人でなんでもない内容の会話を重ねて、待ち人が姿を現すのを待っていた。だけど、しばらく経っても綾芽は帰ってこなかった。喋り疲れたのも相まって、二人の間に生ぬるい空気が流れ、互いに沈黙したまま大窓から見えるこの家の庭を眺めた。庭には綾芽のお母さんが手入れをしているのか、秋桜の花が咲き揃っていた。その鮮やかな色彩に目を奪われる。秋桜の花言葉はなんだっけ……。
 ほんの少しだけ、ではあるが、私は物心ついてから「男性」が苦手だった。そんな自分をおくびにも出さないよう、普段は気をつけているから、表面上は誰も察知していないはず。綾芽は以前、それと同じ性向を持ち合わせているかもしれないことを仄めかしていたから、もしかしたら彼女はなにか嗅ぎ取っていたのか。――とにかく、そんな私が、歩夢くんを前にするとまるで警戒心を抱いていないのに思い至る。気をつけなくても、ちゃんと向かい合えるのだ。なぜだろう。彼が、姉に似通っているからなのか。それだけだろうか。
 そっと、傍らで静かにしている彼を見やる。歩夢くんはぷっつり両の瞳を閉じて、瞑想しているみたいにしていた。伸びた前髪が目元にかかって陰を作っている。つい、まじまじと観察してしまう。「綾芽」がそこにいる。「綾芽」が完全に気を許して、無防備だ。
 私は音をたてないようにソファから立ち上がり、ゆっくりと、ゆっくりと「綾芽」に近づいていった。相手に聞こえてしまうのではないかと不安に感じるくらい、鼓動が早鐘を打った。頭の中は、綾芽とのこれまでの日々でいっぱいだった。たぶん、焦りもあった。想いが、私を私じゃなくする。
 気づかれる前に「綾芽」の唇に口づける。初めてのキスは味なんてしなかったけど、感触は鳥肌が立つくらい、不思議な快感が残った。
 秋桜の花言葉を思い出す。――「乙女の純潔」
 躊躇いがちに開かれた瞳が私を捉えると、そこには戸惑いの色が宿った。どんな言葉も紡げないままその視線が逸れて、そしてさらなる驚きに目を見張ることになる。私は視線の先を追った。――そこには、買い物袋を床に落として顔を紅潮させている、綾芽がいた。あの表情からして、問題の瞬間のときからそこにいたらしい。迂闊だった、としか言いようがない。
 歩夢くんは恐れをなしたかのように椅子から立って、リビングの隅に寄った。だが、彼がどこに行こうと、今の綾芽には私の姿しか映っていない。ただ吃驚するのでもなく、悲しむのでもなく、もちろん嬉しげにするのでもなく……彼女は怒りに身を震わせていた。そこに、私などに向けるそれよりも強い、実の弟へ向ける愛情を見出した。
「どういうつもり」
 答える術を持たない。その鋭い眼差しを逃げないで受け止めるだけ。
「愛してるわけじゃないんでしょう」
 歩夢くんを愛した瞬間はない。私は「綾芽」のつもりでキスしたのだし。愛している人が誰か、それはあまりにも自明なことだ。
 言い訳めいたことを心の中でなぞっていたら、電光石火の速さで頬を張られた。予期せぬできごとに、夢から無理やり醒まされた心地だった。左側の頬が熱くなる。さすることも、痛がることも私には許されない。その代わり、涙がじわりとせり上がってきた。抑えようもないほど。
 拭えない、一つの予感だけが存在していた。
 出て行って、と今までに聞いた憶えのない冷たい声音で、綾芽が口にする。彼女が激昂する前に――そんな彼女は見たくない――私は大慌てで家を後にした。内野家を離れてから一度だけ振り返ったら、視界が滲んでなにもかも不明瞭だった。手の甲で拭えども、拭えども、こみ上げてくる熱い感情を持て余す。きっと、もう元には戻れないのだろう。
 そして、ほんとうに、それまでだった。


     身を震わせるような寒風が吹きすさぶ冬 喧騒から隔離された放送室にて


『会ってくれないだろうと思ってた』
『……そう』
『久しぶりだね、この放送室。二人でラジオやったときも、今くらい寒い時期だった』
『内容も冷え切っていたけどね。なんら起伏のない言葉の応酬を繰り返して、義務的にやり切っただけ。よく、先生のお小言を頂戴しなかったものね』
『先生方は、よっぽど逸脱した内容のものじゃない限り、ラジオにはノータッチだったから。それに、そんなことする生徒は、この学校にいなかったし』
『つくづく、タイミングが悪かった、ってところかな』
『……ごめんなさい』
『先に謝るのはずるい』
『だけど、引き金を引いたのは私だから。私が、あんな軽薄なことをしなければ――』
『そう言うけど、軽い気持ちだけで歩夢に言い寄ったわけじゃないんでしょ』
『――あのときの感情を説明するのは、墓場まで持っていく宿題になると思う。上手く伝えられない。ごめん』
『そっか。私も、あそこまで感情的にならなくてもよかった。その後も、あそこまで意固地にならなくても――まあ、私も同じかも。墓場まで持っていく宿題、だね』
『…………』
『…………』
『ふふふ』
『どうして笑うの?』
『綾芽が今にも笑い出しそうにするからでしょう』
『だって、謎だなと思って』
『やっぱり、そう思う?』
『うん。未だに続いてるこの学校の校内ラジオの存在よりも、ずっと謎』
『もう一度ラジオやり直したい?』
『それはないかな。校内ラジオは一生に一度で十分』
『私も。そろそろ、みんな集まってるんじゃない? 講堂に行きましょう』
『そうね。二人一緒に現れたら、驚くかもね』
『驚かせようよ。同窓会にはサプライズが欠かせないんだから』
『うん。……――お相手は、内野綾芽と、』
『ふふふ。河瀬智恵でした』

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