光(八)

   五 失いたくないから

 中学二年生の終わり頃、人生の転機が訪れた。それまでのわたしは家と学校の往復で、勉強や部活をなんとなく努めていた。入学試験が課される私立の女子中学校だったため、校則が厳しく、寄り道が許されていなかった。だからほんとうに、ただの往復だった。
 学校は退屈だったとは思わない。宿題をこなし、さらに次の分野の予習をするだけで、一日はあっという間に過ぎていく。わたしはこれ以外に何か刺激的なものがあるとは考えもしなかった。
 ある日の夜、昔の友人に会うとかで両親が不在だった。わたしも誘われたけれど、部活を理由にして断った。
 部活を終えて帰宅し、真っ先にテレビを点けた。普段はすぐに勉強机に向かわなければならないため、テレビを見る暇がない。邪気のない、ほんの出来心だった。
 チャンネルを回していると、音楽番組で手が止まった。何人かの女の子たちが映し出されている。かわいい衣装を身に纏い、誰もが笑顔。流れる演奏に合わせ歌い、踊っている。その動きが見事に連動していた。
 呼吸するのも忘れて見入っていた。ふと我に返ったとき、自分が笑っていることに気づいた。これだ。唐突に降ってくる確信。わたしが今必要としているものは、これだ。
 羨ましいくらい、かわいくて、楽しそうに見えた。真実、楽しんでいるのだろう。あんな風になりたい。彼女たちみたいに――アイドルになりたい。
 宿題も予習もそっちのけで、買い与えられたばかりのノートパソコンを開いた。さっきテレビで知ったアイドルグループについて調べる。プロフィールやイベント情報、ディスコグラフィなど。少しずつ、その正体を掴んでいく。やがて、一つの募集に目が止まった。そのグループの姉妹グループが新たに結成されるため、メンバーを募集する、という。年齢制限はあるものの、ダンスの経験は問わないと書かれている。

 思わず、唾をごくりと飲み込む。すべてのタイミングが神様に仕組まれているような気がした。まるで、わたしに見つかるべく存在した募集。
 小さい頃から容姿には自信があった。そう思っているとはおくびにも出さないけれど、女子はみなそれぞれの容姿に敏感だ。性格の良し悪しではなくて、それなりに把握していないと上手くこなせないのだ。
 ステージに立つ自らの姿を思い浮かべる。想像するだけでぞくぞくしてくる。わたしはすぐに応募することに決めた。
 翌日、宿題をやってこなかったわたしは叱られるよりも、ただ驚かれた。だけど、そんなのどうでもよかった。これまでの生活を一変させる刺激的なものが見つかってしまった。

 書類審査は合格し、実技試験と面接を受けるために札幌に向かうことになった。幸い、日曜日を指定されたから、こっそり航空チケットを取って、日帰りで行ってくることにした。飛行機は初めてではなかったけれど、一人で乗るのは緊張した。
 実技は歌とダンス、それから簡単な演技もやるらしい。面接も何を訊かれるのかよく分からない。でも、根拠のない自信があった。大丈夫、なんとかなる。
 春先でも札幌は肌寒かった。雪は降っていなかったけど、至るところに白い塊が残っている。こんなところにもアイドルグループを作るなんて。
 集められた人の数は予想以上に多くて、眩暈がした。アイドルの流行っている時代とはいえ、こんなにもなりたいと望んでいる人たちがいることに戸惑った。わたしも、その中の一人だ。
 周りはダンスや音楽の経験が豊富なようで、どんな試験でもこなせる自信があるみたいだった。わたしの心は折れかけている。待たされている間、誰とも話さずに、じっと俯いていた。

 審査員と見られる男性らが姿を現す。グループのプロデューサーがその中央に立ち、時折、周囲に指示をやっている。
 審査員の中には文芸評論家――であることは後々に知った――の増田明さんがいた。爽やかな印象を抱かせる顔立ちだが、Tシャツにジーパンと、いかにも服装にこだわりがなさそう。

 試験が始まる。最初は面接だった。五人前後に分けられ、集団面接。みんなはかわいく、あるいはおもしろく回答していた。わたしは訊かれたことに対して答えるだけで精一杯だった。
 次にはダンス。これも五人前後で踊らされ、わたしだけまったくダンスになっていなかった。何度か足をもつれさせて転びそうになり、慌てて踏ん張った。その度に、嘲笑を買った。
 そして、歌唱。わたしは歌が最もいけると踏んでいた。アイドルの曲はあんまり知らないけど、合唱は好きだったから。結果、自分の好きな曲を選んで歌い、まずまず満足できるものにできた。
 演技。言うまでもなく鬼門だった。短い台詞を与えられて、審査員の前で披露する。すぐに覚えられる内容だけど、恥ずかしさが勝って、無様な演技しかできなかった。
 ――もう、いいよ。そこまでで。
 プロデューサーの冷たい声がして、わたしは頭が真っ白になった。いったい、何をしにここへ来たのだろう。急に憧れを抱いたからって、アイドルになれるわけではないのに。
 ――いや、最後まで見ましょう。
 去ろうとしたわたしを立ち止まらせたのは、増田さんの声だった。
 ――平等に見て、判断するべきだと思います。あなたも、やりづらいかもしれないけど、もう一度お願いできますか。
 優しい言葉をかけられ、ぽかーんと見つめてしまった。だけど、すぐに演技に戻ることにする。どうしてか分からないけれど、再び与えられたチャンス。生かしておいて損はない。
 今までにない屈辱をさんざん味わって、わたしは札幌を後にする。合格するなんて微塵も考えなかった。飛行機に乗れて、一人で札幌に来られて、それだけがよかった。
 そう決めつけていたのに――しばらく経て、わたしのもとに届いたのは、合格通知だった。ただただ驚きしかなくて、その通知をいつまでも見つめた。見つめすぎて、言葉の意味が分からなくなるほどに。
 噂によれば、増田さん一人が、わたしを支持してくれたらしい。

 勢いだけで乗り込んで、そして手にしたアイドルへの切符。これがあれば、わたしはほんとうのアイドルになれる。
 そこまで思いついたところで現実に帰る。札幌にできる新生アイドルグループだから、当然札幌を拠点に活動する。東京での仕事も多いだろうから、引っ越すかどうかは検討の余地があるけれど、少なくとも、移動の面を考慮したら、家族に内緒で、というわけにはいかない。
 相談しなければならないのか。面倒くさかった。両親はめったにテレビを見ないし、いつでも気取っている堅物だ。アイドルになるなどと告げたら、卒倒しかねない。
 それでも、言わずには済まされない。合格通知が来てから一週間後、夕食の折に、わたしは正直に伝えた。試験を受け、合格したこと。資格を得たから、アイドルになりたいことを。
 両親は卒倒しはしなかったけど、唖然とした表情を浮かべた。鼻で笑うようにして「アイドル」と呟く。
 ――彩葉、本気で言っているのか。
 ――本気です。
 ――勉強はどうするの。
 ――学校は辞めないよ。転校するかもしれないけど、ちゃんと学業と両立させるつもり。
 ――そんなこと言ったって……。
 お母さんはいつまでも気を揉む風だったけれど、お父さんはやがて笑い出した。
 ――傑作だ。……いいじゃないか、好きにやらせてやれ。
 ――いいんですか、あなた。
 ――ああ。一風変わった習い事を始めたと思えばいい。どうせ、大成することはないさ。すぐに諦める。
 その言葉は到底許せるものではなかったけれど、わたしは黙っていた。
 大人しくしていると、金銭面は心配するな、と言ってくれた。学校を変えたければ、それも好きにしていい、と。すがるしかなかった。でも、いつか自分の稼いだお金で返すつもりだった。

 迷った挙句、わたしは札幌の全寮制の女子中学校に転入した。しばらくは向こうの劇場に通う日々になりそうだったし、それに、親元を離れたかった、というのが本音。

 こうして、アイドル生活はスタートした。すぐにライブができるわけがなく、当初はレッスンの連続だった。ボイストレーニングを積み重ね、へばるまで踊らされた。わたしは素養がまるでなかったから叱られてばかりで、精神的にも疲れた。
 オーディションのときにも人数の多さに辟易したけれど、ここに来てからまた驚いた。こんなに合格させたのか、そう思った。五十人近くいる。わたしが選ばれたのは、それほどすごいことではなかったのかもしれない。
 ある程度のパフォーマンスができる状態になるまでお披露目しないらしく、メンバーは黙々とレッスンを繰り返した。憧れていた華々しい日々とは程遠かったけど、いつか訪れると信じた。
 そして、お披露目の日を迎えた。既に有名なグループの姉妹グループだから、マスコミの注目度は高かった。たくさんの報道陣が札幌の劇場に詰めかける中、わたしはステージに上がることはできなかった。オーディションをパスしたメンバーのうち半分だけがパフォーマンスをし、陽の目を見た。出られないメンバーがいたら代役を務める手はずだったけれど、そんな機会あるわけない。選抜メンバーは無理してでも出ようとするに決まっている。
 控え室で待機して、選抜の着替えを手伝ったり、ドリンクを渡したりしていた。わたしは何をしているのだろう、そんな思いを抱く暇もなかった。

 それから、どんなにがんばっても状況は好転しなかった。一年間、雨の日も風の日もレッスンに明け暮れ、いつか舞台に立てる日を夢見ていたのに、まるで声がかからない。最初に選抜されなかったメンバーも少しずつ公演に出始めたが、いつまでも呼ばれない十人未満がいた。解雇される、そんな噂は当然のように立った。
 そして、中学卒業を目前にして、わたしは自主的に辞退を申し出た。誰からも惜しまれることはなく、最後までステージ上でスポットライトを浴びることもなく。
 高校は東京に戻ることにした。悔しいけれど、すべてお父さんの言った通りになってしまった。

 なんの意気込みもなく入学した高校で、わたしは静かに過ごすつもりだった。前みたいに往復に徹して、勉強に専念していればいい。変な野心は二度と起こさない。
 新入生向けの委員会紹介、部活紹介の時間で、さまざまな部活がオリジナルティ溢れる自己紹介を披露する中、アイドル同好会が現れた。三人だけで、でもかわいい人たちだった。
 ライブは、はっきり言ってイマイチだった。周りのみんなははしゃいでいたけど、本物のアイドルを見てきたわたしからしたら、お遊戯に過ぎない。比べてはいけないのかもしれないが。
 ただ、彼女たちが羨ましいと感じていた。どうしてそう感じてしまうのか、自分でも不思議で仕方なかった。そして、思い当たる。彼女らは純粋な気持ちで歌って、踊っている。アイドルに憧れ、夢中でオーディションに応募したわたしと似た気持ちで。
 だからといって、わたしがスクールアイドルをするつもりは少しもなかった。

 審査員の一人だった増田さんが、自らアイドルグループを結成したことを耳にしたのは一学期の終わり。公演を開催するというから、興味本位で見に行くことにした。
 好きが高じて始めたものだろうと踏み、それほど期待していなかった。だけど、さすがは知名度のある増田さん、といったところか、期待以上の内容だった。一瞬で惹きつけるような華のあるメンバーは少なかったけれど、みな、受け答えがしっかりしていて、頭がよさそう。好感が持てる。そういう子たちを中心に選んでいるのかもしれない。
 オリジナル曲はまだないらしく、既存の曲をカバーしていたが、歌とダンスは形になっていた。学校でスクールアイドルとやらを見てしまったせいか、これが本物のアイドルだと実感する。
 心満たされて帰ろうとしたら、出口付近で増田さんに声をかけられた。
 ――新垣彩葉さんじゃない? 憶えてるかな、オーディションのときにいた増田明です。見にきてくれたんだ。
 よく憶えていた。頷き返すと、少し話さないかと誘われる。また頷くと、関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉の向こうへ案内された。
 椅子を勧められ、そこに腰掛ける。増田さんは紙コップにジュースを入れて、わたしに渡してくれた。
 ――ありがとうございます。
 ――こちらこそ、今日はありがとう。楽しんでもらえた?
 ――はい。ほんとうによかったです。
 ――その言葉を聞いて安心したよ。

 増田さんは表情を緩ませた。アイドルのプロデュースを始めた不安が滲み出ている。でも、一方ですごく楽しそうだ。
 ――札幌の方、辞めたと聞いて心配してたんだ。
 わたしは言葉に詰まった。どう説明すればいいのだろう。
 仕方なく黙っていると、
 ――東京の学校に戻ってきたんだね。
 と、別の話題を振ってくれる。
 ――はい。
 ――どこの高校? うちのメンバーも出身校はばらばらだから、もしかしたらお世話になるかもしれない。
 通っている高校の名前を正直に伝えると、目を光らせた。
 ――そこって、スクールアイドルがなかったかな。
 わたしは驚いた。世間的にそこまで有名ではないだろうから、増田さんに知られているなんて。
 ――今、流行っているだけあって、アイドルグループは全国に星の数ほどあるからね。プロデュースを始めて、情報収集が欠かせなくなったよ。
 それにしたって、学校の部活にまでアンテナを張るとは。
 ――新垣さんはやらないの?
 ――やらないです。
 増田さんは納得したように頷いた。
 ――そうか。でも、気になるんじゃない?
 ――あまり。
 悪い意味で気になってはいるけれど、特別、関わるつもりはない。
 その日から、公演を見るために増田さんのもとを何度か訪れた。そちらの学校のアイドル部をイベントに招待してほしい、そう頼まれたのは、そのときだった。

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