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かごめ ep.8

 かごめのことを、佳奈はほんとうによく知らなかった。大人しく、存在感が希薄で、いてもいなくてもなんの影響もない人。迷惑をかけられることもなければ、好感を覚える瞬間もない。真面目に授業を受けて、休み時間はずっと本を読んで、放課後になるとどこかへ消えている。誰も話題にしない。最低限のやることだけをいつの間にかこなしている。
 だから、和美が急に話題に上せたとき、誰の話をしているのだかすぐに分からなかった。
 ――え、誰それ。
 ――さすがにそれはひどくない。同じクラスでしょう。
 なんとか記憶を引っかき回し、かごめのことを思い出した。
 ――それで、瀬尾さんがどうかしたの。
 一緒に話を聞いている莉奈が呟く。教室の片隅で、佳奈たち三人が言葉を交わしていた。周りに生徒は少ない。
 ――だから、先生とただならない関係らしいのよ。
 真剣な顔でなにを言い出すのかと思いきや、佳奈は拍子抜けする思いだった。和美は、根はしっかりしているけれど、たまに抜けているところがあって読めない。
 生徒と先生ができているからどうしたというのだろう。
 ――あんな大人しい子が、そんな大胆なことをしているの。
 ――そうみたいなの。それで、なんでも進学先について、融通してもらうのがもう決まっているらしい、って。
 話の方向性がようやっと見えてきた気がした。
 佳奈たちが入学して半年以上が過ぎた。上位の順位は安定してきていて、十番目までに必ず入っている女生徒の中に、莉奈も佳奈も、それから和美もいる。一方、かごめの成績は下から数えた方が早い順位で、積極性のなさから加点要素も皆無。所属している文芸部は部員が彼女たった一人で、活動内容も外からは窺えない。
 ――誰とできているの?
 当然の質問だった。和美が息を飲んでからその名を口にしようとした刹那、和美、と呼びかける声がした。陸上部の東七瀬。控えめな性格だが、根は明るい。成績は中の上。
(すぐ成績のことを考えてしまう)
 この学校にいる以上仕方のないこととはいえ、佳奈は嫌悪感を覚えた。
 ――先生が時間を取ってくれるって。約束していたでしょう。今から行こう? 待たせるのも悪いし。
 和美はちらりと二人を見やったが、構わないと意思表示をすると一つ頷いてから、
 ――じゃあ、この話はまた今度。
 と言い残し、七瀬とともに去っていった。二人は結果的に肩透かしを食らった。
 ――誰なのだろうね、相手。
 さあね、と莉奈はあんまり興味がなさそうに呟く。莉奈はとにかくダンスにだけ情熱を傾けていて、それ以外は自身の成績を含め、大きな関心がありそうではなかった。だからこそ、無欲な彼女が上位を守れていることはすごいことだと、佳奈には思えた。
 ――あの二人、仲がいいよね。
 見つめている先を捉える。ちょうど小さくなっていた和美と七瀬の後ろ姿が、角を曲がって見えなくなったところだった。
 人見知りだけど、心を許した相手にはよく懐く七瀬は、中でも特に和美に心を許している。それは誰が見ても明らかなこと。


 時とともに関係性は広がりを見せていったけれど、入学当初は誰もが限られた人間関係に執着していた気がする。全寮制のこの学校において、誰かと行動をともにしないと息ができない。だからみんな、たまたま近くなり得た人たちとひとまず手を取り合った。それは別に悪いことではない。
 成績上位三人の枠を争っていた莉奈、絵梨花、美波はそれで一括りにされ、たぶん反目し合う可能性だって大いにあったのに、彼女らは仲よくなることを選んだ。気が合ったのはほんとうだろう。
 佳奈からすれば、少し違和感があった。三人ともバックグラウンドが違い過ぎる。ダンスに打ち込み、ボーイッシュな莉奈。お嬢様育ちで、ピアノや合唱を優雅にこなす絵梨花。言動はふわふわしているけど、陸上の短距離が得意な美波。人は自分にないものを持っている人に惹かれる、みたいな言葉があるけれど、それだけで説明し切れるものじゃないと思っていた。
 入学から半年というタイミングは、関係性が広がりつつあった過渡期だった。佳奈は演劇部の祐実や、陸上部の麗華らと少しずつ親しくなってはいたけれど、まだ真夏が転入してくる前で、常に一緒にいるようになる前段階だった。むしろ、成績の近い莉奈たちの方が一緒にいる時間は長かった。
 佳奈はどうして自分がいい成績を収められているのか、自分でも分かっていない部分があった。進学のことや、三年間気の抜けないことはよく理解している。だからこそ、無我夢中で取り組んでいた成果が、この頃は表れていたのかもしれない。
 三年間、卒業まで予断が許されないというのは彼女たちにとって酷で、精神的に追い詰められるものがあった。


 先日の肩透かしがあってから、それまで注目していなかったかごめに目が行くようになった。彼女は誰とも交わらない。プリントや提出物のやり取りだけ。授業中は滅多に指名されない。休み時間は自席で本をずっと読んでいるか、どこかへ行っているか。放課後になるとふいと姿を消してしまう。そういえば寮ではまるで見かけない。徹底して自分の存在を認知されまいと努めているみたいだけど、意図してそうなろうとしたわけではきっとないのだろう。かごめの考えていることは少しも分からない。
 そんな彼女がいったいどの教師とできていると言うのか。俄かには、いや、時間を置いても想像すらできなかった。かごめについてのことの真相が気になると同時に、佳奈は成績がじわりと落ちていて、もし和美が話していた言葉が事実なら、ふつふつと内側から湧いてくる感情があった。
 そんな折、教室で和美に声をかけられた。
 ――この間途中になっていた話の続き、よかったら今日の放課後に話さない?
 佳奈はなんの話を指しているのか分からない振りを一旦してから、思い出したように「ああ、彼女の話? いいけど」と目だけでかごめを示して頷いた。
 ――莉奈も誘ってくるね。
 それだけ言い残して、去ってしまう。和美の思うところはどこにあるのか。その噂をどうやって聞きつけたのか。そして、どうしてそれを佳奈と莉奈には話すつもりがあるらしいのか。あれから日が経っているから、どうしても喋りたくてしょうがない、という風には窺えない。
 だけど、佳奈はその頃知りたくなっていた。ことの真相を。明らかになったとして、では教師か生徒、あるいはその両方を糾弾する気なのか、どうもしないのか、自分でもまるで分かっていなかったが。
 入部以来、初めて部活を休んで、佳奈は指定された空き教室へと向かう。


 扉を開く寸前、思い描いていたものとは違う話し声が聞こえて、佳奈は違和感を覚えた。確かに、和美に指定された場所だけど、思いがけず先客がいたらしい。佳奈は手を引っ込めて、周囲を窺った。場所を変更しなければならないだろう。和美と莉奈はまだ来ていない。
 すると、当の和美の声が室内から漏れてきた。
 ――そこに立っているの、佳奈? 入りなよ。
 親しみ深い声に誘われ、足を踏み入れる。事前に把握していなかった顔ぶれがいくつかある。莉奈も既に来ていた。
 そこにいたのは絵梨花、美波、それに陸上部のエース・東七瀬だった。和美と莉奈を含めた六人が、思い思いの椅子や机に腰掛ける。全員揃ったね、と呟いて、和美は顔ぶれを順々に眺めた。――これからなにが始まるのだろう。この期に及んで佳奈の気持ちが揺れた。
 ――それで、どんな話が始まるの。
 美波が邪気のない風に問いかける。どうやら、佳奈と莉奈の二人以外は、導入部分すらも聞いていないみたい。どうやって誘いかけたのだろう。
 ――うん、ちょっと由々しき事態があってね――。
 そう切り出して、和美は七瀬をちらりと見る。その視線を受け、七瀬は硬い表情のまま頷きを返した
 てっきり七瀬が続きを引き受けるのかと思ったら、尚も和美が話し出した。この学年に、先生に言い寄って、進学先を融通してもらおうとしている女生徒がいること。その生徒とは瀬尾かごめのことで、言い寄っている相手は……日本史を担当している、佐々井のことだと、和美は断言した。
 和やかな雰囲気が一変、思いもかけない話の方向に、誰もが言葉を失った。ほんとうのことなのだろうか。ほんとうだとして、どうしてここにいる顔ぶれだけに、その情報を共有しようとしたのだろうか。いろいろな推測が水面下で飛び交う。
 ――どうやって、その情報を掴んだの?
 絵梨花が言いにくそうに訊いた。
 ――私、見たの。
 答えたのは七瀬だった。大人しい子だと認識していたけど、感情がこもるとよく通る声をしている。
 ――彼女が先生に言い寄っているところを。そして、進路のことをお願いしていたの。
 ――どうして私たちにだけ教えてくれるの? もうほかにも話した子がいるの? それとも、これから順を追って伝えていくの?
 莉奈の質問には、和美が答えた。
 ――ここにいるみんなにしか話すつもりはない。今日聞いた話をどうするかは、任せる。
 ――私たちをどういう基準で選んだの?
 佳奈は共通点を探してみる。合唱部、ダンス部、吹奏楽部――部活は、陸上部の美波と七瀬以外は被らない。それよりも。
 ――もちろん、成績上位者っていう理由で。
 それなら納得がいった。話の内容的に、努力を積み重ねて上位を守っている人たちならば、不正を働こうとしているかごめを許せなく思うはずだと踏んだのだ。より共感を得られやすい条件を佳奈たちは有している。
 ――話して、どうして欲しいの。
 ――一緒に糾弾したい、そう思っている。
 七瀬の瞳に意志の強さが宿る。
 ――他日、あの子を呼び出して、ことの真偽を明らかにしたい。それでもしほんとうだと彼女の口から確かめられたら――。
 ――確かめ、られたら……?
 殺すかもしれない。七瀬はさらりと言ってのけた。
 話の流れの飛躍に、誰もが冗談だとしか捉えられなかった。ただ一人、和美を除いては。


 目が醒めたら空気があんまりにもひんやりしていて、佳奈はベッドからすぐに出たくないくらいだった。体を丸めて、寒い日だ、と胸裏で唱える。そしてある期待が芽生える。期待に突き動かされるようにして窓辺に近寄っていき、そっとカーテンを横に引いた。期待通り、薄暗い空から雪が静かに降っていて、辺りは白く染まっていた。雪景色を見せてくれるのなら、寒いのも耐えられるかもしれない。
 今日は特別な日になるらしい。佳奈は他人事みたいに思う。瀬尾かごめさんと対峙する日。その現場へ足を向けさせる理由があるとすれば、それはただの興味本位。どちらの味方をするつもりも今のところはないけれど、ほんとうのところはどうなのか知りたかった。
 あの日の顔ぶれは、どうやらほかの誰にも言っていないようだった。あまり話題に上せたい内容でもないからだろう。莉奈や絵梨花、美波が今日どうするのか聞いていない。佳奈自身、もしかしたら直前で翻意して、何食わぬ顔で部活に参加しているかもしれないのだ。
 雪はしんしんと降り積もる。誰にも踏まれていない今なら鮮やかな雪化粧だけど、生徒たちの靴に晒されたら最後、真っ白なものは汚されてしまう。そうなる前に目に焼き付けておきたい。
 登校すると、あらゆる授業の時間はするすると流れていった。黒板の字をノートに書き留めたり、眠たくなったり、休み時間に友人と話したりしているうちに。ホームルームが終わるといつもならいそいそと吹奏楽部の活動へ向かうのだけど、この日は少しだけ教室に残って、やがておもむろに立ち上がった。荷物を持たないままで目的地へとのんびり歩く。窓の外はもう雪が止んでいて、薄暗かった。雪の代わりに雨が降ってきそうな気配がする。
 屋上の扉をそっと押し開けたら、既に何人かの姿がそこにあった。莉奈、絵梨花、美波の三人。三人ともなんとも言えない表情を浮かべていた。佳奈もどう声をかけたらいいか分からず、ただ小さく頷いてから、彼女たちの傍に立った。
 ――ほんとうに、瀬尾さんを呼び出すの。
 ――私に訊かれたって、答えられないよ。和美と七瀬がそう言っているだけだから。
 ――渦中の人はなにを語るのだろう――許せないって、そう思う?
 ――……真実ならね。まだはっきりとしないことが多い。
 一方的な密告を受けて、一緒に糾弾しようと持ちかけられただけだ。まだかごめのことを、佳奈は少しも分からない。今日が来るまでにコミュニケーションを取ってみればよかった。そうすれば、なんとなくでも推測できたかもしれない。
 四人がぼそぼそとやり取りを交わしていると、やがて扉の開く音がした。視線が一気にそちらへ吸い寄せられる。最初に姿を現したのは七瀬で、その次が――俯き気味に周囲を窺う少女――瀬尾かごめ、その人だった。長い前髪に隠れて目元がよく見えない。普段から猫背だとは思っていたが、今はいつにも増して小さく捉えられた。ぎゅっと引き結ばれた唇からはどんな言葉もこぼれてきそうにない。
「お待たせ」
 最後に屋上へ出てきた和美がそう告げて、後ろ手に扉を閉める。役者が全員揃った。不可解な舞台の。
 かごめは明らかに戸惑っている。切り揃えられたおかっぱ頭で、前髪だけが少し長く、目の辺りを暗くしていた。戸惑っていながら、誰かにこの異様な状況についての説明を求めることもしない。逃げ出す素振りも窺えない。
 ――どうしてここに連れてこられたのか、分かっていないようね。
 話を切り出すのはいつも和美だ。
 ここに居合わせている顔ぶれの共通点をすぐに見出せ、というのは無理な話だろう。かごめはただ首を横に振る。
 ――あなたが佐々井先生を誘惑し、自分の成績に見合っていない大学への推薦を融通してもらおうとしていることに、私たちは憤っているのよ。
 すると、かごめは初めて声を発した。
 ――なにを言っているの。根も葉もない話だわ。
 意外にかわいらしい、よく通る声をしている。彼女をこんなに観察できる機会はそうないだろうと、佳奈は思う。
 ――放課後、文芸部の活動と称していつも先生を呼んでいるじゃない。
 ――佐々井先生は顧問だから。小説について詳しいし、助言をもらっているの。
 ――どうしてほかの部員がいないの? いつも二人きりよね。
 ――それは……なかなか活動に興味を持ってもらえなくて。それに、私に人望がないためよ。
 ――でも、先生に言い寄っているのは事実でしょう! 見たのよ。物陰で先生に体を密着させているところを。
 糾弾の声を上げたのは七瀬だった。いつになく昂奮している。今にも飛びかかりそうな剣幕で、じっとかごめを見据えている。
 佳奈はこの後に起こったことをよく憶えている。ちょっと選んだ言葉が違えば、結果は変わっていたかもしれないのに、と度々考えた。そして、ほぼ無関係だというのに、決定的な瞬間に立ち会わせられた不幸を噛みしめずにはいられない。
 ――確かに私は勉強も運動も苦手で、委員会や係で学校に貢献できてもいない。ただ本を読むこと、物語を紡ぐことが好きで、ほとんどそれしかない。だからといって、ズルをしていい大学に行かせてもらおうなんて絶対にしない。推薦の話は濡れ衣よ。
 だけど、と一度躊躇してから、やがて決意を目に宿らせて、かごめはこう告げた。
 ――だけど、私は先生を愛している。……そして、先生もまた私を愛している。信じられないかもしれないけれど、私たちは愛し合っているのよ。そのことは非難されても仕方がないと思う。でも、ただ意気投合しているだけで、校内で触れ合うことはしないし、成績はちゃんと平等につけてくれている。みんなの将来にも関わることだから。
 佳奈はこのときまで、かごめをまるで知らなかった。大人しい少女だと決めつけて、意識の外にあった。こんなに熱い感情を持っていたなんて。まっすぐで、純真で、清々しい。羨ましいと密かに呟いた。
 しかし、そのまっすぐさがいけなかった。かごめが言い切ったところで、七瀬が弾かれたみたいに駆け出し、かごめの胸倉を掴んだ。
 ――勝手なこと言わないで。先生があなたを愛すはずがない。……あなたなんかを。
 怒りに燃えている七瀬を佳奈たちは初めて目にした。それくらい、内から溢れるものがあるらしい。それは義憤に駆られてなのか、それとも、彼女もまた愛しているからなのか。
 七瀬はかごめの胸倉を掴んだまま揺さぶり、かごめは少しずつ後ずさっていった。どんどんと縁の方へ近づく。思いがけない展開に呆気にとられながら、同時に危険な予感が胸中に萌した。屋上の端は腰の高さほどの壁しかなく、普段はそのことをどうとも捉えていなかったけれど、あんな勢いで押していったら、かごめの体は宙に放り出されてしまう。
 誰が最初に一歩踏み出したのか、佳奈はまったく憶えていない。だけど、最初に大きな声で制止を促した人物は思い出せる。和美が空気を裂くような鋭い声で、やめて、と叫んだ。
 その声は七瀬に届かなかった。

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