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かごめ ep.3

   第二話 籠の中の鳥は、いついつ、出遣る?


 演劇部顧問の夏目の、いつも眉間に皺が寄っているような顔を見ていると、この人はなにが楽しくて生きているのだろう、という気持ちに、櫻田茉莉花はさせられる。こんな気持ちを抱く自分が悪いのではない、抱かせるあの先生が悪いのだ、という言い訳も遅れて浮かんでくる。
(厳しい指導が嫌なわけではない。厳しくするのにも方法があると思う。あの先生は文句ばっかりつけて、私たちの自由をきっと奪っている)
 それから、頬のたるみが際立つから、似合わないおかっぱ頭はもうやめた方が無難だ。茉莉花の心の声は尽きない。
「じゃあ、今の先生の指摘をしっかり意識して、もう一度通してやってみよう」
 部長の宮永祐実が上手く先生の話を遮ってくれて、茉莉花は安堵の息を漏らす。すると傍らのさゆりがぷっと噴き出して、私たちは共犯者みたいに目を見交わした。
 演劇が好きで、いろいろな役が演じてみたくて、あるいは衣装とか小道具を考えたくて、この部活に入った。それ以外に選択肢はなかった。この学校にはなんでもあるようで、その実、なにもない。自分のやりたいことを貫くための革命を起こせない間に、もう最終学年になってしまった。ここから出たら自由になれるのか。それもまた分からない。
「さゆり、最後まで我慢してなさいよ。先生に聞こえていたかもよ」
 部活が終わり、渡り廊下を歩いている途中で茉莉花は囁いた。
「だって、茉莉花こそ、これ見よがしにため息なんかつくから」
「しょうがないでしょ。先生、話が長いだけで内容がないのだもの。小言を挟んで存在感を示さずにはいられないのね」
「それにしても、祐実の割って入る頃合いは完璧だったね。さすが部長、あれは真似できない」
「ほんとにそう。取り扱いに慣れている」
「男前よね」
 演劇部部長の宮永祐実は短髪の見た目もさることながら、中身も男前な性質で、彼女に憧れている後輩が少なくない。一年生のときから二年連続で主役級の男役を務め、最終学年となる今年はどんな男性登場人物を演じるのか、早くも憶測が飛んでいる。
(私はどうなるのだろう。演じたい風に最後くらいやってみたいけれど、あの部では難しいかな)
 茉莉花は童顔で背もそんなに高くないので、幼い少年か少女を振られてばかりだった。一方のさゆりは愛らしい見た目からヒロインを任されることが多い。互いにこれが演じたいと主張はしないけれど、現状の役回りからはとりあえず逃れたいと望んでいる。
 食堂にたどり着き、一気に喧騒に包まれる。天井の高い明るい空間に整然と机や椅子が並び、そこここで女生徒たちが夕食を摂っていた。茉莉花とさゆりも中央で夕食を受け取って空いている席を探した。
「あそこ、空いている」
 さゆりが見つけた方へ二人は進み、後輩女子二人の隣に腰掛けた。陸上部の若松澪南と、文芸部の阿南綾音だ。面識はある、という程度で特段親しくはない。
 部活の後はいつもお腹が空いている。無言のうちに食べ始めた。白米が口の中でほろほろと溶けていく。お吸い物が胃に向かってまっすぐ染み込んでいく。――お腹が次第に満たされると、部活動中の光景が甦ってくる。つい先生への不満ばかりこぼしてしまいがちだけど、真面目に取り組んできただけあって、茉莉花とさゆりの演技力の高さは部内随一だった。
(やっぱりさゆりは上手い。劇が始まった瞬間に切り替わる感じは、雰囲気ががらりと変わるから分かる。演技中の凛とした佇まいはすごく惹き込まれるし)
 もっと的確な言葉でよさを表すことができるような気がするけれど、語彙の持ち合わせがなくてもどかしい。茉莉花は、さゆりには男性役もやってもらいたいと密かに願っていた。
(本人の意思を尊重しなければならないけど)
 大きな舞台に立てるのは、今年でひとまず最後になる。
「あの、」
 ぼんやりと演技のことを振り返っていたものだから、茉莉花はどこから声をかけられたのかすぐに分からなかった。視線を上げてさゆりの両目を捉えると、彼女は茉莉花の隣の少女を見つめている。短く切り揃えられた髪に、気弱そうな瞳。文芸部所属の二年生、阿南綾音。消極的な彼女から話しかけて来るなんて珍しい。
「お二人に訊きたいことが……」
 声が萎んだ風船のようで、でも、決して消え入ることはないのは、きっと彼女の中になにか明確な意志が存在しているから。茉莉花にはそう映った。
「瀬尾かごめさんについて、些細なことでもいいので教えてもらえませんか」
 茉莉花はそれが誰の名前だったか思い出せずに、さゆりを見やった。さゆりは軽く目を見張って、唾を嚥下していた。横目で確かめると、綾音と仲のいい澪南はなんとも言えない表情で成り行きを見守っていた。


 窓の向こうでは木々が鬱蒼と茂っている。駅は遠くて見えない。繁華街なんて遮るものがなくなっても絶対に見えない。この学校はどこから来るにも遠い。みんな、ここに希望があると思って集まっている。
 瀬尾かごめ、という名前を久しぶりに意識した。無理に意識しないようにしていたわけではなく、忘れる必要があると心のどこかで感じていたらしい。彼女はある日突然、いなくなった。失踪ではなく、自ら命を絶つ形で。
「仲よかった?」
 親しいはずがないと予想しながら、念のためさゆりに尋ねてみる。さゆりはほとんど表情を変えずに、別に、とだけ呟いた。茉莉花は同じ質問をされたらそっくりそのまま返すつもりでいたけれど、さゆりは省略した。
「そんなのを調べてどうするのかしらね、彼女」
 文芸部の阿南綾音は、どうやら水面下で「瀬尾かごめ」の一件を探っているみたいだ。なにが大人しいあの少女を突き動かしているのか判然としないけど、茉莉花とさゆりからは最低限の話しか伝えられなかった。
 知らないから、話の盛りようも包み隠しようもない。
「同じ文芸部なのよね。小説にするのでは」
「そうなのかな」
 どうしようが綾音の勝手ではある。今さら蒸し返されたくない事柄でもない。
 同級生の思いがけない死が茉莉花にもたらしたものは、悲しみとか喪失感ではなく、一つの教えだけだった。
(私たちは、ほんとうに望みさえすれば死を選ぶことだってできる。つまり、流されて生きているようなつもりになっていたところで、私たちはまだ生き続けることを日々選んでいる。生とは、学校生活とは、その積み重ね)
「誰が一番仲よかったのだろう。あんまり思い出せないけど」
「……仲いい人なんて、いたかな。悲しんでいる人も見かけなかったし」
 ああ、でも、とさゆりは自分で自分の呟きに応える。「関係あるかは分からないけど、その一件前後で、この学年の成績上位はけっこう変わったかもしれない」
 茉莉花は嫌な予感に囚われた。鼓動が早鐘を打つ。今のさゆりの指摘がどうも引っかかる。
「そんなに、変わった?」
「うん。あくまでも前後で、時間差はあるけど。この学校の仕組みに疑問を感じて成績を落としたのか、限られた時間の大切さに気付いて点数稼ぎに励んだのか――はっきりしたところは分からないけれど」
「もっと、具体的に」
「え?」
 さゆりは目を瞬く。
「もっと、誰が順位を落とした、とか、誰が反対に上げたか、とか」
 えっと、とさゆりは小首を傾げ、思考の断片を拾っていく。莉奈と美波、前は上位の常連だったのにかなり落としているし、佳奈もそう。七瀬はだんだん上げていって。
 それから、ともう一人名前を挙げる。私も落とした口。仲よくなくて、悲しくもなんともなかったのに、考えさせることは多かった。最近やっと持ち直してきたけど、三年間通しで進路が決まるわけだから、今振り返ると痛かった。過去を悔やんでも仕方ないけれど。
 茉莉花は胸に手を当てて気持ちを鎮めようと努める。嫌な予感が拭えない。


 秋の舞台本番に向けて、夏休みから集中稽古期間に入る。一学期末の試験前に部活動がお休みに入る直前、舞台で上演される演目と配役が一気に決められる。演劇部員のさまざまな思惑が交錯する数日間。
 茉莉花は自身も含め、演劇をやりたがるような人は自己顕示欲が人一倍強くて、自分らしさを表現できる瞬間を常に求めている傾向にある、と捉えている。傲慢、という意味ではまったくなく、むしろ彼女たちはいつだって純粋無垢なのだと思う。真摯にこんな役がやりたい、誰々にこんな役をやって欲しい、と願っている。
 部長の祐実が、今年はヒロイン役をやりたい、と話し合いの端緒でそう切り出し、おそらく各人の計算は大きく狂った。祐実も、後になってからみんなの計算を狂わせるよりも、最初に提示しておいた方がいいだろうと考えて、宣告したはずだ。そして、そうやって全体を見据えた計算を働かせているくらい、祐実の望みは本気だということだ。
 祐実はボーイッシュな見た目で、性格も大らかなところがあり、上背もあるため、過去にはずっと男役を割り振られてきた。演劇をやりたい人は多くても、その中で異性の役をやりたがり、なおかつ似つかわしい存在はなかなかいない。祐実は貴重な人材として重宝されてきた。そしてみんな、彼女がそういう役割を引き受けてくれることを期待していた。
 いつも一歩身を引いて周りを立てる祐実が、自らの胸中を打ち明けるのは未だかつてない、ちょっとした事件だ。
 ざわざわと話し合いの場がざわつく中、すっと、茉莉花の隣で体育座りしている少女が右腕を伸ばす。喧騒が沈黙に変わり、誰もがその手の主を注視した。四方八方の視線を受け止めてから、さゆりは静かに立ち上がり、彼女もまた宣告する。――最後の舞台、という意識が、茉莉花の中で強くなる。
(私たち、三年生にとって最後の舞台。未来のことは分からないけれど、もしかしたら、もう二度と演技することなんてないのかもしれない)
「私は、男役を演じたいです」
 下から見上げるしかないさゆりの凛々しい表情が、いたく美しかった。私は、と茉莉花は焦りを覚える。
(私はどうしたいだろう。私はなんて意思表示するべきなのだろう)
「二人とも、本気なの?」
 それまで祐実に進行を任せ、後方で腕を組んで成り行きを見守っていた顧問の夏目が口を挟んだ。祐実はまるでそれを待っていたかのように敢然と鋭い視線を夏目に注ぎ、「本気か、とはどういう意味でしょうか」と言い返した。「私がヒロインを望んだらいけませんか」
 さゆりも同調を表すために大きく頷いた。夏目は剣幕に当惑し、返す言葉を失う。室内は静寂に満たされた。
 祐実とさゆりは茉莉花を見ないけれど、だからこそかえって二人の意識が向けられてくることを感じた。二人は茉莉花の選択を待っている。なにを望むのか、明らかにするときを。
 茉莉花は弾かれたみたいに立ち上がった。考えはまったくまとまっていないけど、とにかく話し始めてみるしかない。息を吸い込む。私は、と茉莉花は思いを言葉に変えていく。
「私は、一度、私たちだけで舞台を作り上げてみたいって思っていた。既存の作品を演じるのもよかったけれど、最後の年は、私たちにしかできないことをやってのけたい」
 どうかな、と周囲を見渡す。演出も脚本も、すべて一から練る。拙い内容でも、胸の内のあるだけを込めた作品。
 茉莉花が不安げに当たりを窺っていると、拍手がゆっくりと湧き起こった。祐実が、次いでさゆりが、そして最後にはここにいるみんなが賛同し、茉莉花は急にこの空間がきらきらして見え出した。


 試験期間中の張りつめた学校の雰囲気が嫌いだ。入学以来突出した成績を残したことがない茉莉花からすると、今さら足掻くつもりもないから早く過ぎ去って欲しい、程度のものだ。そんな態度は間違っても表向きにできないけれど。
 ようやく全教科の試験が終わり、解放された茉莉花は即座に教室から離れ、ふらふらと人気のない方へ向かっていった。足が自然と向かっていったのは普段それほど使用されていない小教室が並んだ、校舎の奥。陽があまり射し込んでこないせいか薄気味悪くすら感じる。――茉莉花は半年以上前、ちょっとした騒ぎになったあの日を思い出す。同級生が唐突に命を落とした。いろんな憶測が飛び交った中、瀬尾かごめのために涙を流すことは到底できなかった。彼女をどうとも感じていなかった。その代わりに茉莉花を捉えたのは、「生死」という概念だった。
(私たちがここでこうして生きていること、だけどいつかは死を迎えてしまうこと――それをちゃんと、最後の舞台で追及できないだろうか)
 漠然とした目論見。容易に叶うはずはないだろう。上面だけで終わる可能性もある。
 戸が半開きになっている教室を見つけた。そっと覗いて誰もいないのを確認し、中へ歩み入る。左右の本棚に整然と本が並んでいるこの狭い部屋は、主に文芸部の活動場所に宛がわれている。図書室に置き切れない本や、古くからある貴重な資料なども同居している。耳鳴りしそうな静かな空間で、茉莉花は腰を下ろした。
 数冊の冊子が置かれている。表にはなにも書かれておらず、どの教科のためのものなのか、誰が使っているのか分からない。そっと手に取り、頁をめくってみた。
 縦書きの文章が連ねられている。文字を目で追い、誰がどういった用途でこれを用いているのか理解した。茉莉花はいけないことをしていると心では感じていながらも、もう少し、あとちょっとだけ、と言い聞かせて、目を滑らせていった。
「あの……」
 近いところで思いがけず声が聞こえたものだから、茉莉花は飛び上がらんばかりに驚いた。早鐘を打つ心臓を鎮め、声の主を見る。綾音だ。
「どうして、読んでいるのですか」
 表情の変化に乏しい綾音が珍しく頬を紅潮させている。茉莉花は罪悪感を覚えつつも、素直に彼女と向き合った。
「ごめんなさい。戸が開いていて、つい気になって……。これは阿南さんが書いたものよね」
「そうです」
「あの、お願いがあるの」
 綾音は首を傾げ、次いで瞳を大きく見開く。綾音は自己主張をあまりしない娘だけど、彼女の双眸は力強い意志を感じさせるものだな、と茉莉花は思っていた。

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