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舞台に、花は咲き乱れ(一)


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 ここからまっすぐ道が伸びている。木々に遮られながらもあたしが通うことになる学校がなんとか見える。木造の、趣のある建物だ。
 近づくにつれて学校の全貌が露わになってきても、そこで始まる物語がどんなものかは見えない。どんな人やできごとがあたしを待っているのだろう。楽しみでもあり、またそれとは反対の感情も萌す。
 春を感じさせる強い風がふとした刹那に吹いた。前方に、肩甲骨のあたりまで伸ばした黒髪をその風になびかせている少女がいた。あたしと同じ制服姿。着られる日を待ち望んでいたセーラー服。ゆっくりとした足取りで、やはり同じ目的地を目指しているようだ。先輩なのか同級生なのかは、しばらく観察してみても分からなかった。
 揺れる長い黒髪を捉えて、小百合の顔が思い浮かんだ。小百合も今日が入学式だと言っていた。今頃どうしているかな。学校までの道のりを踏みしめているかしら。それとも、もう着いているだろうか。――別々の高校になったというのに、ついつい小百合のことを考えてしまう。
 風がまた吹いて、弄ばれた髪を手で抑えながら前方を改めて見据えた。いつの間にか小百合を想起させる遠因となった少女の姿はなくなっている。代わりに校舎が視界いっぱいに広がり、胸がときめいた。新しい場所への期待はそのときにしか味わえないものだから、ともすれば切なく、苦しい。だからせめて噛みしめていようと思う、この感情の動きを。
 学校の内部から華やいだ声がたくさん聞こえる。美しい鳥が鳴き交わしているようだった。早朝の柔らかな陽光と相まって、牧歌的な世界観を作り出す。この瞬間がかつてあった記憶に変わる日が訪れても、このイメージは褪せないはず。それくらい、焼きついた。
 校門を過ぎ、一歩ずつ校庭を踏みしめる。校舎の中にも木々が鬱蒼と生い茂り、今の季節はいくらか緑色が混ざった桜が咲き誇っている。受験のときにも足を運んだけれど、ほんとうに通うとなったら映り方も異なる。すべてのものが急に身近に感じられるから。古めかしさを揶揄する人もあるけど、あたしにはそれがいいのだと強く思える。もちろん、いつまでもこの新鮮な感想を抱けるわけではないだろうが。
 これからの日々、待っている運命。それに目に見える形がもしあるのなら、あなたの袖、ぎゅっと握ってもいいですか?

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 小さくない駅、ここで降りる人はまばら。ほかの人の邪魔にならないような姿勢を保っているだけで苦労するほどの混雑ぶりだったのに、みんなはどこへ向かうというのだろう。そこまで考えて、すぐに当たり前の事実に心づく。そうだ、彼ら彼女らはほんとの「東京」へ向かうのだ。
 余裕を持って出てきたから、急がずに歩き出す。駅から学校まではほとんどずっとまっすぐに進めばいいから、と聞かされていたけれど、その言葉に嘘はなかった。こんもりと緑色をした山を背景に、新しい建物が存在感を放っている。ここからでもよく見える。あれが、今日からわたしが通う高校だ。造られたのが最近らしいのに、豊かな自然の中で浮いていないように見えるのは、景観に合わせて色合いを淡くしているからだ。観光地ならではの配慮、なのかな。
 駅周辺は温泉街だ。日中は温泉宿や商店街がそれなりの人でごった返すが、今日みたいな平日の朝はしんと静まり返っている。まだ営業を始めていない商店街のお店を一つずつ覗いてみる。お饅頭に大福など、どれもおいしそうだ。
 やがて温泉街を抜けるとあたりはより閑散とする。川沿いの道で、行き交う人は制服姿の女学生たちくらいだ。しばらくするとこの一本道も二つに分かれる。
 目を凝らすが、花音の通う高校はちゃんと見えない。わたしたちの学校と違って背が低いから、木々に覆われてしまっているのだ。――花音は初日から遅刻していないだろうか。基本的にはしっかりしているけど、たまに間の抜けたところがあるから。
 一本道は、それぞれの女子校へと枝分かれする。右手に進めば十年前に新設された旭山高校。左手を選べば前身の学校は戦前からあったという翡翠ヶ丘高校。
 ふいに、一陣の風。強い風に吹かれると春を思うのは自然なことだろうか。髪を手で撫でつけながら、よく晴れた空を見上げる。一人でいるときに空を見上げると気取っているみたいで嫌になる。今日の空は今日しかないもの、みたいな澄ました考えを抱きそうになるから。
 だけど、高校生活が一つの物語なら、最後のページで反芻する景色はきっとこの空の美しさだろう。悔しいけれど。

 掲示板に新入生のクラス名簿が張り出されており、確認するとわたしは喧騒から免れた。今のところ一喜一憂する身近な誰かは傍らにいない。
 高校生でいられるのは基本的には三年間だ。それぞれの一年ずつ、同じクラスのメンバーとほとんどの時間を送る。それを意識しているのかいないのか不明だけど、短くない期間の中で誰と一緒になれるかは気になるところなのだろう。
 わたしが通っていた中学校は一駅隣だから、この高校を志望したかつての同級生は少なくない。しかし、旭山高校に通いたいと望む人はたくさんいるのだ。豊かな自然に囲まれた、勉強や生活の面で環境の整っているこの高校は、都内各地だけに留まらず、関東地方のあちらこちらから志望者がやってくる。当然、倍率は高い。
 わたしも憧れていた。パンフレットを見て、人から話を聞いて、そして実際に訪問して――ここで三年間を過ごす自分の姿を何度も思い描いてみたものだ。想像するときにわたしと並んで歩くのは、ほかでもない花音だったのだが。
 ――小百合、わたし、だめだった。
 誰もいなくなった教室の片隅。日が暮れかかって、オレンジ色の光が教室に射し込んでいた。わたしは、背中を向けた花音の後ろ姿をずっと見つめていた。一心に窓の向こうを眺めている彼女の、いつもより小さく見えた後ろ姿を。
 ――それなら、わたし……。
 ――小百合。
 花音の低い、咎めるような声がした。彼女は、わたしが次に言おうとした台詞に心づいていた。
 ――憧れていたのでしょう? せっかく努力して掴んだのに、手放したら絶対に後悔するよ。
 ――でも……。
 わたしは花音と同じ高校に行きたかった。それはなによりも優先する願いだった。将来のことなんかどうだってかまわない。花音と違う高校を選んでしまったら、その方が後悔する。そう思っていた。
 いや、今もそう思っている。
 ――大丈夫。わたし、翡翠ヶ丘は受かったから。わりと近いところに、お互い通えるよ。
 その慰めに納得したわけじゃなかったけれど、結局、わたしは旭山に進学した。
 花音がいないせいでできた心の洞を、必死に別のなにかで穴埋めしようと試みる。だが、なかなか上手くいかない。わたしに幾人かの友達がいても、親友と呼べるのは彼女ただ一人だから。
 教室に足を踏み入れる。不思議と静かな心であたりを眺めやることができた。早くもそこかしこで小さな集団が生まれている。女の子はまったくよく喋る生き物だ。教室に反響するたくさんの笑い声が、わたしの胸中をざわざわとかき乱す。花音がいてくれたら、とは考えない。そこまで依存したくない。
 見た限り、中学時代の知り合いはいない。わたしの席は窓際だった。一番後ろから二番目。腰掛けて、なにをするでもなく、窓の外を見据えた。校庭を隔てた向こうに山が見える。旭山は山の麓にある。山に見守られながら少女たちは成長する。一方、翡翠ヶ丘は湖に接している。
 前の席二つが空いていた。鞄は置いてあるから、登校して友達の元へ行ったのだろう。そして、三つ前の席には座っている人があった。姿勢よく座していて、注意して見つめていても、まるで動く気配がない。読書でもしているのかしら。
 ふいに、後方からの視線に気づいたみたいにして、その少女がパッと振り返った。首だけ、ではなく、半身を逸らせるようにして。あまりのことでわたしに視線を外す暇はなかった。しっかりと目が合ってしまう。
 大きな目。眉毛の上で切り揃えられた前髪の下で、柔らかな光を放っている。やや厚い唇はきゅっと引き結ばれていたが、わたしと見交わした瞬間に花が咲くようにほころんだ。心が温かくなり、もっと見ていたいと思わされる笑顔――
 ドアを開ける音、席に着くよう呼びかける先生の声。急に現実に帰った気がし、図らずも居住まいを正した。
 笑顔を浮かべてくれた彼女はとっくに前に向き直っていた。――後で名前を尋ねてみよう。友達になれるかな。なんてことを、先生の話を聞き流しながら、頭の片隅で。

          ◯

 一つ伸びをして、肩が緊張していたことを自覚した。やっぱり今日は特別な日なのかもしれない。並木道を抜け、川沿いにまた出る。川面が陽の光をはね返しててらてらと輝いていた。
 入学式は恙なく終わり――とまとめたいところだけど、母親に大きな声で名前を呼ばれたときは頭から火が出そうだった。案の定、中学からの友達は肩を震わせていた。笑いそうになるのを我慢していたからだ。高校生にもなってあんな扱いをされては困る。
 でも、式全体はとてもよかった。先生方の話は素直に聞けたし、式の手伝いをしていた先輩方(生徒会かな?)もみんな素敵だった。なにより、学校の匂いみたいなものが心地よくて、すっと落ち着ける瞬間が確かにあった。
 あたしは、ほんとうは旭山に行きたかった。今はそれほど焦がれていないけれど、結果を突きつけられたときには絶望した。小百合と別々の学校になってしまうのも悲しかった。だけど、せめて彼女が合格してくれたから、旭山がどんな様子なのか教えてもらえる。それに両校はとても近いし、今日、翡翠ヶ丘を好きになれそうだと思えた。前に進める。
 下校になって、あたしは一人で帰ることにした。友好を温めるのは明日からにして、このあたりをゆっくり歩いてみたくなったのだ。太陽はまだ真上。残された時間は山ほど。川のせせらぎとたまに吹く風の音だけがあたしに寄り添って、気まぐれな足取りを後押しする。深呼吸した。名前の分からない花の香りが鼻孔をくすぐる。
 ぶらぶらして帰るなら小百合を誘うのもありかもしれない。そう思いついて、足を止めた。反転して翡翠ヶ丘のある方を捉える。見ていてもどんな様子なのか伝わってこない。遠すぎる。
 小百合はさっそく新しい友達を作って、歓談に耽っている可能性もある。彼女は自分自身を「人見知り」だと決めつけているが、実際にちゃんとあたしたちと友達になっているじゃないか。それに、見た目で特徴に乏しいあたしに引き換え、小百合は背が高くてスタイルがいい。つまり、初見で目立つのだ。
 もしかしたら、すでに誰かに目をつけられて、言い寄られているのかも、なんてね。
 あたしは一人歩きを再開させた。お饅頭でも買って帰ろう。考えただけでお腹が空いてきた。

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 声をかけられなかった。
 すごすごと教室を後にする。荷物の量はほとんど変わっていないはずなのに、学生鞄が行きよりも重く感じるのはなぜだろう。
 かけようとはした。自他ともに認める人見知りのわたしは、普段なら初対面の人に話しかけるなんて絶対にしないけれど、前の席の彼女は気になった。近づきになりたいと思わせる笑顔だった。
 しかし、一歩踏み出した瞬間に、別の誰かが彼女の傍に行き、あっという間に親しげな雰囲気を醸し出す。その空気感に心づいてしまったら、もう割って入るのは無理だった。残念だけど、今日はまだ初めの一日。いつか仲よくなれるチャンスが訪れるかも。
 それにしても、と廊下をとぼとぼ踏みしめつつ、思い巡らす。入学式は華やかだった。わたしと同じ新入生たちはみんなかわいかったし、堂々としていた。なにより、歓迎のための歌を披露してくれた何人かの先輩方(生徒会なのか、有志なのか)は目映いばかりで見惚れた。わたしたちと違ってブレザーに着られている感じがまるでなくて、それぞれに着こなしていた。
 その歌のときにピアノを伴奏していた人。男の子みたいに髪を短くしていて、それが涼しい顔立ちによく似合っていた。かっこいい。あんな風にピアノを弾けたら、人生が楽しいだろうな。
 改めて、旭山に入ったことを強く実感した。あらゆるシーンで。それと同時に、肩にかかる荷物が増すような感覚になる。わたしがこの中にあって、やっていかれるのかしら。花音もいないというのに。
 つい、俯きがちに歩いてしまいそうになる。今はこの場を離れたかった。純粋に入学できたことを喜べる自分がいたらいいのに。そんなのいないのだ。
 肩を誰かに叩かれた気がした。最初は気のせいだと思った。わたしなんかを誰が引き止めるの。しかし、続けて肩に伝わる誰かの温もり。歩みを止めた。気のせいではなかったようだから。
 目を瞬いた。どうして、と声を上げそうになった。声をかけようとした彼女が、確かにそこにいた。ずっと前と同じように微笑んでいた。
「そないに目を大きゅうして」
 口元に手を当てる仕草。
 わたしは急に恥ずかしさを覚えた。笑い返そうと試みるけれど、やはり上手くいかない。
「もう帰るん?」
 うん、だか、まあ、だか明瞭としない答えが漏れる。「今日はもう帰ろうかと」
「わたしと、お話せえへん?」
 わたしは昔からかわいい女の子に弱かった。こんな風に誘われたら断れない。早くも心は傾いていた。
「わたし、三浦七瀬。中学の友達からは、苗字の三と七瀬の七を取って、ミナって呼ばれとった」
 よかったらそう呼んでな。打ち明け話を耳元で囁かれたみたいだった。
 あなたは、と問われる。ほんとうは問われる前に言いたかった。そうすればもう少しちゃんと会話していると思えたのに。
 高校生活一日目の筋書きを自ら手掛けてみても、こうはならない。運命の袖は掴もうとすると思いもかけないものを見せてくれるときがある。
「中田……小百合」

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 翌朝は一転して曇天。見上げると雲の動きが速い。今にも雨が降り出しそうな気配。鞄の中に折りたたみの傘を忍ばせて、湖の近くの学校を目指した。
 昨夜はよく眠れて心身ともにすっきりしている心地。人間は一日という区切りを設けるために眠る。いや、眠らなければならないからそういう区切りが生まれたのか。いずれにしても一日を迎える上での心身の状態は大切。
 翡翠ヶ丘に入学したら必ず入ろうと決めていた部活がある。その部活は通っていた中学校にはなかったから、ひたすらに憧れを抱いていた。
 それは演劇部。翡翠ヶ丘は演劇が盛んだった。その部活を目当てに志望する生徒が昔は絶えなかったという話だ。最近はそこまででもないらしいが、それでも一番人気の部活だ。
 後から創設された旭山も演劇に力を入れている。そして双子のように相並んでいる学校であるから、それぞれの演技を披露し合うのが恒例となっていた。毎年の秋、自分たちの学校へ相手を招くか、相手の学校へお邪魔するかを一年ごとに繰り返して、現在もその交流は続いている。
 演劇部に入れば旭山に行ける。小百合にも見てもらえる。
 あの日のことを昨日の出来事のようにして思い出せる。――中学二年の頃、どこかでその広告を見つけた。チェーホフ原作の『桜の園』の舞台をやる、という広告で、あたしはその絵から伝わってくる不思議な魅力に引きつけられた。チケット代はそう安くはなかったけど、どうしても見たくなった。一度その思いの火が胸のうちに点ると、容易に吹き消されなかった。
 一人で赴く勇気はなかったから、小百合を誘った。小百合は読書家だから、『桜の園』はすでに読んでいた。突然の誘いにも、むしろ嬉しげに応じてくれた。電車を乗り継いで都心の劇場へ向かった。一度しか足を運んだことのないその箱をありありと思い浮かべられる。その日の感動や興奮、すべてがきらきらして目に映ったことも。
 演技の終盤から涙していた。内容に、というよりも演技をしている役者の姿に。人の演技はこんなに心に迫ってくるものなのだと初めて知った。そして、カーテンコールの瞬間、惜しみない拍手を送りながら、その涙はまたはらはらと流れた。終わってから小百合と手を取り合って、互いの泣き顔を笑い合った。恍惚とした思いのままに、あたしたちは手をつないで帰った。きっといつまでも忘れない思い出。
 演劇部のイメージは漠然としたものしかなくて、実際憧れだけで飛び込んで失敗する恐れもあるけど、そのときはそのとき。中学時代、三年間帰宅部でも充実した日々を送れていた。
 見た目から自分を変えたかったわけではないが、春休みの終わりに、三つ編みにしていた髪を思い切って短くし、ショート・ボブにした。
 試してみたっていいじゃないか。

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