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溢れる想い 十二話

 汗にまみれた体を引きずって、家まで辿り着いた。灯りが安心をもたらしてくれる。どんなに疲れていても、つらいことがあっても、迎えてくれる家族がいる。そういう証。
 何気なく使った、つらい、という言葉を反芻する。今の内面を埋め尽くしているものは、きっと「つらい」。想いが報われなかったのは悲しいことだ。夢見ていた分だけ、失ってしまったときの絶望感は大きくなる。それだけ好きだったという表われでもある。
「おかえりー」
 母さんの声がする。ただいま、と返して、リビングに向かう。
 テレビの前で、野間さんが眠っている。傍らにビールの空き缶がある。
「今日も眠っちゃったわ」
 呆れたような口調なのに、おれには母さんが微笑んでいるように見えた。
 野間さんはお酒が好きなのだけど、酔うと眠くなってしまうタイプで、毎夜のようにいつの間にか横になっている。静かな眠りで。
 おれは野間さんは見据えて、胸中に質問を抱く。母さんに訊いてみたい。どうして? って。どうして、父さんと離婚したの? どうして、野間さんと再婚したの? 別に、野間さんに不満があるわけではないけど。ただ、純粋にどうしてなのか知りたい。
 人を好きになる瞬間と、そうじゃなくなる瞬間って分かるのかな。後から思い返せば、あのタイミングだったのではないかと言えるものだろうか。
 おれは前田を好きになった。でも、前田はおれを愛してはいなかった。
 心の空白を埋めてくれる何かがほしい。大人はこういうとき、お酒に逃げるのだろう。一口飲んでみたくなったけれど、やめておいた。どうせまだ、味も分からないだろうから。

「お誕生日おめでとう」
 休み時間。背中から声がしたかと思うと、いきなりそう言われた。振り返らなくても誰か分かった。上野だ。

「ありがとう。よく憶えてたな」
「まあね」
「でも、手ぶら?」
「そうよ。プレゼント、欲しかった? 欲しいなら何か買ってくるけど」
 おれは首を横に振った。「いや、いいよ。気持ちだけで十分嬉しい」
「――あのさ、やっぱり四人でまた会うのは、無理かな?」
「上野って、」おれはごまかすように笑った。「けっこう蒸し返してくれるな」
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ……」
「分かってるけど。――まあ、無理じゃないかな。もう、あんな風に会うことは」
「そう、だよね」
 どうして、上野は正直なのかな。そんなに寂しげに俯かれたら、罪悪感を覚えてしまう。
「まあ、おれたち二人は関係ないから、普通に会えるだろ」
「――うん」上野は何度も頷いた。「うんうん、そうね。そうだよね」
 それならよかった、と彼女は笑みを浮かべる。
 そうやって笑っている顔がほんとうに似合うよ。そんなことを考えていた。
 そのまま、屋上へ向かった。いつものように、フェンスに腰掛けた大志が片手を挙げる。
「よお、遅かったな」
「悪い」
 近づいていくと、小さな袋に入った何かを投げられた。咄嗟に受け取り、中身を確認する。どこでも売っているようなお菓子の箱だった。
「何これ?」
「あれ、食べたことない? めっちゃうまいよ」
「そうじゃなくて。どういうつもりかってこと」
 今日、誕生日だろ、と大志は平然と答えた。前は忘れていたくせに、今回はちゃんと憶えていたらしい。
「くれんの?」
「やるよ、そんくらい」
 安かったし、と続けたのは照れ臭さもあったのかもしれない。
「サンキュ。これで一週間くらい生き延びられそうだ」
 大志が笑った。おれも笑った。
「――なんか、よく分かんないんだけどさ」
「ああ」
「微妙に、周りの雰囲気が変わったよな」
 何も聞かされていない大志も、少なからず感じているものがあるようだ。おれと前田の距離感が変わったことに。

 当分は大志に話さないでおこうと決めている。その前にばれてしまうかもしれないけれど、それでもよかった。とにかく、自分から言うつもりはない。
「そうか? なんだよ、周りの雰囲気って」
 だから、今はこうしてとぼけておく。

 ただ、嬉しいって言ってほしかっただけだった。「嬉しい」しかいらなかった。想いを打ち明けられて口にする答えが、「嬉しい」だけなら――「ごめん」とか「でも」が続かなければよかったのに。
 彼女と一緒にいられた時間があんなにあったことを、おれは喜ぶべきかもしれない。それだけでも満足していいのかもしれない。だから、自分から動いて失った、きらきらした日々を惜しむのは間違っている。永遠など存在しない。
 でも、もうあの日以上の衝撃はないと思っていたのに。どういうことなのか問いただしたい。誰に問いただせばいいのか分からないけれど。
 なんか教室が騒がしいと思ったら、みんなが窓際に群がっていた。外を窺って、興奮気味に言葉を交わしている。
 おれも興味本位で窓の方へ寄った。何があるのか気になった。窓に片手を当てて、外の様子に目をこらす。クラスのみんなの視線の先にいたのは、大志と前田だった。体育館の方へ歩いている。
 校庭をゆっくりと突っ切って、体育館裏へと消えていく。消えたところで、周りから歓声みたいな声が上がった。体育館裏へ行くことの意味は、よく知っている。おれだって、あそこで告白をしたのだから。
 つまり、大志と前田がこれから告白の瞬間へと誘われるのだ。どちらが想いを告げるのかは分からないが、少なくとも何かが変わろうとしている。
 おれと違って、二人は人目の多い昼休みを選んだ。こんなに注目されたら、結果が容易に知られてしまうではないか。それでも構わないのか。それとも、もう二人の心は決まりきっているのか。だからああして体育館裏という「聖地」に行くことは、儀式みたいなものなのか。
 だからって、なんでだ。なんで、あの二人なのだ。他のよく知らない男女二人だったら、たとえ振られたばかりでも、微笑ましい気持ちで眺められたと思うのに。大勢の注目を浴びているのは、おれの親友である大志と、片想いしていた前田なのだ。
 こんなことって、普通にあるものだろうか。
「水野、君」
 いつの間にか、隣に上野が立っていた。おれを心配しているのが、その表情からよく分かる。
「大丈夫だよ」

 おれは強がった。
「本当に?」
「本当だって。あの二人、付き合うのかな。完全に予想外だったけど、全くの他人よりはよかったのかもしれない――な」
「水野君……」
 おれは窓から離れた。
「ちょっと、腹が痛くなってきたわ。食べ過ぎたかもな。先生が何か言ってたら、保健室に行ってるって伝えといて」
 そのまま、教室から逃げた。そう、逃げたのだ。自分に突きつけられた現実から。

 保健室になど行かなかった。最初は本当に行こうかと考えたけど、でも、もっと逃げたかった。少なくとも、学校から離れたかった。だから、そっと校門を抜けて、適当な方向へ走り出した。
 寂しかった。切なかった。誰かを本気で好きになるってことは、こういうことなのだ。あんな状況を見せ付けられたら、平気でいられない。
 駅が見えてきた。夏休み、海に行くためにここで集まったことを思い出した。あの日、遠くから面々を窺っていたのは、おれと前田だった。
 海に行こう、と決めた。海を見たら、少しは気分が晴れるかもしれない。風が運んでくる潮の匂いを嗅ぎたい。ちょうど滑り込んできた電車に乗った。
 ぼんやりしていると涙が溢れそうな気がした。それでなくとも、あれこれと考えてしまうのはまずかった。邪念を振り払うために、一心に外の風景を見つめた。無心になるための努力をした。
 街が、やがて見えてくる山が、海が流れていく。空と海の青、そのコントラスト。秋空の綺麗な青は、世界で最も大きな鏡に照らされてきらめく。
 ずっと外だけを眺めていた。時間の経過も曖昧になるくらい。おかげで、目的地に辿り着いたときはあっという間に感じた。降りて、周囲の匂いを体内に入れようとする。予想以上に、気持ちがいい。
 海岸まで下っていく。砂浜を突っ切って、テトラポッドに向かった。あそこに座って、気の済むまで海を見つめていよう。
 誰かと一緒に来たかった。――誰と? 二人で並んで眺めたかった。手を繋ぎ合って、たまに微笑みを交わして。――おれは何を言っている。どうしたと言うのだろう。嫌なことを忘れるためにここへ来たのではなかったか。どうして、誰かといたいなんて考えてしまうのだ。
 まったく吹っ切れていなかった。かなり引きずっていた。おれは膝を抱えて、顔をうずめた。嗚咽が漏れそうになるのを懸命に堪えた。頭の中で、切ない、切ない、が盛んに繰り返された。
 切ない、切ない。寂しい、寂しい。実体の伴わない虚しさは、人の心をひたすらに悲しませる。
 刹那、背後でかすかな足音がしたかと思うと、いきなり抱き締められた。視界の左右の端に、白い誰かの両腕が伸びている。背中に感じる胸の柔らかい感触から、おれはまかさ、と思った。ひょっとして、今おれを抱き締めているのは――
「水野君」
「――松井?」
 その声は、確かに松井だった。どうしてここに。まだ学校は終わっていない。付いてきたのか。わざわざここまで?
「松井、どうして――」
「いいの」松井は腕に力を加えた。胸の感触がより強くなる。「何も言わなくていいよ。勝手に付いてきただけだから」
 戸惑いもあったけれど、彼女が来てくれてよかった。一人になりたくてここまで逃げてきたが、潜在的に人の温もりを求めていた。実体の伴う確かな温もり。
「おれ――」言葉が零れ落ちてきた。「おれ、前田が好きだった――。だから、告白した。だけど、その想いは報われなかった。でも、それはなんとか乗り越えられそうだった。――なのに、前田は、大志と――。きっと、前田は大志が好きだったんだ。だから、おれを選ばなかったんだ。幸か不幸か、おれのよく知っている大志だったんだ」
「分かってる」
 松井の声は、あくまでも優しい。隙間だらけのおれの心に染み入る。
「全部、分かってるよ」
 さらに、私は、と続ける。
「私は、水野君が好きだった」
 ――え?
「初めて出会ったその日から。今日まで、ずっと。学校から出て行く水野君を偶然見かけて、私は必死で追いかけた。その背中に危うさを感じたから。でも、駅までは追いかけられたんだけど、電車は一本差で乗られなかった。どこに行くのか考えたら、きっと、夏休みに行った海じゃないかな、って思った。そうしたら、当たった」
「――おれの、ことを」
 好きなのか?
 松井が頷く気配がした。依然、彼女はおれを抱き締めている。その圧倒的な触れ心地に、理性が吹っ飛びそうになった。
「松井、ありがとう」
 おれは両腕を外して、互いが向き合うようになった。すぐ近くに、松井の顔がある。何度も見てきた、よく知っている顔。なのに、このときはいつもよりもかわいく映った。
「ありがとう」
 そっと、唇を交わした。最初は長く、その後は味わうように幾度も。口の中に甘く広がるのは、愛しいという溢れる思い。
 初めてのキスだった。

 冬休みは忙しくなるね、と笑顔で語りかけてきたのは上野だった。おれでなくとも、バレー部の人ならその意味は測れた。
「そうだな、絶対に忙しくなる」
「男子も女子も、ね」
 嬉しそうなのは自信の表れなのかもしれない。でも、自惚れでは決してないだろう。女子は。そう、女子は。
 上野は男子に対しての奮起を促している。前回の情けない敗戦を引っ張ってくるまでもなく、おれたちに寄せられる期待には応えられていない。
「分かってるよ、上野」
 もう、心の懸案事項は解決した。むしろ、好転した。おれはバレーに本気で打ち込める精神状態を保てている。
 おれが無断で学校を早退した日から、上野はその関連について尋ねてこなくなった。意図的に話題にすることを避けていた。おれも積極的に話したいわけではなかったから、その態度はありがたかった。
 前田が大志に想いを告げ、二人はくっ付いた。その裏で、おれと松井が密かにくっ付いていた。大っぴらにするつもりはなかったのに、こういうものは不思議と広まるものだ。なんとなく、周りに認知されていた。きっと、上野も知っている。
 まあ、過去に色々あったことは消えてくれない事実だが、残った現実が生きていく居場所だ。前向きに生きていこうと思う。もう、そう思えるようになった。
 バレーの冬の大会は、十二月の頭から地区予選が始まる。激戦を勝ち抜いた高校が、県大会に出場し、年明けに全国大会が行われる。冬休みが忙しくなるということは、県大会も全国大会も出場する側に立つ、というニュアンスだ。
 夏、女子はあと一歩だった。県の手応えも掴んでいた。男子も負けていられない。何より、自分の実力を充分に発揮できないのが悔しい。結果もそうだが、満足のできるプレーをせめてしたい。

「おまたせ」
 頭の上に胸を乗せながら松井が現れる。一緒にいることが多くなっても、彼女は刺激の強すぎる存在だ。なんだか、常にむらむらしてしまいそうで。

「おう」
 そっと頭を外すけれど、そのままでもよかった。なんて。
 誰もいない美術室で「密会」のような遊びをしている。誰かが来るかもしれない環境で二人きりでいることは、これまた刺激的だ。
 机の上に座るおれの正面に、彼女も腰掛ける。すぐ、目の前に。短いスカートから白い足が伸びている。手を伸ばして腿に触れる、揉む。
 二人で、くすくすと笑う。
 制服のシャツにも手を伸ばす。手に余るくらいの胸を揉んで、その快感に酔いしれる。ボタンを一つずつ取っていき、脱がしてしまう。下着だけになった彼女の胸に顔をうずめる。剥き出しの背中に手を回す。彼女も、おれのことを強く抱きすくめる。
 ふと、遠くから駆けてくる足音が聞こえてきた。何かを喚いて、はしゃいでいる様子が窺える。確実に、こちらへ近づいてきている気がした。
 おれたちは焦った。誰であれ、この状況を見られてしまうのはあまりよろしくない。咄嗟に、机の下に隠れた。なんとなく、松井を庇うような形で寄り添った。
 幸いにも、彼らは美術室の横を通り過ぎたものの、中に入ってくることはなかった。喧騒が遠ざかっていく。
 ホッと、一息つく。本当に安心した。二人で目を合わせて、声を上げて笑い出した。
「あー、びっくりした」
「ほんと、見付かるかと思った。――でも、面白いね、これ」
「何を言ってんだよ」
 悪戯っぽく笑う彼女の唇を、自らのそれで塞いだ。愛しいこの瞬間が永遠に続けばいいのに。

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