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箱に願いを(5)

 学校は夏季休業期間に入った。家や図書館に出向いて受験勉強に努める毎日。秋乃とは、会っていない。
 会いたい気持ちはある。顔を見て、話せるだけでいい。だけど、どんな口実を設けて会えと言うのか。今までこんなことで悩まなかった。彼女に伝えらないたくさんの言葉が、胸の中で持て余されている。
 いっそのこと、ほかの人も誘って、数人で集まるのもありかもしれない。そうすれば、少しでも解れるだろうか。でも、誰を。
 真夏くんか。わたしは短く息を漏らした。彼を呼ぶことで何かが明確になってしまうかもしれないけれど、しかし、それで絶たれるようなつながりがこれからも続くとは思えない。
 考え始めると、勉強が手につかなくなった。一度頭の中で想定してしまうと、その考えにとり憑かれたようになった。誘わなければ、この気持ちは鎮まらない。そんなところまで来ていた。
 スマートフォンを手にし、誘いの文面を考える。秋乃に対して、いろんな前置きも含めて文字を打ち込む。読み返すと、狂ったみたいに長くなっていた。何をこんなに長々と書いているのか。無駄な部分を削っていくと、ずいぶんあっさりした内容に変わった。冷たい印象を与えてしまうかもしれないけど、これくらいシンプルな方が快諾してもらいやすい、かな。
 ここまでの作業を繰り返して、すっかり秋乃に連絡を取れなくなっていたことに気づく。以前なら、深く考えずに、自然に言葉を届けられたというのに。距離ができたのか、ひょっとしたら、距離がぐっと縮まる過程で現れた障害なのかも。前向きにも後ろ向きにも、いくらでも思い巡らすことはできた。
 やがて、ぐったりと疲れたようになって秋乃にメールを送った。祈るみたいにして、「送信完了」と表示された画面を見つめる。画面が真っ黒に変わるまで。
 続けて、真夏くんを誘った。文面はちっとも悩まなかった。彼に話しかけるように、気楽で、わたしの言葉だった。
 返信がすぐに来るかもしれないけれど、わたしは電源を切った。どんな種類の返答があったとしても、直面するには心の準備がいる。受け入れるための、覚悟。
 後悔するだろう。前触れもなく誘ってしまったことで。喜びを得るだろう。きっと、三人でお出かけできる。
 気持ちを切り替えて参考書に向き直ろうとすると、また余計な不安が脳内に足を踏み入れてきた。三人だけではまずい気がする。何がどう、というわけではなく、そんな予感がするだけ。三人だけではわたしは絶望を味わう。大いなる絶望を、抱えきれないそれを。
 ほかにも誰か。せめて、もう一人別の人を。わたしたちと深く関わっていない人ほどいい。バランスを保ってくれる第三者。今のままでは、実現したらとても歪な組み合わせだ。理由もなく、そんな思念に囚われた。
 すぐにはふさわしい人が思いつかなかった。

 まるで捗らなかった受験勉強、参考書を鞄に仕舞って、図書館を出る。とぼとぼと、夕焼けの色に染まる道を歩いた。今日一日、どんな風にして過ごしたのか分からない。気づいたらすべてが終わっていた。
 わたしは明るい性格だと人に言われる。いつも笑顔で、元気だって。たぶん、それは間違っていない。わたしの本来の気質。みんなの前で明るく振る舞える。
 だけど、それは自分の奥底にある後ろ向きの性格に裏打ちされた明るさだ。自分の悲観的な部分を知っていて、いつも見つめているから、かえって普段は前を向いて生きていられる。
 同性を好きになったきっかけも、この性格が関係しているのかもしれない。わたしは自分に自信が持てないし、しっかりと軸を据えられない。自分でさえ把握し切れていないのに、異性は遥か彼方の存在で、ぜんぜん全容が掴めない。それより、同性の方が、友情も愛情も抱ける。
 秋乃は大人しくて、消極的な女の子だと思われがち。確かに、控えめで、お淑やかな、女性らしい側面は強いけれど。でも、わたしのようにやわではない。自分を持っているし、積極的に周りと関係を持たないが、悲観的にはけっしてならない。
 女性らしさは表面にすべて現れるわけではない。明るい性格か、大人しいか。おっぱいが大きいか、抱きしめたら折れてしまうほど小さい背か。そられも一つの側面ではあるけど、すべてを推し量れると思ったら驕りだ。
 わたしが秋乃に惹かれたのはいろいろな部分が違ったから。重なる面もある。二人の間にある差異の按配が絶妙で、きっとわたしは秋乃に想いを寄せた。そのはず。
 では、秋乃は――秋乃は、どう感じているのだろう。彼女はわたしの向こうに、どんなものを見ているのかな。
「広末さん」
 唐突に声をかけられ、わたしは固まった。聞き覚えのあまりない声。そちらを向いて確かめると、そこにいたのは会田さんだった。
「こ、こんばんは」
 会田さんは両手を後ろにやっていて、こんばんは、とにっこり微笑んだ。首を傾けたとき、長い髪が肩から流れた。
「図書館で勉強していたの?」
「うん、まあ。小嶺さんは?」
「わたしは家でがんばってたんだけど、今は息抜きの散歩中。まさか広末さんに会うなんて」
 会田さんの声を聞くことは少ない。彼女の声は淀みなくて、すらすらと出てくる。表情も豊かだ。ただ、彼女の本性は分からない。
 一つ、閃くものがあった。わたしたちの間に入って、余計な詮索をしない人。どちらかの立場に寄り過ぎない人――
「あの、会田さん」
 黒目がゆっくりと瞬く。わたしが突拍子もない誘いをかけても、その瞳は見開かれなかった。
 太陽が隠れそうになる頃。

 神保町は秋乃と二人で来たことがあった。言わずと知れた本の街、読書家の秋乃はとても喜んでいた。
 地下鉄の駅から出て、少し歩いた先にある三省堂書店の前で待ち合わせだった。わたしは柄にもなく早めに着いてしまって、しばらく待ちぼうけを食うことになった。通りに立ってのんびり目の前の光景を眺める。
 来るのはあと三人。真っ先に返事をくれた真夏くん。そして、突然の誘いに応じてくれた会田さん。意外な思いはしたけれど、頷いた彼女の笑顔に曇りはなかった。
 もう一人はもちろん秋乃。返信は一番遅く、しかもわたしはすぐにそれを見られなかった。もし断られたらどうしようと、見るのが怖かったのだ。眠りに就くまでついに見られず、明日、起きてから必ず見ようと決意の火を胸に灯した。だけど、かえって内容が気になっていつまでも心は落ち着かない。結局、諦めて返信を読むと、予想に反して――わたしは後ろ向きにも、すげない返答ばかり思い浮かべていた――明るく、快諾の旨を伝える言葉が綴られていた。それで、ようやく安心して眠られた。
 四人で集まってどうなるのか。何より、秋乃とはちゃんと接せるのか――鞄の中に忍ばせた箱に軽く触れる。先日、物置から出てきた小箱を、秋乃にプレゼントしようと考えていた。昔の雰囲気を感じさせるものが好きな秋乃だから、おそらく喜んでくれる。それに、そうすることでわたしの願いが天に通じるかもしれない。大切な人に、願いを叶えてくれるという箱を渡すことで。
「おはよう」
 視界でふわりと黒髪がよぎる。最初に現れたのは会田さんだった。聡い印象を与える瞳に怪訝な色が浮かぶ。
「どうしたの? ぼうっとしていなかった?」
「ううん、大丈夫。わたしにしては珍しく早く着いちゃったから」
 待ち合わせは不思議だ。それまで一人きりだった者たちが当たり前のように集まり、時間を共有し、そしてやがて別れる。わたしたちはこれまで幾度の「待ち合わせ」を経験しただろう。これから、どれだけそれを繰り返すことだろう。
「会田さんは秋乃や真夏くんと面識あるのだっけ」
「さすがに同じクラスだから、顔と名前くらいは一致するよ。ほとんど話したことないけど」
 会田さんは薄く笑った。
「わたしが誘っておいてなんだけど――」
「誘いに応じるとは思わなかった?」
 言おうとしたことを引き取ってくれた。曖昧に頷き返す。
「でも、嬉しい」
「どうして?」
「どうしてって……会田さんはなんとなく、気になる存在だったから」
「ふうん。まあ、わたしって浮いているからね。そこはかとなく」
 思いのほか自然と会話できている。その事実に驚いた。ひらりひらりとかわされているような気もするけれど、彼女の口調には嫌味がなかった。
 接していて確信する。彼女は今の境遇を自ら選んでいる。「浮いている」自分を。
「広末さんは――春海って呼んでもいい?」
「いいよ。わたしも、冬って呼ばして」
「うん。――春海は、小嶺さんと付き合っているのよね」
「そう、だけど」
 声のトーンが落ちてしまわないように気をつけて。
「よかったね」
「何が、よかった?」
「受け入れられる環境があって」
 会田さん――冬の言わんとするところは分かった。秋乃に想いを打ち明ける前、わたしは、どうしてわたしだけみんなと違うのだろうと悩んでいた。悩んでいながらも、その気持ちは覆らなかった。あのまま一人で抱え込み続けていたら、淀み切って沼になっていただろう。
 わたしと秋乃が結ばれたのは幸福なこと。やがて失われるのだとしても。
「みんなが優しいから」
「何より、春海の勇気が賞賛に値すると思う。友達ですらいられなくなるかもしれないのに、一歩踏み出したその勇気が」
 実は、告白した日のことはあまり憶えていない。頭が真っ白になっていたからか。
 わたしには分からないかな、冬がぽつりと呟いた。
 聞き咎めて彼女の表情を確かめていると、ごまかすように微かに笑った。
「ううん。わたしは、誰かを好きになったことがないから。そんな風に誰かに愛を捧げるということが、ちゃんと分からなくて」
 愛を捧げる、なんて大げさだけど。でも、冬はほんとに誰かを好きになったことがないのかしら。どんな人を好きになるのだろう。
 しばらくしてから、集合時間より少し遅れて、秋乃と真夏くんがほぼ同時に姿を見せた。

 わたしの心は歪だ。無様に誰かを求めてさまよい、でも、心の形状が歪だから、誰とも合わない。どんなに笑顔を目の当たりにできても、どんなに肌を触れ合わすことができても、いつまでも満たされないこの容器を抱えたわたしは、どうすればいいのだろう。
 秋乃に箱をプレゼントした。お世辞にもかわいらしいと言えたものではないけれど、秋乃は喜んでくれた。ありがとう、大切にするね、と。そのリアクションの素直さにかえって戸惑った。だけど、嬉しかった。
 東京堂書店の中にあるカフェで、お昼ご飯を食べている。店内は居心地のいい空間が広がっていて、照明の色も落ち着いていた。カフェは本好きだろう大人たちでほとんどの席が埋まっていたが、幸いにも四人で座れる場所が空いていた。大人の仲間入りをできたような気分で向かい合う。
 わたしの心を箱でイメージする。整った形をしていなくて、優しさや愛情を流し込んでもどこからか漏れてしまう。だからいつまでも満たされない。いつまでも渇き、あくまでも憧憬や羨望の眼差しで周囲をじっと見据えている。愛は見返りを求めないもの、と聞いたことがあるけど、知っていたからと言って自分を抑制できるわけじゃない。
 だって、秋乃が好きなのだもの。主観的になっても客観的になっても、冷静になっても感情的になっても、それは変わらない。
「これからどうしようか」
 今日のメンバーで唯一の男子、真夏くんが誰にともなく呟いた。この四人で一緒にいることは不思議で仕方がないのに、だんだんと慣れてきた。
「春海はどうするつもりでした?」
 秋乃の目をまっすぐに見つめ返し、力なく答える。
「秋乃がいるから、本屋巡りがいいかな、って思っていたんだけど。あとは、神保町とか御茶ノ水あたりを歩いてみようかな、って」
「本屋巡りなんて、ほかの二人はいいのでしょうか? 退屈させませんか」
「おれはいいよ」
 真夏くんが頷く。
「本は正直読まないけど、店の雰囲気は好きだし。付き合うのは少しも苦じゃないと思う」
「わたしも、いいよ」
 冬も同調する。
「わたしは本を読むしね。――その代わり、わたしも行きたいところが一つだけあるのだけど」
 三人の視線が冬に集中した。何を言い出すのだろう、と。
 それらの視線を受けても、彼女は澄ました風だった。心持ち、唇の端を吊り上げている。
「聖堂に行ってみない? ここからわりかし近い場所にあるのだけれど」

 信号を渡り、街の中でも一際目立つ明治大学の校舎に沿って進む。そのあまりに美しく、そして圧倒的なスケールに、ほんとうにここで学んでいる人たちがいるのかと、懐疑的にすらなる。
 大きな通りから外れると、とたんに静かな時間がやってきた。話している私たちの声だけがよく響く。休日で、校庭に誰もいない小学校が現れる。雲梯、鉄棒――なんだか懐かしい。そこには石碑があった。夏目漱石の言葉が彫られている。冬はもともと知っていたみたいで、三人に紹介してくれた。秋乃がいたく感銘を受けていた。
 わたしでも、漱石が明治期の作家であることくらい分かっている。教科書で読んだものもある。試験の直前には、作者の意図とやらを探ろうと、繰り返し読んだほどだ。その石碑は、過去に名を馳せた偉人が確かに存在したことを証明し、彼がいた時間と今が地続きだというのを教えてくれる。
 小学校と隣接する場所に、幼稚園があった。その区画内に公園も。普段はきっと、遊び回る子どもたちの声がこだましているのだろう。けれど、今は人影もまばら。大きな木を背にしたブランコが寂しげに佇んでいる。
 坂を上がっていくと、歴史を感じさせるようなホテルがあった。山の上ホテル。聞いた憶えがある。わたしがその名を耳にしたことがあるくらいだから、有名なのかもしれない。その趣深さを前にしたら、自分たちの稚さが自覚できてしまう。嫌でも。
 そこからさらに上がっていくと、目的地はすぐだった。冬が行きたいと告げた、聖堂。なんとなく想像はしていたけど、実際に目の当たりにし、その優美な作りに見惚れてしまった。想像を遥かに超えている。建物をずっと見上げているわたしたちは、傍から見たらさぞかし間抜けな姿を晒していたことだろう。
「入ってみよう」
 冬が返事も聞かず、スタスタと中へ足を踏み入れていく。呆気にとられながらも、彼女に続くしかなかった。気づいたらすっかり彼女のペースに乗せられている。
 こうして接していくと深く理解できる。会田冬という女子は、人付き合いが苦手なわけでも協調性がないわけでもなく、自分の意志がしっかりとしている人なのだ。一見しただけでは分からないもの。それは、同い年からしたら大人なのかもしれないし、でも、大人からしたらかえって子どもっぽい、のかな。
 敷地内には簡単に入れた。止める人もなく、そこの一番綺麗で大きな建物の前にたどり着く。開け放たれた背の高い扉、中から音楽と歌声がこちらへ届く。礼拝の最中だろうか。
「近くで見てみよう」
 すぐには頷きかねて、隣を見やってしまう。同じようにわたしを見てきた秋乃と目が合い、その瞳に迷いの色が浮かんでいるのを察した。
「うん、行ってみよう」
 しかし、真夏くんは快諾した。どこか、今の状況を楽しんでいる節がある。冬を見つめる真夏くんの表情が柔らかい。
 さすがに聖堂内へ進む直前で、声をかけられた。冬が、
「学校で外国の宗教について学んでいるのですが、少し見学させてもらえませんか?」
 と事前に考えてきたかのように、もっともらしいことを告げる。おかげで、後方から見学することを許された。
 入るときに蝋燭を手渡された。
 建物内は薄暗い。大きめのガラス窓から差し込む光と、中央あたりにあるたくさんの蝋燭の火だけが明るさを生み出している。蝋燭の向こうには椅子が並べられていて、そこを埋め尽くすくらいの人がいた。さらにその向こうには歌っている人たちが。
 蝋燭のこちら側で、それらの様子を立ったまま眺めている人もたくさんいる。敬虔な人間がこれだけいるのだと感じた。
 ほかの人らを真似て、蝋燭を差しにいった。火をもらって、銀色の器に置いた。こうして、来た人の分だけ蝋燭は増える。
 後方に下がったところで紙が配られた。歌詞が書かれている。わたしたちも歌え、ということなのかな。でも、歌詞が分かっても音程とかはすぐに掴めない。なんとなく冬に視線を向けると、彼女は唇をぎゅっと引き締めて、前方を見据えていた。その、真摯な眼差し。無垢な光。
 わたしもただ、彼らの姿を捉えていることにした。どんな意味があるのかちゃんと知っていなくても、すべてを肌で感じ取ろうとする心がけが、きっと大事。
 神秘的な、でもとても充実感を覚える時間が過ぎていった。つきり。また、胸が痛んでしまう。嬉しいときでも胸は痛くなるのね。
 わたしは今、とっても嬉しい。心から嬉しい。何より、誰よりも愛おしい秋乃が一緒にいるから。――その彼女が、何度となく真夏くんの様子を窺っていたとしたって。
 神様だけが死後の世界を知っている。わたしが死んだ日、悲しんでくれる人はどれだけいるのかしら。

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