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エゴイズムの時代(1)

 かつて、自分の味方以外は全て敵だという時代があったと仮定してみよう。
 実際にあったか、どうかは問題ではない。おそらく、そのような時代が何回もあったに違いないが、歴史的な検証はしない。なぜなら、今でもそのような時代は続いているからである。
 このことに関し疑問をもたれる方も多いだろう。価値相対主義が全盛時代の今、何が敵が分からなくなっていることこそ、この時代を生きにくくしている理由だからだ。

(前略)昔はこうじゃなかった。世界はもっと小さかった。手応えのようなものがあった。自分が今何をやっているかがちゃんとわかった。みんなが何を求めているかがちゃんとわかった。メディアそのものが小さかった。小さな村みたいだった。みんながみんなの顔を知ってた。』
 (中略)
 『でも今はそうじゃない。何が正義かなんて誰にもわからん。みんなわかってない。だから目の前のことをこなしているだけだ。雪かきだ。(後略)
     (村上春樹、『ダンス・ダンス・ダンス』)

 全くそのとおりだ。何が善か悪か、それが分からない。だから敵もいない。
 いや、確かに敵はいるのだが、それが誰か分からない。今まで味方だったものが、次の瞬間には敵に変わっているかもしれない、そんな複雑な時代になっている。
 だから我々に出来ることは
   (1)ある仮想の敵をつくる。
   (2)自分以外を全て敵とする。(あるいはその逆)
   (3)その時々で相手が敵か味方か、瞬時に決定していく
   (4)全ての人を第三者化して、”ムシ”する
 とりあえずは、この4通りしかないだろう。

(1)は冒頭に記した「自分の味方以外は、全て敵」という考え方である。正確に記せば、あるものを敵とすることによって、ある種の共同体をでっちあげ、今度は逆にその共同体以外のものを敵とする態度である。
 「仮想の」としたが、それは実体/仮想という対立の上に立つ「仮想」ではない。
 私見ではあるが、そもそも「実体」そのものが仮想以外の何物でもない。敵がいなければ成立しない共同体は「仮想」そのものであり、逆にその共同体に対立するような「敵」もやはり「仮想」のものである。そういう意味での「仮想」だ。

 もっと簡単に述べれば、これは二分法の考え方だ。
 冷戦の終結までは資本主義と社会主義という対立が主たるものだったが、それ以外にもこのような対立は、様々な場所で現れている。
 スキゾ/パラノ、ポジティヴ/ネガティヴ、デジタル/アナログなどなど。
 このような二分法は本来的には、ある種の均衡状態を保っているはずなのであるが、実際には自分の側にあるものを優位に置くことがほとんどである。このような二分法は、最終的には帝国主義に通じる。
 つまり自分の所属する共同体に従属しなければならないという考えを生むのだ。そして、その優位/劣等の二分法はそのまま、正義/悪の二分法に通じる。 

 冒頭に「かつて」と記したように、このような考え方はかなり遅れている。いわゆるムラ意識(誰もが私を知っているし、私もみんなを知っているという意識)に基づく共同体が、外部的なもの(=他者)に出会ったとき、その外部=他者を敵とするという思想が古典的であるということは言うまでもない。
 しかし、問題はこのような古典的な考え方が、共同体がいったん崩れた場で再構築されたということである。つまり本来的には共同体が外部=他者と接したときにこそ敵が生まれるはずであるべきものが、逆に外部=他者を造り上げることによって共同体が出来上がるということなのである。

 このような形態に変化すると、この考え方は現在でもかなり有効なものとなる。 おそらく我々は何かを敵としなければ目標を失って行き詰まってしまう。しかし、外部が敵である場合、その予想がつかない(ある程度、予想がつくならばそれは外部=他者でない。)だけに戦略が立てにくいのに対し、元々敵が敵であることを前提とされた存在ならば、攻略が立てやすい。
  例えば「反核」という思想の側につくとする。この場合、当然のことながら核保有国とか、それを推奨する人たちを敵としている。だからこそ、どの点を批判したらいいか(例えば危険性など)が分かるのである。その意味で二分法は敵の設定も、その敵への対し方もかなり楽なものであり、だからこそこのような考え方をしている人が現在においても、かなり存在するのである。

 しかし、この二分法のからくりに現代はそろそろ気付いてきたように思える。もう仮想敵を作ることだけでは処理できないほど、時代は複雑になってきているのだ。
 二分法は確かに自分の立場を単純化し確定して、アイデンティティを確立するのには有効である。
 しかし、それ故にそのような確定された部分以外のところではどうしたらよいのかが分からないのだ。先ほどの例を繰り返すことになるが、反核団体は核推奨思想に対してはその意義を果たすことが出来る。
 しかし、例えば日本政府を批判しようとしたら、それは核への態度以外の所では批判できないのであり、日本政府のあり方そのものを批判することは出来ない。
 そうすると、日本政府そのものを批判するには、日本政府を敵とするしかないのであり、そのようにして仮想敵はいくつも増加していくことになり、最終的には結局誰が味方で誰が敵か分からないという状態に戻ることになってしまうのだ。

 だからといって共同体さえも信じないような(2)の方法はよけいに困難であろう。いうまでもなく正常な人間社会ではこんなエゴイスティックなやり方は通用しない。自分以外のものを全て敵とするなどという生き方では息が詰まる。

 このような生き方を出来るものは、敵さえも操る”力”がある一握りの人たちか、さもなくばよほど強靱な精神の持ち主だろう。逆に全てを味方にするという方法はもっと危険だ。そんなことをしたら、いわゆる”善人”として、いいように利用されるだけだ。もっとも逆に言えば強靱な精神さえ持っていれば、これほど楽な生き方はないだろう。少なくとも敵か味方かを考える手間が省けるのだから。
 だがこのような生き方は一握りの権力者か聖人かのどちらかしかできないだろう。すくなくとも一般の人には無縁の生き方である。

  さて(3)のような生き方はどうであろう。おそらく、この方法と(4)の方法が最も「現在的」な生き方であるだろう。
   我々は「雪かき」のごとく、目の前にある事象を即時に判断して片付けていくしかない。その判断の基準は我々自身にある。(もし他の何かに求めるならば(1)と同じになってしまう。)
  しかしその判断の基準が我々にあるからこそ、その判断が正しかったか間違えていたかは、結果を見なければ、あるいは結果を見てさえも分からないときもあるのだ。

 これは一見不安定で困難な生き方かもしれない。しかし、-にもかかわらず- 我々が「現代的」に生きようとするなら、これ以外の方法を見つけるのは難しい。自分を正義とするエゴイスティックな生き方を避けようとする者は、ここまで冷めた感覚で、人間を、そして時には自分自らも裁かなければならないのである。
  これは現代的な生き方であると記したが、正確に言えば「近代」から「現代」に通じる生き方である。エゴイズムではない自由主義、個人主義に留まろうとする限り、この考え方に行き着くしかない。

  これは(2)とは違った意味で困難な生き方である。自らに全ての決定権があるという考え方は、自由ではあるが、その自由が故に疲れる。どこかに基準があり、その基準に合わせて生きる方が楽なのだ。だから、もしこの生き方を貫徹しようとすれば、自らが自らのために律法を造るという地点にまで思想を進めざるを得ず、本来流動的な判断の基準が、固定化せざるを得ない。そうすると(1)や(2)と結局のところ同じ考えになってしまう。

  例えば、吉本隆明や柄谷行人などはあそこまで過激な表現をしているところだけを見ると、固定化しているように見えるが、実はかなり微妙なバランス感覚で緩やかに思想の流動化を図り、うまく対処している。しかし、万人にこのようなバランス感覚が有るとは思えない。全ての人が絶対主義にも、この後に述べる単なる相対主義にも陥らないでこのような生き方が出来るかと問われると、かなり疑問が残る。
  だが、実のところ、このような生き方が最も理想的なのだ。複雑な現代社会に対して、積極的に、しかもエゴイズムに陥らずに生きようとすれば、このような生き方が最も適しているのだ。

 (4)の全ての人を第三者化して、ムシして生きるという生き方は、おそらく現在最も多くの人が選択している生き方である。その意味で前述したように最も現在的な生き方である。
 しかし(3)が積極的な生き方であったのに対し、こちらは消極的な生き方である。この思想は敵か味方か分からないということを、そのまま放置するという考えである。「ムシ」などという表現を使うと、悪い印象を与えるだろうが、相対主義は、この「ムシ」しているということを巧妙に隠している。だからこそ、現代において最も理想的な生き方であると錯覚されてしまうのである。

 敵か味方かを分からないまま放置するという考えは、相手に対して何ら害を与えないのだから、(益も与えないが)、相手の生き方を認めていると錯覚される。だから相対主義に立つ人は、人の生き方を素直に認めることが出来る「オトナ」というように考えられるのだ。

 このような相対主義の考え方が表面に現れるのは「人それぞれだから」という言葉である。あるいは「その人の趣味だから」とか「人は一人一人違うのだから、違った答えを持っていて当然だろう」などの言葉である。これらの言葉は非常に正しい言葉のように思える。
 いや、確かに「人それぞれ」という言葉は正しい。それを認めず。みんな自分と同じだと考えているのはエゴイズムにほかならない。
  しかし、この言葉を自分の価値観を守るために使うのならば、それは卑怯者以外の何物でもない。
  例えば、自分が嫌いなものを、他の人が好きだと言ったとする。そのとき、自分はそれに対し「どういう頭の構造をしているんだ」などと思いつつも、「まあ人それぞれだから」と言う。
 その言葉の裏には「あなたの嫌いなものを私が好きだとしても、私には私の好みがあるのだから、それに口出しするな」というエゴイスティックな意味が隠されているのである。
 つまり「全ては正しい」という相対主義は「私は正しい」というエゴイズムと背中合わせになっているのだ。

 「人それぞれ」という言葉はまた、他者とのコミュニケーションを拒否した、極端な人間不信の言葉であるとも言える。
 何か対立が生じたときに「人の好みだから」という言葉はすこぶる有効である。この言葉によって対立が治まることは少なくない。
 しかしこの言葉の「力」は、相手にたいしてポジティヴなものではない。自分が相手への攻撃を放棄することによって、相手からの攻撃を拒否すると言ったネガティヴなものである。
 この言葉には「あなたに私の価値観が理解できるわけがないのだから、何も言うな。その代わり私もあなたには何も言わない。」という意味が隠されている。ここには人間的なコミュニケーションは存在しない。安全に自分を守るための「接触」があるだけである。

 さて、このような相対主義は、敵か味方かの判断を放棄し、途方もない混沌をそのまま引き受けるものだから、どこかで必ず問題が生じることは言うまでもない。
 たとえば、いきなり目の前の人が、自分に銃を突き付けたときに、それでも「まあ人それぞれだから」と言えるとは思えない。
 このように、自分に直接的に利害関係が問われたときに相対主義はきわめて弱い立場なのである。最も逆にそのような現実的な状態を出来得る限り排除する思想が相対主義なのだとも言える。いずれにしろ相対主義が一見開放的に見えて、その実、最も閉鎖的な思想であると言うことは確かなようだ。

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