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ゆるく繋がる、ということ

少しずつ、春めいてきました。皆さまどうお過ごしでしょうか?
私は今日、桃の花を買いました。

この前、とあるオンラインサロンの勉強会に参加して、
みたらし加奈さんのお話を聞きました。
そこで「自分のサポーターを増やす」という話があって。

たしか、自分のサポーターはたくさんいて良い、
それに自分も自分のサポーターだっていうお話だったかと思います。

最初に聞いたとき「サポーター」から想像されたのは、
自分の悩みを打ち明けられる存在とか、
いつでもそばにいてくれる存在、とか、そういうことでした。

しかし、みたらし加奈さんのお話によると、
「サポーター」の定義はもっと広そうでした。
自分がちょっと元気になれる存在 — 例えば、
近所のカフェの店員さんや、時々更新されるあのインスタ
(これらの例は私考案) — のことも指すようです。

必ずしも、心や物理的な距離がとても近い人たちだけが、
「サポーター」ではない、私の理解はそんな感じです。

そういった緩いつながりというのは、案外大切なのかもしれません。
頻繁に会うわけではないからこそ、
出会えた時のありがたみだったり、ワクワクだったり。

心がちょこっと跳ねるくらいの感動。
そんな出来事に日々を生きる、ささやかな糧があったりするものです。

改めて振り返ってみると、
今の私にとってのサポーターは、文通かなと思いました。
そうです、文通。この便利なご時世に、わざわざ「文通」です。

月に二回、匿名で手書きのやり取り。
匿名でできるのが、現代っぽいなあと思ったりしています。
そして、それに安心する私もまた平凡な現代人。

顔も名前も分からない人たちと、言葉の交換をする日々。
最初はどんなものかと少し不安でしたが、
童話の世界に迷い込んだみたいで、案外楽しい。

文字の書き方や、便箋の雰囲気から、こんな人かなと想像してみたり。
ポストに何かが投函されるたびに、気になってチラチラ見てしまう。

大人と言われる年齢になっても、
やっぱりどこかに子どもの心が眠っていて、
どうやらその「子ども」を私は起こしてしまったみたいです。

文通相手さんとは、趣味の話をする程度。
だけど私はここに、ちょこっと生きる糧を見出している気がします。

そして私も、誰かの「サポーター」に、
どこかでなれていたらいいな、なんて思います。

そんな私の「サポーター」のお話でした。


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