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人間椅子という「異形」が好きだ

純粋な「大好き」という気持ちを貫き続けた結果は、往々にして「異形」なものとなる。


ーーー大学に入学して間もない4月のある日のこと。サークルの新入生歓迎ブースで、僕は「人間椅子のコピバンやらない?」と誘われていた。

当時の僕は上京したばかりで、頭のてっぺんから足の先まで芋っぽい、いや、もはや芋そのものと言っても差し支えないほどの田舎者だった。西友に並ぶ里芋の方がよっぽど都会的である。

この田舎者、好きなものには熱く真っ直ぐな性格だが、残念なことに、とにかく了見が狭かった。
バンドサークルに集まる者は皆、MetallicaやBlack Sabbathが好きに違いない。何の疑いもなく、そう思い込んでいたほどである。

ついでに大学受験を終えたばかりの彼は、厄介なことに、根拠なき万能感も持っていた。
「海外のヘヴィメタルこそ至高で、他のジャンルはくたばれ」などと得意顔で言って憚らない新入生に、何人かの先輩は若干引いていたと思う。今の僕が彼と対峙したとしても、満面の愛想笑いでやり過ごすか、あるいはオブラートに包んだ言葉で諌めるに違いない。

とはいえ、「オーランはゴミ」という過激な看板を掲げ、キャンパス内でスウェディッシュデスメタルを爆音で流し、モッシュを始めるようなサークルである。こんな不遜な芋少年でも、ありがたいことに受け入れてくれた。

さて、ここで冒頭のくだりである。あるKという先輩が、

「人間椅子のコピバンやらない?和製サバスって呼ばれてて、俺めっちゃ好きなんだけどベースボーカルできる?」

と声をかけてくれた。根拠のない万能感を持っていた僕はこう答えた。

「人間椅子は聞いたことないし、ベースボーカルやったことないけど、できます!」

芋のくせに、なぜこんなに自信満々なのだろうか。つくづく己の馬鹿さに呆れてしまう。

それでもギターのKさんはドラムを叩いてくれる先輩も確保し、僕らは「針の山」をやる約束を取り付けた。
Kさんはその場で「針の山」を聞かせてくれたが、ざわつく教室でスマホのスピーカーから聞こえる音では、正直よく分からなかった。

その後、兄と2人で暮らすアパートに帰ってから「人間椅子 針の山」とググってみた。
聴くのが楽しみな反面、所詮は日本の無名なロックバンドだろう、とナメている節もあった。芋の分際でとんでもなく失礼な奴である。ともあれ「疾風怒濤」と書かれた動画の再生ボタンを押してみた。



ーーーーなんだ、この「異形」は。


白塗り坊主と文豪とチンピラ。湿った音だが勢いのある演奏。独特な節回し。そして狂信的に頭を振るファン。

Metallicaバージョンの”Breadfan”でリフ自体は聞いたことがあったが、当時の僕にとって、人間椅子はとにかく「異形」だった。禁忌に触れた気すらして、少し恐ろしい感覚だった。

そうは言っても、Kさんには満面のフレッシュ焼き芋フェイスで、意気揚々と「できます!」と言ってしまった手前、やるしかない。
せっかく入学したのだから麗らかな青春を謳歌すればいいものを、なぜか4月になっても、受験生時代の勤勉さを引きずっていた当時の僕は、フォレスト・ガンプ並みに真面目であった。その日から僕は練習を始める。安アパートでは歌えないため、1人カラオケに行きベースを持って歌う、というか、がなり立てる練習もした。歌詞を覚えるのは苦手だが、暗記するために英単語のごとく何度も反復した。

すると不思議なもので、繰り返し聴くうちに、人間椅子はただの色モノバンドでないことに気付いてきた。
随所に聞こえるブリティッシュロックの影響。歌詞は例えて言うなら、柳田國男のような土着的な風を感じる。ギターと同じくらい歪んだベースも、なんだか心地いい。鈴木さんの独特な節回しがクセになってくる。

ほどなくして、セッション会でKさんたちと「針の山」をなんとか演奏し終えた。今振り返れば何とも粗雑な演奏だったと思うが、当時は上手くいった充実感と、メンバー同士の音が合う楽しさで満たされていた。ちなみにこれが、人生初のバンドでの成功体験である。

そんなポジティブな感情も相まってか、次第に人間椅子の他の曲も聴きたくなってきた。再びYouTubeをのぞき、「なまはげ」のライブ映像がトップに出てきた。
「7分半か、長いな」と思いながら再生した。重ね重ね失礼な芋である。

だが、イントロから世界観にグッと引き込まれる。
土着的な歌詞に導かれ、辿り着いた「なまけものはいねが」というサビには度肝を抜かれた。中間リフがめちゃくちゃカッコいい。そして何より和嶋さんの津軽三味線を再現したギターソロ。凄まじい。

日本のロックでこんなにすごい曲があるのか。7分半の間で、人間椅子という「異形」の出っ張った部分に、僕の琴線が引っ掛かったのだ。
1回じゃ飽き足らず、何度も繰り返し聴いた。そしていつの間にか、僕は人間椅子の虜となっていた。



ーーー人間椅子の曲は多彩だ。ある種の雛形があるとはいえ、展開もリズムも歌詞のテーマも、非常にバラエティに富んでいる。だがどの曲も、根底にはあまりにも強烈な、いわば人間椅子の匂いが漂っており、それによって一貫した人間椅子の世界観が出来上がっている。

では、果たして人間椅子の匂いとは何だろう?

「ブリティッシュロックの影響が〜」
「鈴木さんのストレートなリフが〜」
「変拍子がふんだんに使われた展開が〜」
「和嶋さんの文学的な歌詞が〜」
「ノブさんの骨太なドラムが〜」

いやいや、こういったWikipediaに並んでいるような言葉じゃない。これじゃあちょっと浅い。もっとこう、深いところに何かがあるような気がするんだよなぁ…。そんな思いが年々募っていた。

先日、Zepp DiverCityで行われた苦楽ツアーファイナルを観てきた。ライブが始まると、やはり大先輩ベテランバンドである。キャリアを感じる演奏だ。勢いの中に丁寧さが滲み出ている。
そして、その瞬間は突然訪れた。「疾れGT」の途中で、ふと気付いたのだ。


ああそうか、人間椅子の匂いって「〇〇が大好き」って感情そのものの匂いなんだ。


点と点が繋がった気がした。

「ブリティッシュロックの影響を受けた曲」ではなく「ブリティッシュロックが大好きな人が作った曲」だ。

「文学的な歌詞」ではなく「文学が大好きな人が書いた歌詞」だ。


うん、こっちの方が遥かにしっくりくる。

人間とは不思議なもので、「大好き」という感情の発露は十人十色である。

あの人のことが、大好きだから優しくする人もいれば、大好きだから厳しく当たる人もいる。
彼のことが、大好きだから束縛する人もいれば、大好きだから放っておく人もいる。
彼女のことが、大好きだから抱きしめる人もいれば、大好きだから殺すなんて恐ろしい結論に至る人も稀にいたりする。

しかも大好きの度合いが高いほど、その発露は濃いものになる。必要以上に強く抱きしめたり、強く突き放して勘違いされちゃったり。もしくは考えるだけでなく、本当に殺しちゃったり。

人間椅子も同じことなのだと思う。ロックや文学や地元青森だけじゃなく、世の中に存在する自分が大好きなものを、30年間も大好きであり続けたからこそ、あそこまで「異形」となったのだろう。

おそらく、「異形」とは「大好き」の裏返しなのだ。


ーーーさて、上京したての新入生に話を戻そう。
「なまはげ」に衝撃を受けてから数ヶ月後の秋、再びKさんたちと僕は、人間椅子のコピバンを組んだ。その頃には、人間椅子という「異形」が愛おしく感じるようになっていた。
僕の記憶が確かなら、「鉄格子の黙示録」「恐怖!ふじつぼ人間」「りんごの泪」「陰獣」「なまはげ」「針の山」というセトリだった。

現役人間椅子ファンである今の僕から見ても、「疾風怒濤」と「なまはげ」への愛が溢れた、なかなか素晴らしいセトリじゃないかと思う。衣装も全員が人間椅子に寄せた。白塗りもしたが、当時は早く髪を伸ばしたかったので、スキンヘッドは諦めた。

あれから約6年の月日が流れた。芋同然だった少年は、徐々に垢抜けていき、今ではステージに立ち不特定多数の目に触れるアーティスト側の人間となった。

「疾れGT」で点と点が繋がって以来、アーティストとは生き様であるという言葉が、やたらと身に沁みる。
年齢を重ね常識や社会性を覚えるにつれて、「大好き」という感情に鈍感な大人になってしまったら、アーティストとしてはおしまいなのかもしれない。

10年、20年、30年後、結果的に僕も何らかの「異形」になれたら嬉しいな。好きなものに熱く、真っ直ぐな自分であり続けたいなと思いながら、今日も人間椅子の曲を聴き続ける。


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人間椅子に刺激を受けた僕は、何かが大好きな感情の発露として、文章を書きたいと思った。何かが大好きな証を残したいとも思った。

そんなわけで今回が、僕のnote初投稿だ。ある意味では、自分が何かを大好きでい続けるために書いているnoteでもあるが、ここまで読んでくれた皆さんの手が滑り、うっかり投げ銭でもしてくれたら、遠慮なく音楽活動費に充てたいので、読者の皆さんが手が滑るおまじないでも唱えて寝ることとする。

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