読書メモ:ビョンチョル・ハン『疲労社会』(横山陸 訳・花伝社)
『疲労社会』を読みながら取っていた読書メモです。
内容や構造がちょっと複雑な本だったので(でも哲学本にしては相当読みやすくてフレンドリーな一冊でした!)、読みながら迷子になりそうな時などに、誰かのお役に立てたら嬉しいな〜と思い投稿します。
本の目次構造に沿って、内容で気になったところ(完全に主観)を箇条書きで書き出しました。(※小見出しは私が勝手に目印として付けているものです。)
メモだけでは本書の魅力は全然伝わりきらないので、ぜひぜひ、実際に本を手にとって読んでみていただきたいです。2022年はまだ3月ですが、今年読んだ中では圧倒的に超絶ヒットな一冊でした。
これは、絶対、必読です。
読書レビューはこちらに書いていますので、合わせて読んでいただけたらとっても嬉しいです。
<書籍情報>
『疲労社会』
ビョンチョル・ハン 著
横山陸 訳
花伝社(2021)
※原書初版:2010
精神的暴力
現代を特徴づける病:心の梗塞←肯定性の過剰による
前世紀は免疫学の時代:自己と他者が明確に区別された時代=異質な他者が他性のために排除された時代
↓今日の社会は他性と異質性が喪失。他性は差異になった。
差異=同質なもの、免疫反応を引き起こさない。
└グローバリゼーション!
免疫学的パラダイムは、グローバリゼーションとの相性が悪い。
グローバリゼーションのプロセスは物事の境界を撤廃する。
↓私たちは否定性の乏しい時代に生きている。
同質なものが多すぎる!→オーバーヒートし、自我が焼き切れる。
精神疾患とは、肯定性の過剰に起因する病理状態。
ボードリヤール「同質なものによって生きる者は、同質なものによって死ぬ。」肯定性の暴力が内在する空間=同質なものに満たされた空間
└肯定性の暴力とは、システム自体に内在する暴力
└肯定的なものの大衆化
規律(ディシプリン)社会の彼岸
規律社会(近代)から能力社会(後期近代)へ
規律社会=フーコーの主題
└この社会の住人は、「従順な主体」
└「否(ノー)」が体現する禁止という否定性によって規定される社会
└禁止や命令に従わない者としての狂人や犯罪者を生み出した
↑
↓能力社会=21世紀の社会
└この社会の住人は、「能力の主体」
└「できる」という能為の助動詞が体現する肯定性が象徴する社会
└「否(ノー)」と言うことができない者としてのうつ病患者と無能な人間を生み出す
なぜ規律社会から能力社会へ移行したのか
規律社会→能力社会へのパラダイムシフトには連続性がある。
└「生産性を最大化するための努力」が社会的無意識に一貫して内在。生産性が一定の水準に達すると、禁止の否定性は生産の向上を妨害する。
→「すべき」(否定性)よりも「できる」(肯定性)の方がはるかに効果的
└規律に従順な主体よりも、能力の主体の方がスピーディで生産的!
=生産性の向上において「すべき」と「できる」は連続している。
深い退屈
肯定性の過剰=刺激の過剰、情報の過剰、衝動の過剰
└人間は「マルチタスク化」し、物事に観想的に没入できなくなっている。
└これは野生化であり、退化。(決して文明化ではない)
└いまやたんに生存することが人々の関心事になっている。ベンヤミン:深い退屈は精神的なリラックスのピーク
メルロ=ポンティ:セザンヌが風景を観想的に観察する様子には、自己の外化あるいは脱内面化がある
ニーチェ:「落ち着きのなさのために、私たちの文明はひとつの新たな野蛮に終わる。活動的な連中が、つまり落ち着きのない連中が、これほどまでに幅をきかせた時代はかつてなかった。それゆえ、人類の性格を矯正することが必要不可欠であり、それは観想的な要素を大幅に強化することである。」
活動的な生
ハンナ・アーレントが見た近代社会と「労働する動物」
労働社会としての近代社会=人間を労働する動物へ引き下げる
→行為(信仰にかわり奇跡を起こすもの)のあらゆる可能性を打ち砕く近代において個々人は類の一部としてより良く「機能」するために自らの個人としての在り方を断念する
→人間の種としての類的な生が唯一絶対化され、勝利をおさめる
→あらゆる活動はもはや活動ではなく、生物学的なプロセスに見える
社会の自動化は生物学的な突然変異のプロセスに見える
└(オートポイエーシスとメタモルフォーゼ!)
能力社会における「労働する動物」
現代の能力社会で観察できる人間は、必ずしもアーレントの言う「近代の労働する動物」と一致しない。
能力社会における労働する動物は、個性や自我を放棄していない。
むしろ、あますところなく自我で飾り立てられている。
受動的ではなく、過剰に活動的(ハイパーアクティブ)であり、過剰なノイローゼ状態にある。
↓なぜこうなったか?
・後期近代は「脱物語化」が進み、儚さの感情が強まる。
・生は「剥き出しの生」となる。
└私たちはなんとしても、この剥き出しの生を健康に維持しなければならなくなる。
└ニーチェ:神が死んだあとでは健康が女神となる。
生きた屍としての私たち
ジョルジョ・アガンベン:ホモ・サケル=絶対に殺害可能な生
└後期近代の能力社会においては、私たちみんながホモ・サケルとなる。ホモ・サケルとしての私たちの特異性=絶対的に殺害不可能な生、すなわち「生きた屍」
└いまや剥き出しの生自体が聖別され、いかなる犠牲を払っても維持すべきものとなる。
新たな強制を生み出す労働社会
剥き出しの生となったことに対する反応→過剰な活動、労働と生産のヒステリー、社会の加速化
└持続や存立という意味での存在の欠如と関係。
↓この社会は自由な社会とはならず、新たな強制を生み出す。
=主人自身が労働の奴隷となってしまう労働社会
└労働を強制する社会
└各人がみずからの強制労働収容所を携行している
└囚人が同時に看守であり、犠牲者が同時に加害者。
→人々は自己自身から搾取する!
「観想的な生」というオルタナティブ?
アレント:「労働する動物の勝利」という社会発展のなかで、思考はほとんど被害を被らなかった。
└思考とは活動的な生における最も活動的な活動カトー:「外見上は何もしていないときにこそ、人はもっとも活動的であり、孤独において自分だけでいるときにこそ、もっとも独りでない」
キケロ:観想的な生によってこそ、はじめて人間は自分がなるべき存在になる
観想する能力の喪失=活動的な生の絶対化と密接に関連。
└ヒステリーや神経質の原因
見ることの教育学
観想的な生に必要なもの
観想的な生を送るためには、見ることの特別な教育が必要
見るすべを学ぶ=深い観想的な注意をもって、長くゆっくりとした眼差しで見ることができるようになること(ニーチェ)
そのつどの刺激に従ってしまうこと=疲弊の症状
←→観想的な生は、迫ってくる刺激に抵抗する。=「否(ノー)」といえる主権的行為純粋な活動=持続に過ぎない
└すでに存在するものを他のものへと転換させるためには、中断という否定性(刺激を遮断する習性)が必要
└行為が労働に落ちぶれないためには、「躊躇すること」が必要私たちが生きる世界は、中断・あいだ・合間の時間に乏しい。
└ニーチェ:「仕事などの活動に忙しい人間には、たいてい高級な活動性が欠けている」機械は手を休めることができない。
躊躇する能力が欠けている点では、コンピューターもなお愚鈍である。憤慨=ある状態を中断し、別の新たな状態を始めることのできる能力。
否定性の廃棄と人間の機械化
社会に肯定する力が増大する
→不安や悲しみといった感情も弱まる
→否定的感情が弱まる
→否定性の不在によって、思考は計算へと変質する
└(思考=他なるものに対する抗体と自然の免疫による防御のネットワーク)
└コンピュータはいかなる他性からも自由な肯定的な機械
→いかなる反発もなしに多くの情報を処理できる世界の肯定化(成果の最大化を目指す行き過ぎた努力による、否定性の廃棄)
→人間も社会も、能力を発揮して成果を生み出し続けるだけの自閉的な機械へと変貌
└ヘーゲル:まさに否定性こそが、現に存在するもの(ダーザイン)に生気を与えている。否定の潜勢力=後ろを振り返り熟考することを可能にする
肯定の潜勢力(肯定性の過剰)=先へと考え進めることしか許さない
疲労社会
能力社会と機械人間
能力社会
→ドーピング社会に。
→人間は能力を発揮して成果を生み出し続けるだけの機械に。
→能力機械としての人間。
└過剰な疲労と疲弊を生み出す。
孤独な疲労←→友情をひらく疲労
能力社会における疲労=孤独な疲労
↑
↓ハントケの言う疲労
└他者と語り合い、人々を和解させるような疲労。
自我がどんどん減退していくこととしての疲労。
→自我を開いて、世界へと浸透させる。
→孤独な疲労によって破壊された二重性を再び作り上げることができる疲労
└あいだ(差異のうちで差異がないこととしての友情の空間)を開く疲労
→創造的な刺激(インスピレーション)を与えてくれる。精神(ガイスト)を生み出す。
└目が明晰になるような疲労。→長くゆっくりとしたかたちへと近づく。
→疲労によって、物事をそのままにさせておく特別な平静、無為が可能になる。
→深い疲労は、同一性(アイデンティティ)の締め金を緩める。
→境界が廃棄(アウフヘーベン)され、友情というオーラが備わる。
「合間の時間」とインスピレーション
インスピレーションを与えてくれる疲労
=否定の潜勢力の疲労。
=無為の疲労。安息日=無為の日
└何かを為すためという目的から解放される日。
自らの気遣いから解放される日。
↓
重要なのは、合間の時間。七日目が神聖とされた
→神聖なのは、何かを為すための日ではなく、為さない日であり、使えないものが使えるようになる日。
=疲労の日。合間の時間とは、労働のない時間であり、遊びの時間である。
└疲労によって人々は自我という鎧を脱ぎ捨てる。
疲れた者の長くゆっくりとした眼差しの中で、決意し確固とした態度は平静さ(ゲラッセンハイト)に場所をゆずる。
燃え尽き症(バーンアウト)社会
自己実現が自己破壊に向かう仕組み
能力の主体=肯定の主体
└ポスト・フロイト的な自我。もはや無意識など存在しない。
→義務に従った労働を追求しない。
→命令する他者という否定性からの解放
→自分自身の経営者となる
→新たな強制。
→行動原理の格率は自由と自発性。
└この主体がとりわけ期待するのは、快楽を得ること。能力の主体
└能力を発揮し成果を出すことへの強迫観念によって、この主体はいつもさらに成果を生み出すよう強いられている。
→自分が倒れるまで自分自身と競い合い、自分自身を追いこそうとする。
→虚脱感=「燃え尽き症(バーンアウト)」
└能力の主体は、自分の死に向かって自己を実現する。
=自己実現が自己破壊と表裏一体。
肯定性の過剰と心の病
うつ病患者=性格のない人間
└(経済の観点から見れば)柔軟な人間であり、あらゆる機能を担うことができる。
→高い経済効率が生み出される!心の病=肯定性の過剰
└「否(ノー)」と言えない無能
→「してはならない」ではなく、「すべてできる」と関係している。うつ病の要因
=過度に緊張し変調するナルシズム的な自己関係。
→能力の主体は自分自身との戦いによって倦み疲れ、疲弊している。
└自分自身にしがみついて離れない。
→自己の空洞化と空疎化を引き起こす。ニーチェ:強い心をもつ者は「安らぎ」を保ってゆっくりと動き、過剰に活発な者に嫌悪を覚える。
『ツァラトゥストラ』:「きみたちはみんな、激しい労働を好み、また速いもの、新しいもの、見慣れないものを好む。ーーきみたちは自分自身に耐えることができないのだ。きみたちの勤勉とは逃避であり、自分自身を忘れようという意思である。もしも、きみたちがもっと生を信じているならば、きみたちはこれほど刹那に身を任せはしないだろう。しかしきみたちは待つために十分な中身をもち合わせていない。ーー怠けるためにさえ、十分な中身をもち合わせていないのだ!」
理想的自我による肯定性の暴力と自己搾取
「自分自身になること」「ただ自分自身にふさわしい存在になること」を義務づける命法
↓
他のものから自己を遮断し、自己に重みを与える重力を生み出さない。超自我=自我を支配する、自己を従属させる
└否定的な強制
↑
↓理想的自我=理想的自我を目指して自己をプロジェクトする。
└肯定的な強制
└これは自己による強制であり、自由として与えられる。
→自己による暴力の被害者は、自分が自由だと錯覚している。
↓
理想的自我と現実の自我との隔たりから、自分自身を攻撃する自虐が生じてくる。能力社会=自己搾取社会
└「暴力の位相(トポロジー)的な変化」:他者としての主権者による否定性の暴力(「すべき」)から、自己による肯定性(「できる」)の暴力へ。資本主義経済=生き延びることを絶対化する
└生きるためのより多くの能力が生み出される。
↓
ただ生き延びることのヒステリー。
物語(ナラティブ)も脱ぎ捨てられる。→健康幻想へ能力社会のホモ・サケルたちの生は、生きた屍(アン・デッド)のようである。彼らは死ぬためにはあまりにも生き生きとしており、生きるためにはあまりにも死んでいるようなのである。
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