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ローカル線紀行#05 八木新宮線
大和八木駅~五條BC
中世から続く本願寺の寺内町が現代でも白壁や街割りを残している.名家・商家の重厚な家々.微妙に直線的に進めない四辻.溶け込むように木枠で覆われた自販機.町を囲繞する環濠.300年も続いた自治都市としての栄華が今なお息づいている.
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今井町を後にして15分ほど歩くと突如として建築が高層になった.近鉄一のジャンクション,大和八木だ.名古屋・伊勢志摩・京都・大阪・吉野方面からの旅客がここで落ち合い,ほとんどの特急列車も停車してドアを開く.駅ナカの商店を一瞥してから外の奈良交通案内所へ向かう.
ガラス張りのモダンな案内所の入り口で迎え入れてくれたのはせんとくんであった.橿原にもやはりいたのか.窓口に向かうと,5,350円を支払い,新宮行の切符を手に入れた.路線バスに乗るのに一葉が飛んだのは後にも先にもこのときだけである.
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「特急301系統 新宮行です.」冷静に考えるとオバケである.名古屋駅に白川郷行き,大阪駅に後楽園行きと書いた路線バスが停車しているようなものである.ほかのバスが御所とか飛鳥とか近場の地名を出しているのに,こいつだけは新宮.所要時間も6時間半.文句なしで「日本一長距離・長時間走る路線バス」である.
9時15分,定刻通りにバスは八木を発車した.国道24号線をしばらく進み,四条で右折ししばらくは西に進む.いわゆるロードサイドであり,大和盆地の幹線道路という感じがする.道幅が狭いながらも大型の商業施設が立ち並んでおり,日中にはしばしば混雑している,そんな奈良の日常である.途中にイオンモール橿原が横目に見えた.西日本最大級のイオンモールであり,店舗面積よりも圧倒的に巨大な駐車場がよく目立っている.
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高田市駅の周辺で若干の乗下車があった.新宮行のキング・オブ・路線バスといえども,バスマニアが乗りとおすのだけでなく,生活利用もあるのである.アーケードの商店街が駅前にあったりするなど,いかにも西日本的な駅前である.
このあたりから若干田畑が増えはじめ,御所を過ぎるころには一面がそうなっていた.ベッドタウン的な住宅地もなくなり,金剛の裾野に抱かれた古くからの集落ばかりになる.南に行けば行くほどそうなり,ついには山と山とに挟まれた狭い平地を駆けていくようになった.途中の丘の上には温泉施設や工業団地もある.
五條BC~上野地
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バスは五條の街中に入った.再びのロードサイドである.本日2つ目のイオンを左手に見ると,最初の休憩地・五條BCに入った.イオンの中に少し入り雑貨を見て,再度着席した.10分後に発車すると,次の停留所・五条駅から外国人観光客が乗車した.本宮大社まで乗車するとのことでしばし運転手と話をする.話している言葉的には台湾の方であろう.どこで彼らはこのバスの存在を知ったのだろうか.
いよいよバスは本陣交差点を左折し国道168号線に入った.このバスの醍醐味ともいえる区間である.トップバッターは五條新町で,かつて城下町と町場とを結び,その後商家町となった地域である.白と黒との家々が奥に向かって並んでいる.
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吉野川のなした河岸段丘の集落を越え,いよいよ右手から山が迫ってくるようになった.左手も川の向こうに小規模な集落が見えるばかりだ.木々の間から覗かせる集落は,川べりぎりぎりまで家が立ち並びすべて朴訥としていた.このあたりでも若干名の下車があった.賀名生のあたりでは梅が少しばかり咲いており,両脇の家々を彩っていた.
ときおり並行する橋は未成線跡のものだ.五新線(五条~新宮)として八木新宮線のルートに並行するかのように鉄路が引かれるはずであった.鉄建公団の手により途中の城戸までは完成しており,路線バス専用道として活用されていた.ただ,国道が整備されたことによりこの路線の計画は暗礁に乗り上げたのである.
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橙色のラーメン橋を過ぎると,いよいよ天辻越えに差し掛かる.山肌が白く染まってきた.あまりの険しさゆえ,ここの南北の交流は長く閉ざされてきた.南北朝時代にはここを越えて逃げた罪人は朝廷に追われることはなかったほどだ.十津川に東京式アクセントの言語島ができたのもそれが理由だ.川を遡るにつれ雪が深くなっていく.暖房が効いているはずのバスの車内温度が寒くなってきた.
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バスは天辻を越え大塔に入った.とはいえまだまだ五条市であるし,雪が積もっているのも変わりない.平成の合併の規模感を感じさせる.右手に道の駅を見てから山を少し下り,川べりすれすれにまとまった規模の集落が見えた.九十九折の坂の上には何があるのだろうか.
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熊野川にかかる吊り橋を過ぎると,左手から真新しいトンネルが合流してきた.もう間もなく開通するとのことで,口を開けてその時を待っていそうであった.この辺りは小代下である.茶屋の所で,右手へ野迫川に行く道路が分岐していった.野迫川へは,ここで村営バス(日に2便)にのりかえとなる.右手には遠くまで猿谷ダムの貯水池が水面を鈍色にしていた.そして,川に沿った急崖の上を高規格な道路が通るようになり,遥か先の道路が見渡せるようになった.
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いったんバスは国道をそれて旧大塔村の中心集落・辻堂に入った.もはや1車線道路であるが,これを大型バスで通るのである.車窓には,右も左も山か川のぎりぎりまで民家が並ぶほどで,五條を過ぎて以来の大きな集落である.
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進路の右手にはがけ崩れの爪痕の残る山々がはだかった.2011年に紀伊半島を襲った水害によるものであり,奈良・和歌山両県あわせ71名の犠牲が出たほどの規模である.
いよいよここから十津川村に入るが,とうとう国道だというのに道幅が1.5車線,そして1車線へと狭まっていった.左手にはずっと峻険な山の崖,右手には川なのは相変わらずである.ときおり吉野杉の人工林も見られた.長殿のあたりでは先の水害によってできた土砂ダムがあり,以降の増水の際には10年以上にわたって村民を悩ませてきたほどの規模だ.
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上野地のバス停では開放休憩となった.運転手氏いわく,「発車時間までに戻らなければ,ここが気に入ったものとして発車いたします」とのことで,車内一同微笑であった.バスを降りて右手に向かうのは,日本一の長さを誇る谷瀬の吊り橋.この地の住民が協力し費用を出し合い,自前で高さ50m,長さ300mもの木造の吊り橋を架けた.橋の上からはかなり下の方に熊野川の流れや砂礫の溜まる河原,はるか奥には急崖に築かれた谷瀬の集落が目に入った.足元では風が吹き,左右に木の板が揺れていた.
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上野地~十津川温泉BC
20分を経てバスは再び川を下るように走り出した.集落を出ると,風屋ダムを回避するためのトンネルが一挙に増える.そして,トンネルの合間には小さな集落があり,木々の隙間から水面が映るようになる.バス停の間隔も一挙に長くなる.大塔~十津川の境目のあたりとのギャップが甚だしい.ときおり見えるのは熊野川にかかる水道管や橋である.
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川の屈曲をトンネルで回避し,いよいよ十津川の中心部に入る.村役場や道の駅が目に飛び込むと,村の方が何名か下車していった.「湯泉地温泉」といういかにもな名前の温泉地でもある.小原の集落も,やはり川沿いの緩傾斜地に設けられたものである.
十津川の歴史は,その地理的隔絶性によるところが大きかった.壬申の乱では天武天皇に加担し免租の地となり,以降その立地のために明治維新までその特権が維持された.南北朝時代には南朝の味方となり,江戸時代には天領として「郷士」の称号を得て宮廷を護衛するなど,各地で勇敢に活躍をつづけた.京都御所では,今の十津川高校の前身・文武館が設立された.明治期には水害によって,生活が再建できずに北海道・新十津川に移住を強いられた村民が出た.現代社会で「秘境」とされた村の栄光は大きいのである.
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バスは十津川温泉について10分の休憩となった.奈良交通が整備した足湯に多くの乗客が押し掛けた.タオルを忘れたという理由で,盟神探湯のように手だけで済ませようとする者もいた.遠くからでも硫黄の強烈な腐乱臭が漂っており,化学の実験でやるような嗅ぎ方をしても明らかにわかるほどであった.
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十津川温泉BC~新宮駅
十津川温泉を過ぎると,再び人家のほぼない区間となる.熊野川が大きく口を開いて碧い水を見せつけている.山の尾根の上には世界遺産・果無集落があり,熊野古道の小辺路はここを通る.ただ,国道はこの先もダムに沿って,どんどんと標高を上げて進んでいく.水面がどんどんと下に移っていき,やがて木々に覆われてしまった.崖を切り拓いて家を建てた七色の集落のあたりでは,道が山峡をつんざくような高架橋へと姿を変えていた.このあたりには和歌山県田辺市の看板が立っており,3時間ほどにわたる十津川縦断はこれにて幕引きとなった.
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和歌山県に入っても,しばらくはなにも景色に変化はないが,土河屋の集落を過ぎたあたりより再び集落が連続して並ぶようになった.ゲストハウスや菓子店,散髪屋も見られるようになった.
本宮町の中心部に入った.古来より長くに渡って旅人から貴人まで,さまざまな人の信仰を集めた熊野本宮大社もここだ.本宮や大斎原の大鳥居が車窓に映った.料理店やスーパーなども目に入った.久しぶりの街らしい街だ.
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本宮を出て,バスは温泉街に立ち寄る.河原を掘って作る川湯温泉,七色に変わる湯の峰温泉,世界遺産のつぼ湯と,車窓から眺めるだけで湯めぐりしたくなってきた.西洋からのバッグパッカーもここから乗ってきた.
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本宮町を過ぎると,左手には熊野川が滔々と,そして悠々と流れる光景が20kmにわたって続く.このバスは,本宮~新宮の区間では,旧熊野川町の中心部以外ほとんど停まらない特急バスである.十津川~本宮・新宮の需要に集中するため,この辺りのローカル需要は熊野御坊南海バスに任せているのである.ラストスパートになって,突然本気を見せ始めたかのようにバスは快走を始め,前の案内表示板に「新宮高校前」の文字を見せた.
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越路トンネルで山並みを抜け,ついに新宮の市街が見えた.長崎本線に乗って諫早方面から長崎へと抜けきった時のような感じだ.久々に見る都市の賑わいに感動すら覚えた.新宮高校の校舎からヤシの木が見えた.思えば遥々南国まで来たものである.
あとは新宮の街を一周するだけである.この旅のフィナーレにふさわしい大きな街である.5時間ぶりに見るチェーン店の並ぶロードサイド.アーケードのある商店街.世界遺産に登録された速玉大社.固い石垣に守られた丘の上の城跡.運転手氏より,「とくに大和八木駅よりご乗車のお客様,長らくのご乗車お疲れさまでした」とアナウンスが入った.
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15時50分,新宮駅に到着した.運賃表は4回に分けてスクロールされた.その最大の数字は5,350であった.紀州の地で,およそ6時間半ぶりに奥のほうから踏切の音を聞いた.オレンジの帯を巻いた汽車が奥から現れた.
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