新・遠野物語
はじめに
花巻駅で東北本線500kmポストを見つけてから汽車に揺られて,東北本線を左に見送った.花巻の市街を抜け,重厚なコンクリートの高架線と交わるとスーツ姿のビジネスマンが乗車してきた.ここから1時間半ほどかけて,猿ヶ石川に育まれた朴訥な農村地帯を抜け,大きな街にやってきた.
駅を出ると,石垣に囲まれた池の中から河童が出迎えてくれた.ポストにも河童が乗っていた.ここは遠野である.
遠野は民俗学の聖地である.偉大な民俗学者・柳田国男が3度にわたってこの街出身の作家・佐々木喜善(民俗学用語でいう常民.この単語も柳田が考え出したものである)のもとを訪問し,この地に伝わる民話を書きとっていった.これこそが今日の「遠野物語」である.柳田はこの業績が有名であるが,椎葉村(宮崎県)の民族調査を行ったり,民俗を見ていく中で感じたことを国語化や社会科の教育に役立てようともしている.農政や信仰,日本人論に関する本も著している.
歴史的にこの街を見ると,岩手県の内陸の街と三陸海岸の街をつなぐ集散地としても栄えていた.江戸時代には,内陸からは米が,沿岸からは塩や魚が輸送されここで消費されていた.また遠野の豊かな山々からは木炭が生産され,江戸時代までは周辺の都市で,明治以降は東京で大いに利用された.「内陸と沿岸部をかたく結ぶ」遠野の街は,東日本大震災の復旧のときにも大いに力を発揮し,釜石・大船渡・陸前高田など三陸各地に支援物資を届ける役目を担った.
旧高善旅館(とおの物語の里)
町場から郊外まで,市内各所に数多く残る「遠野物語」の世界を回った.まずはじめに訪れたのが「旧高善旅館」である.この旅館は明治時代に立てられ,要人が宿泊する高級旅館として知られていた.柳田はここに滞在しながらとおのの民話を収集していったという.現在,内部は柳田に関する解説パネルが置かれるなど博物館化しているものの,それでもなお部屋からはその当時の雰囲気を醸し出している.隣接地には東京・成城から移築した柳田の隠居所があり,柳田の著作がたっぷりと保存されている.
このあと,バスに乗っていったん市街を離れ,佐々木喜善の出身地・土淵へ向かった.バスの車内ではこの土地に住むおじいさんから,人生論について熱く語りかけられた.おじいさん曰く,「若いうちに勉強をせずかまけていたら後悔した」とのことである.
今晩の宿はユースホステルである.談話室に上がると,昭和末期から平成初期にかけて大いに繁盛したときの写真や,宿泊者の雑記を集めたノートがあった.翌朝はここの自転車を借りて土淵や附馬牛を見て回ることにした.
かっぱ淵
寺院の隣にある清流.かつてかっぱがここに大量に生息していたらしい.かっぱに関する伝承はさまざまあるが,人や馬にいたずらを働いたり,おどろかせたりしたという.かっぱの子を産んだ話も伝わっている.
「許可書」を購入すると,この淵できゅうりのついた釣り竿を使い,かっぱを釣ることができる.伝承館では「かっぱを探しています」という旨の掲示があった.
訪問日は朝から小さな子どもを連れた家族が訪ねており,「かっぱが見つかるかも」などと子どもに呼び掛けていた.私もかっぱの姿を想像してみることにした.
山口集落
山口集落も「遠野物語」の世界に描かれた場所である.ここへ至る道中にはさまざまな石碑がみられた.羽黒山,湯殿山,金比羅山,大峰山など,日本各地の信仰対象となっている山岳の名称が彫られており,村々からそこまで参拝に行ったのであろうと推察される.
また,オシラサマに対する信仰もみられる.オシラサマは,人の生活に馬が深くかかわる南部地方ならではの信仰である.この神様に関する伝説として以下のような悲恋の物語がある.
ご神体とされているのは桑の木で,1組2体(馬と娘,など)人形に布をかぶせて祀っている.家庭で祀るときには,特定の日に箱から出して家の中で連れまわしたり,新しい布を着せたりする「オシラ遊び」を行う風習がみられる.
また,この集落にはデンデラ野が残っている.デンデラ場というのは,かつて60歳以上の高齢者を集落から追い出して住まわせていた場所である.いわゆる「姥捨て山」が近いが,集落と往還できた点がほかの地域と異なる点である.彼らはここに住みながら,耕作のときにだけは麓に降りていたという.もしかしたら人口過剰や家屋の不足を防止するために生まれた風習なのかもしれない.
さらに,この集落には茅葺き屋根のある水車も残っている.かつては農作物の脱穀など,エネルギーを利用する農作業を行うのに利用されていたものである.一度は機械化が進んで利用されなくなって放置されていたが,2015年より地元の方の手によって修理が行われ,復活している.
以下にコロコロと音を立てて回る水車の様子を掲載している.
おわりに
遠野の山郷の風土というのは,彼らが紡いできた伝統や民俗,信仰の結晶である.スローペースで訪ねていくことで,そういった文化をしみじみと味わいたいものである.
汽車に乗ると,遠野の街が後方に消えていった.日も傾いている.それからしばらく走り,進行左手には朱色に染まった小高い山々を見渡すようになった.これこそが原風景であろう.
やがて空は茜色になり,さらに紺色へと変転していった.滝観洞の看板が見えなくなったあと,オメガカーブを描いて仙人峠を越えついに釜石市に入った.小佐野で若干の降車を見せながら釜石の市街に入った.地元住民のほか,ビジネスマンの乗車も見られた.彼らはみな東京からの切符を手のひらに握りしめ,駅員に渡していた.
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