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私たちは何も知らない@東京芸術劇場シアターイースト

日本のフェミニズムの歴史を探っていくと、必ず行き当たる人物。

それが「平塚らいてう」。

日本文学史、日本史の教科書で見かける超有名人だから知らない人は少ないだろう。本名「平塚明」。明るいと書いて「はる」と読む。明治19年、東京の麹町で生まれた彼女がここまで知られているのは、「青鞜社」という女性による女性の覚醒を目指すための文学団体の発起人であったからだ。

この「青鞜」編集部を舞台にした作品が、去年の末に東京芸術劇場シアターイーストで上演されていた。二兎社の永井愛が作演出を務める。

とてもタイムリーな話だが、ジャーナリストの伊藤詩織さんが勝訴判決を勝ち取ったその日に、詩織さんが対談をしたと話題だったこの公演をたまたま見ることができた。やっと女性の権利に関する嬉しいニュースが舞い込んできたことに少しだけ胸を躍らせながら、観劇へと足を運んだ。

観客はフェミニズムに興味を持つ若い子たちが多いかと思いきや、年齢層が高め。(平日の昼間だからか?)当日券で一番前の席をゲットした。

以下ネタバレ必須。ご観劇まだの方は観劇後に是非このノートに戻ってきてくださいな。

全体的に観劇して印象的だった点は、大きくまとめるとこんな感じ。

⓵現代的な服装と音楽
⓶戦前の状況と非常に酷似した現在を重ね合わせる描写

現代的な服装と音楽

今から100年前のお話を忠実に再現しているのにも関わらず、めちゃくちゃ現代なのです。全てが。その中でキーポイントになっていたのが現代風の服装。

例えば、平塚らいてうと一時期は恋人関係にあったとされる尾竹紅吉(元の名前は一枝)。1幕の最初はらいてうと紅吉の出会いの場面なのだけれど、これがまたすごく良い。さりげなーく名前を男性風の名前に意識的に変えていることを入れ込んできたり、さりげなーくファッションがキャップ、スタジャンにジーパンというボーイッシュなスタイルだったり。他のメンバーは女性的なワンピースやスカートを着用していることが多かったのに。

特に「トランスジェンダー」とか、「レズビアン」とか、最近特に多く言われるようになったカテゴリー分けを明確にせず、時代が進んでいくとともに彼女の中のジェンダー・セクシュアリティも揺れ動いているのだと行動だけでなくファッションでも垣間見えたのが嬉しかった。性別や常識にとらわれることなく自由に生きていきたいと思う紅吉を、服装が象徴しているように感じられた。

また面白いのが伊藤野枝。らいてうの後に青鞜社の後継者となる重要人物だ。福岡から上京してきたからか、はたまた周囲の目など気にしない自分らしさを貫く彼女のスタイルが表れているのか。野枝のファッションはらいてう達と比べると少し時代錯誤的な、それこそ戦前の人が着ていたであろうもんぺや着物などを纏ったスタイルだった。

それだけ聞くと彼女の主張も古めかしいものなのか…???と思いがち。それが真反対で超最先端の発言ばかりするのである。それに私が賛成か反対かは置いておくとして、彼女が青鞜で取り上げた議論は「人工妊娠中絶」「売春」「女性の貞操」などなど…21世紀でもまだまだ議論の余地があるようなテーマばかり。今でもタブー視されがちなこれらの議題を扱う土台を作り出したらいてうはもちろん、野枝の社会に向けた批判的な目線に感服の一言だった。

しかしこれも他キャスト陣の現代的な服装と、野枝の古めかしい服装の間にギャップがあるからこそ生まれる魅力。劇内容をさらに拡張させる役割を舞台セットや照明ではなく、衣装に持たせたのがユニークで面白い。

そして現代的な音楽。劇中所々に挿入されるのが、「元始、女性は太陽であった」から始まる創刊の辞をベースにしたラップ。え…?ここでラップ??と最初は驚きばかりだったが、終演して色々踏まえて考えてみると、腑に落ちた。もちろん青鞜のお話なので、当時使われていたような文学的言語がひたすら会話でも文章でも使われるのだけれど、これがまたすっと理解できるほど簡単ではない。一旦頭の中で噛み砕いて現代の言語にしてから理解するので、普段使い馴染みのある言語よりかなり手間取る。それでも、不思議なことに言葉の音はなんだか心地よいと感じるのだ。それってラップを聞くときも一緒で、ひたすら言葉が超高速で並べられていくので、日本語でもわからない時があったりする。それでも聞いててなんか心地よい。そんな共通点から採用されたのかなと思ったり。

実際の意図はわからないけれど、青鞜に生きる彼女達の服装と音楽は、観客を更に100年前に近づけるような、親近感を持たずにはいられない演出だと思った。

戦前の状況と非常に酷似した現在を重ね合わせる描写

まず本題に入る前に。アートでも文化でもなんでも、やっぱり世の中で重視されがちなのは戦中・戦後の歴史で(日本は特に戦後>戦中)、ホロコーストだってみんなが知っているのはナチスが出来上がってから。戦争が始まってから。

そうなる理由もなんとなくわかる。事件や戦争が起きてからの歴史は、衝撃的だし、記憶に残りやすいから。

それでも見過ごしてきた歴史には、必ず何かしら今を生きるヒントがあると私は思う。人間は、人間だから、何度でも間違いを犯す。だからこそ、自分たちが歩んできた歴史にはそれが刻み込まれているはずなんだ。掘り返さないと見えないかもしれないけれど、それは苦しい道のりかもしれないけれど、それでも「真実を知る」ことを諦めたら、同じことを繰り返すだけだ。

そんなことを、大正から昭和を駆け抜けていく彼女達を見つめていて強く感じた。第一次大戦後の特需景気を経て、資本主義が更に進行して貧富の差は広がり、不景気が慢性化してしまう中でそれぞれの人生を歩み始める青鞜編集部メンバー。青鞜社解散後、ある人は出産や育児などを国が保護するべきだとする母性保護の思想に傾倒し、「お国のために」活動する人材となったり。ある人は、社会主義の婦人団体に参加したり。または婦人参政権を獲得するために活躍したり。

様々な視点を持ちつつも、共存できていると思っていた。同じ方向を目指して進んでいると思っていた。それでも国体主義に取り込まれ、政治体制に巻き込まれ分断してしまう女性たちの姿。どうして、どうして。この後にはもっとひどいことが起きるんだよ…。そう思っている時には大抵もう遅いのだ。取り返しのつかないことが起きているのだ。

そんな風にらいてうは警告してくれたような気がした。

これを観劇している今だって、お隣の香港では未だにデモが続き、チリでも同じような状況下の中警察からの暴力が相次いでいる。フランスではストライキ、イギリスもEU離脱。アメリカではトランプ政権の影響で移民がどんどん追い出され、国境では醜い争いが。ブラジルは民主政崩壊、中東は未だに不安定な情勢が続いている中、アメリカがパンドラの箱を遂に開けてしまった。

この国、日本でも沸々と戦争へ傾いている動きが生まれてきている。ネット右翼や検閲の広がり、自国武力の拡大と排外主義・超国家主義の強い結びつき。言い出したらきりがない。「自分は国から選ばれた民でなければならない」「捨てられてはならない」という恐怖から、自分の価値判断に合わない人間は消していく。そうやっていつの間にか国や公が思い通りに動かせるような操り人形になってしまうのかもしれない。

でもそんなことには誰も気づかない。または気づかない「ふりをしている」。気づかない方が楽に生きることができるし、自分には関係ない。そんな意見が大半だ。

大前提として、『私たちは何も知らない』のだ。それを意識として持っておくだけでも違う。「知らないことを知る」。だからこそ「何故なのか」「知りたい」という欲をもっと大切にできる。

この劇の最後は、らいてうの頭の中で、現実の記憶と、未来の記憶が混乱している場面で終わる。海沿いでゆっくりとした時間を過ごしているらいてうの元に、突然元青鞜社メンバーが集まってきて、彼らの身に起こった出来事を語り始める。関東大震災や戦争がもたらした死、別れ、出会い…。

どうして、いつの間に、戦争は始まってしまったの?空軍のプロペラ機の轟音が響く中、らいてうは不安げな顔を客席に向ける。

そんな疑問を持つ前に、全てが始まってしまう前に、私たちにはまだ止められることがある。まだやれることがある。がむしゃらに取り組むよりも、先人が歩んできてくれた歴史を見て、現実を冷静に分析すること。そうすることで何かしらの糸口は見えてくるはずだと、らいてうは現代の私たちに訴えていたのかもしれない。

終わりに

先人たちと私たちのつながりをわかりやすく目に見える形で示してくれたこの演劇。周りに何を言われようが「空気を読まずに」マジで議論を繰り広げる女の姿を見て、それがなんだか羨ましくてたまらなかった。正面からぶつかるなんていうリスキーな行為は、大人になればなるほど、社会を知れば知るほど難しくなるもの。だから本当に羨ましかった。

空気を読まない議論の場、雑多で面白い、色々な方向性を向いた人たちが自然と集まってくるような場所、いい意味でぶつかり合う場所、そんな空間づくりがこれから重要になってくるのかもしれない。

以上、長々とレポにお付き合いいただきありがとうございました!

Haru.




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