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『赤すぎて、黒』@萬劇場

演劇やアートが大好きな私にとって、コロナ打撃はかなりのダメージをもたらしていた。

休日に行ける場所もない、新たなアートを学ぶ場所もない、自分に活力をくれる芸術がこんなにも触れにくいものになってしまうなんて、思いもしなかった。

いつも、どんな田舎でもどんな都市でも文化芸術はちゃんと生きていて、息をするようにアートを摂取していた私にとっては、監獄に入ったようなものだった。

そんな中、萬劇場で先日無事終演した『赤すぎて、黒』を観劇することが出来た。まさに監禁、監獄がある意味裏テーマとして存在しているこの作品を、この時期に見れた事、すごくタイムリーに私の心に響いたので書き残しておきたい。

劇団時間制作さんの作品を見るのはこれで2回目なのだが、かなーりいつもやばい。政治的で社会的で暴力的、でもめちゃくちゃ演劇の本質が詰まっていると感じる作品ばかり。

というのも、身体的にも精神的にもボコボコに殴られる感じがあるから。観客側に寄り添って忖度するなんてことは全くなくて、ただ真っ向からの正論をいろんな角度から放り投げられる。観客は身動きが取れないからそれをひたすら受け続けるしかない。

これだけ見ると、えなにそれ怖すぎて行けない!!となったら困るのだが笑、これは演劇にしか出来ないことだと思っているので、あえて言いたい。生で、目の前で、同じ空間を共有する演劇だからこそできる体験。もちろん映像でも記録でも、何度でも見たくなる作品だが、やっぱり生の体験には勝てない。そう思わせてくれる素晴らしい演劇だと私は思う。

私が今回、一番苦しめられたのは「他人事」と「自分事」の境界線について。監禁殺害事件の当事者である「非凡で不幸な」家族と、いわゆる普通の「平凡で幸せな」家族が、親の再婚を機に混ざり合わなきゃいけなくなったとき、その歪みは表れてくる。

「かわいそう、共感する、つらかったよね。」

そんなふうに、テレビの向こうの世界を見る感覚で、全くの他人事を自分事にしようとする平凡家族。その一方で、自分事を他人事にしたくてたまらないのに、家族という「監獄」からなかなか逃げられない不幸な家族。

当事者と非当事者の境界線、というタイトルで文章を書いたこともあるので、かなり違う角度からもう一度その問題を考えさせられた。

誰しも当事者になる可能性はあって、境界線を過敏に引く必要はないんじゃないか?そこに未来の可能性は生まれてくるのではないか、と思っていた。いや、今でもそう信じたい気持ちがあるのだけれど、この作品がある意味絶望を示してきた。それは、家族という枠組みが持つ良くも悪くも最強な引力。だからこそ、劇中で「家族は監獄だ」と言われる。

他人事を自分事にするためには、その監獄に自ら入らなければいけないし、入ってしまったら最後、抜け出すのは不可能に近い。

不幸な家族の末っ子、愛子ちゃんはそこから抜けたくて普通の女子高生になりたくてたまらない女の子。普通の家族の末っ子、ゆずちゃんに異常なまでの憧れを抱いている。

普通って何か、いつも全然わからないから、ゆずちゃんの真似をして星空を見てみたり、恋人を作ってみたり、愛の色を想像してみたり。

でも、どんなに頑張っても、ゆずちゃんと同じように感じることはできないのだ。親に監禁された愛子にとって、愛の色はいつも真っ黒。星の光なんて邪魔なだけで、ハグをしても愛を感じない。

ここで、きづく。人が生きていく中で固められてきた価値観は、そんなに簡単に変えられるものじゃない。違う価値観を、強制してみんな同じ価値観に、みんな「普通」にするなんて無理なんだ、と。

それは私自身もそうだったし、頑張っても普通になれない自分が嫌で嫌でたまらなくなる経験は幾度となくしてきた。

でも一番ど突かれたのは、そのあと。

最終的に、愛子ちゃんゆずちゃんを含め、違う価値観が共存した2つの家族が交わることはなくなってしまう。それぞれ別の家で暮らし、別個の監獄となる。

やはりお互いの異常なまでの価値観の違いを認めた上での共存は、難しいのだと突きつけるラスト。抜かりがないほど、正論と現実を突きつけてくる、、、苦しい。

その中で唯一の希望だったのは、愛子ちゃんに想いを寄せる、元気バカ安藤君。

ゆずちゃんや愛への異常な執着をみせる愛子を見ても、過去を全部知っても、それでもいつものように会いにくる彼は、唯一の他人だからこそ作り出せる抜け穴を示しているような気がした。希望、なんて簡単には言えないけれど、私にとっては救いだったよ。安藤。ありがとう。

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実際の社会では、SNSが発達することで、「共感」するのがめちゃくちゃ簡単になった。そうだよね、かわいそうだよね、そこで終わり。

それを受けて自分に芽生えた感情を言葉にしたり、伝えたり、クリエーションにしてみたり、そんなことがどんどん少なくなっている気がする。

まぁ、そうだよね。エネルギー使うし、疲れるだけ。楽に生きるには、自分の思考なんか消し去って、共感だけして生きていった方が楽だ。

でもそれって、楽だけど、違うものに触れなさすぎて免疫が失われる。自分と少しでも違うものは排除しないと、自分の居場所があぶない。死んでしまう、そんな危機感がネットに溢れるヘイトに表象されている。

家族というコミュニティが基本的な居場所であるように、そうやって居場所だと思っている空間は、もしかしたら監獄なのかもしれないと、観劇後は感じるようになった。ずっと居すぎて、感覚が麻痺して、自分が閉じ込められていることさえ気づかない。むしろそこから追い出されないように必死でセンサーを張りまくる。そんな人たちが、増えてきているのかもしれない。

自分も、ある監獄の中にいる。女性、ヘテロ家族、エリート思考、日本社会、同調圧力しか生み出さない監獄。

安藤みたいな、一緒に監獄脱出を手伝ってくれるような、そんな仲間がほしくなった。同時に、私もそんな他人になりたいな、と思った。

まだまだまとまらないけれど、こんな大量の複雑なレイヤーを組み合わせて、観客に躊躇なくぶつけてくれて、劇団時間制作さん、ありがとう。谷さんの作品、大好物です。また見に行こうと思います。皆様も、お時間ある時は是非。




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