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当事者と非当事者の境界線

この前、たまたま熊谷晋一郎さんの公演を聞く機会があった。

「当事者研究」の第一人者である熊谷さんのお話は、一言一句重みがあって、噛み締める暇もないほどノートにひたすら殴り書きして、忘れたくない、心にとめたい、そんな公演だった。

今まで何度も「当事者研究」というワードを聞いたことはあった。どんなものかも何となく知ってはいた。それでもなかなか近づく気にはなれなかったのは、何故なんだろう。

多分、「当事者」しか入れないような、排外的な空気を勝手にその言語から想像していたのかもしれない。でも実際はそんなことなかった。

「当事者しか当事者のことがわからない」ではなく「当事者でさえも当事者のことがわからない」。むしろ誰もわからないから研究している。だからこそ全ての人のために当事者研究は必要なんです。

そう言われて自分が大きな勘違いをしていたことを深く反省した。

でも、こういう思考回路に陥る人って多いんじゃないのかな?と思ったり。

これは障害がある当事者、非当事者の問題だけではない。

例えばセクシャルマイノリティだと自認する当事者、非当事者。

日本以外にもルーツを持つ当事者、非当事者。

震災の被害を受けた当事者、非当事者。

どれも形は違えども、この「当事者/非当事者」という枠がある意味縛り付けているおかげで、守られているところもあれば永遠に切り崩せない壁を作り続けてもいるような気がする。

でも実際は、当事者と非当事者の境界はもっと曖昧なものだと私は思っている。

直線ではなく曲線のような、あるときは鮮明に表れて、あるときはすーっと空間に消えていくような。もちろん、当事者にしかわからないことはたくさんある。目も耳も自由に使える私にとって、目が見えないとき、耳が聞こえないときに感じるであろうことは想像の範囲を出ない。東アジア人・日本人として20年以上育ってきた私が、アメリカで住み始めて経験したモヤモヤや複雑な感情を、純アメリカ人に完全に「わかるよ」と言われても説得力はないと思ってしまう。逆も然りだ。

それでも、「想像力」で埋められるギャップはあるんじゃないの?と日頃思う事が多い。というかこれは当事者非当事者の問題だけではなく、全ての人間の間で言える話だと思っている。

熊谷さんの発言のなかで、こんなものがあった。

「近しい人だと何でも知っている感覚に陥る。家族、パートナー、友達を含め誰しもが陥るもの。だからこそわからなさをわかる必要がある。」

これを聞いたときに、はっとした。自分自身、親友や恋人に自分全てをわかってもらいたいとは思えない人間だったから。大切な人でも、大切な人だから言えないこともあるし、言いたくないことだってある。でも人間は、ある一定以上距離が近づくと、何故かその人全部を理解した気持ちになってしまうんだと思う。そして自分の「常識」を押し付けてしまうんだ。

「彼氏は?」「結婚は?」「出産は?」

「何でこんなこともできないの」「常識じゃん」

「もっと頑張ればできるよ」

誰がこれを常識だと決めたのか?どうして常識から外れたら、それは「厄介者」のレッテルを貼られなきゃならないのか?何故全部「努力で解決できる」みたいな風潮なのか?選択肢として、その「常識」を選べないということもあるかもしれないのに。

そんな疑問を持たずに生活することは簡単なのかもしれない。「常識」にちゃんと従って、みんなと同じことをやっていけばとりあえず暮らしていける人がマジョリティなのかもしれない。

「常識」は社会、というか「支配する側」が作り上げたものだ。社会の動きをより効率的に、生産的にするためのもの。そこに個人の違いは配慮されない。みんな同じ動きをしてくれた方が統治しやすいし、支配しやすいから。

私には関係ない、と思うことは簡単だ。私は当事者じゃないからわからない、というのも。でも、私はその線引きから始めるんじゃなくて、「If=もし」から始めてほしいなと思う。

「もし、私がこの立場だったら」

「もし、この選択肢がないとしたら」

「もし、「常識」が「常識」ではなかったら」

そんな簡単な問いかけから、議論して話し合って、考える。

そうすれば、見えないことも見えてくるかもしれない。多様性国際性どうこうの前に、こういう基本的なところから始めて行かないと、基盤が壊れてさらなる排外主義が進んでしまいそうな気がするから。

私はこんなどうしようもない社会でも、未来に希望を見たい。日本は本当に生きづらくて、なんども国籍を変えたいと思った。日本から出たいと思った。それでも戻ってきてしまうのは、やっぱりこの国が好きだからだ。大切な人たちが住むこの国が。美味しいご飯があって、季節ごとに変わりゆく景色や自然信仰があって、昔ながらの伝統や技術、芸術や文化がコンテポラリーなものと刺激し合いながら共存しているこの国が。大嫌いだけど、大好きなのだ。もちろん、日本に諦めをつけて違う国に移住する人もたくさん見てきた。し、これからどんどん増えてしまうのかもしれないとも思う。私もいつまで耐えられるかは、わからない。でも、それでも、少しずつ変わっていると信じて、希望を見たい。

よろしければサポートしていただければ嬉しいです。これからも社会で可視化されないような、いろんな意見を届けられるように頑張ります。そして本当に「多様性」が実現する社会を目指して。