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「みんな」という主語の怖さ

ここ最近、家にずっといるからか、異質空間に飛び込める作品ばかり好んで選んでいて、ファンタジーやSFや、現実離れしたものばかり見ていることに気づいた。元々嫌いな訳ではないけれど、コロナ前は美術館や劇場にいくことで満たしていた感情が、どこにも行けないことに加え、バーチャル空間のSNSには怒りと憂鬱感しか湧かないような社会がまざまざと映し出されていて、自分は思った以上に疲弊しているのだと気づいた。私がニューヨークで一番大好きだった美術館、クイーンズ美術館のディレクターがこんなことを言っているのをみて、あ、そうだ、自分に今必要なものはこれだ、と思った。

This is a time to consider museums as places of careーnot just care of collection, but care of our communities, staff and artistsーand the careful creation of spaces to make and express collective and individual experiences as we recover from living through a prolonged period of isolation and loss. (この時期は、美術館を単なるコレクションのケアを行う場所ではなく、私たちのコミュニティやスタッフ、アーティストへのケアを行う場として、そして私たちが長期にわたる孤独や喪失感の中で生きていく中で、集団的・個人的な経験を表現するための、徹底した創造の空間として認識するべきです。)

時間がある今だからこそ、何かしなきゃ、周りの困っている人を助けなきゃ、もっと声をあげて頑張らなきゃ、そんな風に外へ出れなくなった最初は思っていたし、何もしない時間が無いように頑張っていたけれど、これだけ長引くと、そして未来がこれだけ不安定になると、そうするのもしんどくなってきた。バーチャルの中でいくら作品を見ても、心にぽっかり空いた穴はそのままで、ずっと疑問に思っていたけれど、やっとわかった。辛い時も、苦しい時も、嬉しい時だって、アート空間に赴いてその空間にいることが私にとっての元気の源だった。どんな薬よりも効く、特効薬だった。

それを許さない人もいるだろう、私なんて命をかけて戦っている医療従事者でもなんでもないし、仕事もとりあえずは安全な環境でできているから、かなり恵まれているのだと思う。家族だってまあまあ仲はいいし、ずっと一緒にいるのはそんなに苦ではない。でも、コロナ前は仕事に趣味に、勉強に、家にいる時間なんてほぼなかった私にとって、今は「非日常」以外の何ものでもない。そんな環境にずっと入れられると、心身のどこかが疲弊してくるのは当然のことじゃないのだろうか。

政治や社会にかなり緊張感が生まれ、声をあげるムーブメントがたくさん起きているのは本当に嬉しいし、実際にそれで社会が動いているのを見て、多くの人が「声をあげれば変わる」実感が持てたのは、この時代の思いがけない財産かも知れない。でもなんだか「みんなで頑張ろう」感も出てきているのはちょっと怖い。頑張れない人ももちろんいるし、休んだって良い。こんな状況で生きていることだけでも凄い筈なのに、進むペースは人それぞれな筈なのに、何を一緒に頑張るんだ?

「誰も悪くないし、誰も批判せずに一緒に頑張ろう」そんな言葉と共に、日本国旗が書かれたインスタストーリーが回ってきた。なんだこれは、新手の右翼のアプローチか???そんな風に思ったのはここだけの話である。ただでさえ怖いのに、これが普通に友達から回ってくるっていうことは、そう思っている人はこの日本の世の中にたっくさんいて、それが気味悪いとか、気分が阻害されることもなくシェアしたい!と思っている事実がもっと怖い。

こうやって全員が同じ方向に足を揃えて進もうとするから、醜い争いが起きるんじゃないの。戦争が始まった時もそうだった。政治批判する人も、声をあげている人も、家でじっとしている人も、毎日働くのに必死な人も、みんな自分なりに生きていて、みんな全員が足並みを揃えるなんて無理なことなのに。「批判することなんて無駄だから、みんな足並み揃えて一緒に頑張ろう」という考えに至る人はまだまだいそうなので、ここで大きな声でもう一度言っておく。

無駄なことなんて一つもない、むしろ今まで足並み揃えて来ちゃったからこんなボロボロな国になってんだ。周りの様子を見すぎて、誰も何も言わなかったからこんな結末を迎えてんだ。いい加減、実感してくれ!!!!

もちろん批判にもいろんな種類があって良いと思うし、国民全員同じ意見を持つなんてことは不可能に近いので、それはそれで良いと思う。でもせっかく上がった声をミュートするのは、絶対にあってはならない。あと、声をあげない人を魔女狩りするのもダメだ。主語がどんどん大きくなっていて、「みんな」という言葉が緊急時にはよく使われがちだけれど、そこには何千万人ものそれぞれの人生があることをすぐ忘れてしまう。主語が大きくなると、自分とは違う人間を考える想像力はどんどん失われてしまう。ヴァーチャル世界のような受動的な関係性だけだと、想像する機会も減っているから、意識的に他人の人生を想像していかなければ、と思い始めているところ。

色々と私の意見は矛盾しているかもしれないのだけれど、とにかく、声をあげている人、あげたい人、あげない人、みんなそれぞれのやり方で今の社会を乗り越えようと必死に生きている。自分がどの方向性で生きていくかは、自分で決めればいい。決定権もない人もいるかもしれない。だから、その人たちのために、声をあげることのできる人が声をあげる。もちろん、人の温もりが恋しくて恋しくて仕方のない日々が続く。人のつながりの大切さに気づかされることも多い。それでも、個々が個々人で生きていくことがもっとリアルになった。みんなまとめて同じ生き方をしていたら、政府の策も少しは成功したのかもしれないけれど、そんなのありえない。でもそれが普通だ。個々人が多様な生活をしていて、それぞれに寄り添った政治を行うのが本来の国家だ。だから、個々人が、それぞれのやり方で戦っていくのが正解だと私は思う。

よろしければサポートしていただければ嬉しいです。これからも社会で可視化されないような、いろんな意見を届けられるように頑張ります。そして本当に「多様性」が実現する社会を目指して。