生きていくということ

「しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。

芥川龍之介『後世』

 芥川龍之介は作品を通し、人は単一の不安のみで自殺する非ざるに、種々の不安、悩みの絡まり、その統合によって自死に至るとの旨を辞世として残した。
極限状況とは、様々な現実上の苦しみが堆積し、加えて、堪え忍んできた是迄の日月が苦悩を惹起させては追討ちをかけている様な状況である。
 人は言う。「そんなものはふざけたことだ。誰もが苦しみのなか、それでもなんとか生きている。」と。「贅沢な悩みだ。そんなのは甘えだ。アフリカの子ども達をみろ。ストリートチルドレンをみろ。経済的に困窮している母子父子家庭をみろ。被災者をみろ」と。
 それらは正論なのであろう。だが、"私"という人間をこれっぽっちもわかりはしない、強者の、別言するなら上からの論理である。事実、その者が客観的に甘えん坊の小僧であるかどうかという事はこの場合まるで意味がない。問題はあくまでその者自身の内部にだけある。正論とは個々にあるべき具体状況を捨象した上に措定される蜃気楼の言説に過ぎない。
 例えば震災によって悲しみと慟哭のなか、「生きていてもしかたがない」と啼声をあげる老婆がいたとする。私はこの老婆の悲しみを真に理解することは不可能だ。何故なら当事者じゃないんだから。同様に、その老婆もまた私達の苦しみを真に理解することは出来ない。
 苦しみとは主観的なものである。本来そこに多寡など存在はしない。だからそもそも甘えだとかなんとか、簡単に言っちゃうような連中もいるけれど、本質的にはそう安易に言えるわけがない。
 精神医学の分野では鬱病罹患者はストレスへの耐性が低いといわれる。これは通常判断に於いて少しの不快な事象でも過敏に反応してしまうことを意味している。この場合、「客観的」には甘えと叱責さえされる程度のことかもしれない。世間の基準というやつに照合させれば。しかし、それもまたその個人の苦悶を真に理解していない。鬱病者にとって、その者の内的状況にとって、その少しの不快事象は決して微少な出来事で済まされるものではないからである。
 誰もが破滅を怖れる。死へと向かう苦悶に恐怖する。死それ自体の恐れと、死をもたらす現象への恐れに懊悩する。故にこそ、「死にたくないけど、生きていたくない」と逆説的な思念が生起される。これは悲劇の陶酔などであるはずがない。出来るならば、可能ならば生きたい。前向きに。快活に。閉ざされた精神のその囲繞から脱却し、世界との調和を取り戻したい、それが本心であるはずだ。
 しかしながら、欺瞞に満ちた酷薄なる現実は仮借ない。精神的、社会的逼迫状況が厳然と屹立している。それは神経を磨り潰していく。やがて観念と現実の諸問題に煩悶し、キャパシティーオーバーとなってバグが発生するであろう。
 それでも、それであっても、どうにかして社会に自分の位置を定立させなければならない。これは正に自覚であり実感というどんよりした圧倒的存在感を漂わせながら接近してくる。その存在感は危機感でもあり、リアルな危機意識が私をして「このままの状態だとのっぴきならない事態が招来するぞ」との焦燥-それはあまりに余裕なき焦り-を与える。
 一個の個人的自意識なんて、その状況なんて社会は相手にしない。してくれない。従って、社会という集合体に参与していく為には埋没したままでいるわけにはいかない。それがどんなに埋没してしまうに値するものだとしても進んでいかなければならない。
ヘッセは言う。鳥は卵から抜け出ようと戦う。卵は世界である。生まれようと欲するならば、その者は一つの世界を破壊しなければならないと。一羽の雛は矮小で小さな命。個人的生命。社会という親鳥はコツコツと雛を叩く。「ほら、もうでなさい。外界にでないとキミは、キミは……」
 雛が殻を破らんと鳴く声と母鳥が殻をつつき割る音が適切な機縁として符合するその好機を「啐啄同時」と言う。親鳥たる社会の鋭い嘴に悲鳴をあげている雛はまだ殻を破らんとする程には成熟していない。つまり啐啄同時に非ず。然るに、雛は親鳥の声なき声に従わねばならない。それはハムレットのあの苦患。「to be or not to be that is the question 」。
 
 自らをもって自らの境遇に甘んじようとするとき、たとえその現実が耐え難く凄絶で艱難辛苦に満ち、故にこそ甘んじなければならないと決定されたとしても、その決定の瞬間に私は自分を殺すことになる。自分殺しを容認したことになる。これは絶望的な論理。しかし、この論理は絶対に覆すことができない。反駁する余地を与えない。どれ程不本意な状況のなかで屈辱的な日々を送ることになろうとも、死にたくなければその不本意さのなかであがき続けなければならない。
 
 世界に希望を託していたい。世界と繋がっていたい。それは言葉にすれば甘美だ。けれども、その内実は、実感されるリアリティはとてつもない苦闘であったりする。
 「ただ、生きていくこと」。それがどれだけ大変で、どれだけ忍従する日々の連続であるか、そういう人間がこの世界には沢山いる。
 ドストエフスキー『貧しき人びと』にこんな言葉がある。

 「ワーレンカ、きみはなぜそんなに不幸なのでしょうね?わたしの天使さん!きみはいったいどこがあの連中に比べて劣っているというのでしょう?きみは気だてが優しく、美しくて、学問もあります。それなのに、どうしてきみはそんな不運を背負わなければならないんでしょう?立派な人が荒野におきざりになっているのに、別の人には向うから幸福が飛びこんでくるというのは、いったいどういうわけでしょう?こんなことを考えてはいけない、これは自由思想だってことは、わかっていますよ。でも正直な話、本当のことをいえば、ある人は母の胎内にいるときから運命の烏に幸運を告げられるのに、ある人は養護施設の中から人生の荒波に飛びこまなければならないのは、いったいどういうことでしょうね?」

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