『カラマーゾフの兄弟』1
『カラマーゾフの兄弟』
ドストエフスキー畢生の大作。古今東西幾多の賢人がこの作品に感銘を受け崇めてきた。かのウィトゲンシュタインはこれを50回読んだという逸話は有名である。
「カラマーゾフ」という言葉はトルコ語及びロシア語の合成語であり、その意味するところは「黒く塗られたもの」。すると、「黒く塗られた兄弟」の物語となるが、ここで「兄弟」は同胞たる人類を暗示している。人間は清濁併せもつ存在であり、それは、ナザレの人間イエスも例外でなく共観福音書からもそれはわかる。そして作中イエス・キリストに擬えられているアレクセイ(アリョーシャ)もまた黒く塗られた者としての一面をみせる。アリョーシャは決して観念的聖者などでは無く、彼もまた「信仰と不信仰の狭間」にゆれるドストエフスキー的人物である。(「ドストエフスキー的人物」とは、意識のなかに際立った二重性が顕現される人物。)アリョーシャは際立った二重性は示さないが、イワンやラキーチンが言うように「カラマーゾフの血を受け継いだ人物」として描かれている。
ここにおいてドストエフスキーリアリズムは観念を超克し生きて躍動する実際的思想を描破する。
この作品は壮大な人間群像劇であり、バフチンのいう「ポリフォニー」の象徴である。そこには様々な人生上の諸問題が鏤められている。
『罪と罰』において萌芽的な形で示され、『白痴』『悪霊』『未成年』へと続くドストエフスキー後期作品群を貫流する「信仰、不信仰の問題」はこの『カラマーゾフの兄弟』に収斂される。民衆(ナロード)とともにあり、ともに生きようとしたドストエフスキーの悲壮な姿がこの作品に現れている。
〇アリョーシャ・カラマーゾフ
文学史上、アリョーシャ・カラマーゾフこそ最も美しい人間だと思っている。
『カラマーゾフの兄弟』はもともと二部構成であった。一部刊行後ドストエフスキーが急逝したため、第二部は世に出ることはなかったのだが、このアリョーシャなる主人公は第二部でこそ主体的存在として躍動することが作者の中で期待されていた。そのため、第一部ではその役割におおきな能動性が与えられず狂言回し的感もあるが、そうあってさえ、アリョーシャの美的形相とでも言おうか、人間の究極的な美性は薄らぐことなく読者の脳裏に焼き付く。
他に愛憎劇に人間精神の崇高さと醜悪さをみる長男ドミートリーや父親フョードル、信仰と不信仰の果てに「父殺し」(「父」はメタレベルで神殺しである)をめぐり苦悩するイワン、スメルジャコフ、ソロヴィヨーフの神秘観に通ずるゾシマらが目立つ。ここではイワン・カラマーゾフのみ軽く紹介したい。
〇イワン・カラマーゾフ
「神の作った世界を認めないんだ!」というイワン。
イワン・カラマーゾフの叫びには切実なる魂の叫びがある。「神はいない。」と宣言し、「ならば全ては許される」と不気味に述べる彼だが、イワンは無神論者ではない。
「プロとコントラ」の章の中で彼は次のようにアリョーシャに語りかけます。
「あのね、十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考え出すべきであるS'il n existait pas Dieu , il faudrait l'inventer.(ヴォルテールの『三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙』の一節)、といったんだ。そして本当に人間は神を考えだした。ここで、神が本当に存在するってことは、不思議でもなければ別段驚くべきことでもないんだ。しかし、人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入り込みえたという点が、実に驚くべきことなんだよ。それほどその考えは神聖なんだし、それほど感動的で、聡明で、人間に名誉をもたらすものなんだな。(後略)」(原卓也訳 新潮文庫)
この言葉はヴォルテールの言葉である。ヴォルテールはドイツ哲学者ライプニッツの予定調和説(現実の世界が神によって取捨選択された後の最良のものとして現れたものだというもの。)を批判し、まったくの偶然から起きる不幸な災害や不幸、不遇な境遇にいる人々がこの世界には溢れているがライプニッツはそれを忘却していると指弾するが、イワンの言う人間の邪悪性もヴォルテールの考えを下敷きにしている。
最後に「アリョーシャの石の上の演説」を載せておく。この演説では、ドストエフスキーはアリョーシャをイエス・キリストに重ね合わせている。
『カラマーゾフの兄弟(下)』F・ドストエフスキー 新潮文庫 原卓也訳より一部抜粋
「(中略)これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそおそらく最良の教育に他ならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、僕たちはわるい人間になるかもしれないし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれません。人間の涙を嘲笑う(あざわら)かもしれないし、ことによると、さっきコーリャが叫んだみたいに『ぼくはすべての人々の前で苦しみたい』と言う人たちを意地悪く嘲笑うようになるかもしれない。そんなことにはならないと思うけれど、どんなに僕たちが悪い人間になっても、やはり、こうしてイリューシャ(コーリャら少年たちやアリョーシャの友。病気のために亡くなった。引用者注。)を葬ったことや、最後の日々に僕たちが彼を愛したことや、今この石のそばでこうしていっしょに仲よく話したことなどを思いだすなら、仮に僕たちがそんな人間になっていたとしても、その中で一番冷酷な、一番嘲笑的な人間でさえ、やはり、今、この瞬間に自分がどんなに善良で立派だったかを、心の内で笑ったりできないはずです!そればかりではなく、もしかすると、まさにその一つの思い出が大きな悪から彼を引きとめてくれ、彼は思い直して『そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった』と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するにしても、それはかまはない。人間はしばしば善良な立派なものを笑うことがあるからです。それは軽薄さが原因にすぎないのです。でも、みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐに心の中でこういうはずです。『いや、苦笑などしていけないことをした。なぜってこういうものを笑ってはいけないからだ。』と。(中略)これから一生の間いつも思い出し、また思い出すつもりでいる、この善良なすばらしい感情で僕たちを結び付けてくれたのは、いったいだれでしょうか。それはあの善良な少年、愛すべき少年、僕らにとって永久に大切な少年、イリューシェチカにほかならないのです!決して彼を忘れないようにしましょう、今から永久に僕らの心に、あの子のすばらしい永遠の思い出が生きつづけるのです!」
(中略)
「ああ、子供たち、ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけません!何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです!」
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