ソーニャ論について

 私は一連のソーニャ論を通して主に愛について感じてもらおう時と企図していた。しかし今、筆が止まっている。それはラスコーリニコフの告白とそれに伴うソーニャの愛の発現に必然性を見出せなくなっているからだ。これは『罪と罰』における私の立場が根底から覆ることをすら意味する重大なことである。なぜなら私は究極的にこの作品は「愛と救済の物語」と位置付けている所以だ。ソーニャのラスコーリニコフへの無私の愛情こそが他の何よりもこの作品の価値を高めていると信じて疑わなかったからだ。それが今、私の戸惑いがその位相に転換を強いている。
 ソーニャが初めてラスコーリニコフのアパートを訪れたとき、彼女は彼の棺のような劣悪な住居をみて、先日自分達マルメラードフ一家のためにお金を置いていってくれた彼を想起しながら、自らも貧困に汲々としていながらなけなしの金を恵んでくれた自己犠牲的人物であることに感動した。このシーンにこそ二人の愛の端緒があるに間違いはないであろう。
 しかし、それを受けて件の場面における二人の遣り取りを眺めてみると、ここにはどうしてもその芽生えた愛の萌芽を伸長させていく蓋然性があるとは思えなくなくもない。
 小説ではラスコーリニコフの犯行を確信したソーニャがすぐさま彼の首に飛びついて抱きしめるという記述がある。博愛者のソーニャであれば、いささか突飛な感がすぎるとはいえありえない行動ではないが、その後ラスコーリニコフの「じゃ、お前はぼくを見捨てないんだね、ソーニャ?」と涙ながらの懇願に対する彼女の「ええ、ええ。いつまでも、どこまでも!」や「今!おお、いまさらどうすることができましょう!……いっしょに、いっしょに!」といった返事は、目の前の男が今世界で最も不幸な状態にあると彼女が思っていたとはいえメロドラマ的過ぎるきらいが否めない。ラスコーリニコフに向けられる彼女のこのときの態度はリアリティに欠けていると告白しなければなるまい。
 そもそもソーニャは無二の親友であるリザヴェータが眼前の男に無残に惨殺されているという事実を失念してはいないだろうか。リザヴェータの無念を慮れば、たとえラスコーリニコフに同情を禁じえないにせよ、このような「瞬時の」(彼への)愛情告白など到底できそうもないように思える。私は純粋にソーニャという人物像が好きだが、この場面における彼女の行動原理に対してはマリの次の言葉もあまり批判的には聞こえなくなってしまうどころか素直に首肯してしまいかねない。

 「彼女(ソーニャ 引用者注)は本来何ものでもなく、ただ寓話中の人物のように、この世の苦悩を表すにすぎない」(マリ 前掲書)

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