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映画Gレコを、たぶん世界で一番適当に観た自分のための備忘録

この記事ってなんなの? なんだろうね。

ひょんなことから、私はGのレコンギスタというアニメ映画を観ました。元は24話のアニメを、全5部作に再構成したものです(曰く、総集編とは似て非なる物らしい)。
その5部作を1年くらい掛けて全部見終わったあと、ひょんなことの首謀者であり、私の友人でもあるあでのいさんに依頼されて、搾り取られたのがこの記事になります。そして、それが実際に載った本がこちらです。

劇場版Gのレコンギスタ備忘録プレ版 公開 - 銀河孤児亭 (hatenablog.com)

見るからにGレコオタク密度が濃そうなこの本に載った私の記事は、いわゆる初見勢の感想というやつなんですが、実のところ「Gレコ最高~!」というスタンスからは外れた物になります。「いや実際面白かったんだけど、まぁ沼に浸かることはないんだろうな」くらいの微妙な距離感で綴ったものです。
Gレコのオタクの本に寄稿する物がこんなんでいいんか?
と、今でも疑問は尽きませんが。このテキストを依頼してきた張本人からのウケが妙に良かったことに加え、彼がプレ版をこうしてネットに公開したのもあって、じゃあ私も私で公開しておこうって感じです。
物のついでにちょっとだけ言い回しを直すなどしました。微修正版ではありつつ、99%くらい本に載ったやつそのままです。
『自分に向けての備忘録』という形なので、敬語とかろくに使っていません。
そんなゆるゆるな感じですが、どうぞよしなに楽しんでいただければ幸いです。未だによく分からないんだけど、楽しいのかなぁこれ。楽しいといいなぁ。↓から本編です。

自分とGレコのきっかけ。

ある日いきなり、この本の著者であるあでのいさんからGレコⅠ&Ⅱの無料視聴チケット(ハサウェイ映画特典のやつ)を貰った。以上が、映画Gレコを観るに至った経緯の全てである。
べつにこの作品に興味なかったしTV版ももちろん観ていないけど、タダならまぁ観てみるか。動機なんてそれくらい。
なにせこんな本に寄稿しておいてなんだが、自分は特に富野由悠季のファンでもなんでもないのだ。一応好きなガンダムくらいあるが、GガンダムやガンダムW、ビルドファイターズやSDフルカラー劇場といったあたりである。
一応教養として初代ガンダムとZガンダムくらいは観たことあるが、そんなにピンと来なかった。
そんな自分が映画GレコをVまで見終えて、なにを思ったのか。これはその備忘録である。
なおこの備忘録もあでのいさんに依頼されて書いているわけだが、『初見の勢いが欲しいので映画は見返さないでくれ』と言われたので、本当に映画は一切見返していない。素直に頭おかしいんじゃねぇかと思いながら、ぽやぽやした思い出を適当に綴っていこうと思う。

GレコⅠ。初見の感想、そのうろ覚え。

GレコⅠ&Ⅱを観たあと、すぐに感想会が開かれた。あでのいさん含む数人のGレコオタクに自分が取り囲まれて、全く無知で初見の感想を枯れるまで絞り上げられる恐ろしい祭りだ。
そこで自分はこう語った記憶がある。まるで外国を観光しているような気分になって、本筋とかよくわかんねぇけどなんかワクワクできる。そういう作品だった、と。

例えば今でも覚えている。異様にカラフルで奇妙な形をした建物の数々。科学と信仰が入り交じった独自の宗教観。2足歩行のシャンクが平然と闊歩する街の景色が、ある種の古めかしさと異国情緒に溢れていた。
MSたちはことごとく目とか頭とかが丸っこく可愛らしく、挙動も人間味が溢れている。接触回線という設定も、そこに一役買っていた。
そのくせバトルシーンはMSの兵器的側面や地理的状況をバリバリに活かしていて、流石というべきか素直に格好良い。モンテーロが一番好き。
ストーリーやキャラクターの描き方も独特だ。謎の用語や相関図が右から左へ通り過ぎ、キャラクターはその場の勢いだけで動き回る。カメラの焦点が1人に集中することはなく、ストーリーを理解させる気がちっともない。

見終わったあと、率直に変なアニメだと思った。Gレコのオタクいわく『Gレコはそういうもの』らしい。観たままを楽しめばいいらしいと、言っていた。変な人たちだなぁと思った。
ところで、これを書いている2022年8月某日時点でGレコⅠを観たのがおよそ1年前だ。
『見返したりしないで書いて欲しい』という謎の縛りも掛かっている。ゆえに本当のうろ覚えなのだけど(だから多少間違っていても許して欲しい)、未だ印象に残っているシーンが2つある。

1つ目は、ベルリが燃え盛る建物からアイーダを助けに行くシーンだ。
切羽詰まった状況のはずなのに、滑稽でお茶目なアクションがやたら軽快なBGMを背景に展開されているアレだ。どう考えても変なシーンだと思いつつ、実際のところ一目惚れした姫様を颯爽と助けに行くって当事者の男の子からすればそりゃあ楽しい気もする。状況的には変だけど、心情的には間違っちゃいないBGM。Gレコの視聴がちょっと前のめりになった瞬間だった。

2つ目は、ベルリがカーヒル大佐を殺してしまったあとの、ベルリとアイーダが何かを言い合ってるシーン。
会話の内容はすっかり忘れてしまったけど、それよりも戦艦内で作業している乗組員たちが、言い合う2人のことなんてちっとも気にせず淡々と何かの作業をしていた。そのことが妙に印象に残っていた。今思えば、ここが映画Gレコのスタンスを自分なりに、うっすらと嗅ぎ取った瞬間だったのかもしれない。

自分→映画Gレコへの微妙な距離感。

自分で言うのもなんだけど、映画Gレコの視聴環境にはずいぶんと恵まれていた。Ⅰ、Ⅱ、そして続くⅢも、Gレコのオタクに囲まれて感想を語り、消化する機会があった。Gレコ特有の複雑な相関図やキャラクターの目的など、分からない部分にも事細かく解説がもらえた。

その大半が、今となっては忘却の彼方にある。

よく分からない三つ巴のさらに内側で内部分裂がいくつも起こっている相関図なんて何度教えて貰っても秒で忘れるに決まっている。Vまで見終えた今だって、結局メガファウナがなんで宇宙に上がって何を得て戻ってきたのかさっぱり分かってない。こんなんだから、特定のキャラクターへの推し的感情とかそういうのもちっともさっぱりである。
ゆえにぶっちゃけると、Ⅲまで見終わった時点で自分とGレコの距離感は微妙な物だった。

自分は狭量な人間なので、いくら友人の付き合いでも面白くなきゃ見続けない。見続けられる以上は、まぁそれなりに楽しんでいることではあるが。ことではあるが……。
例えば、ところどころで感じるセンスオブワンダーが楽しい。それにGレコ女子はみんな活発で表情豊かなので、観ていて素直に可愛いと思う。出てくるMSだって面白くて格好良い物が多い。世界を貫く雑な倫理観から、捕虜がぬるっと仲間になったり所属がぬるっと変わったりする。それもなんだかお気楽で適当で、気負わない雰囲気が自分の好みにあっている。
そんなポジティブ感想を持っている一方で。
またもぶっちゃけると、Ⅲを観終わった時点で自分はちょっとこの作品に飽き始めていた。

キャラに愛着を持てずストーリーも曖昧なまま、だらだら世界を楽しんでいるだけの視聴に限界が来ていたのかもしれない。Ⅱ、ⅢはⅠに比べて、なんかよく分からない政治や内部組織の話が多かったからかもしれない(なんとなくそういう記憶だけがある。違ったら申し訳ない)。
だから自分は迷っていた。具体的には2022年8月某日。映画GレコⅣを観に行くかを迷っていた。

ちなみにⅢを観たのは2021年12月とかだった、はず。ただでさえ全てが覚えづらい映画だ。8ヶ月も経てばそりゃあもう何もかもを忘れているわけだ。そのくせⅢまでは上映と配信が同時に行われていたはずなのに、なぜかⅣからは配信がない。一番近い劇場は、電車で県を跨いで片道約700円+徒歩約10分であった。
自分は迷った。何もかもを忘れた映画の第4部なんぞ、本当に楽しめるのか? 正直、大人しく配信を待ってGレコオタクから解説や予備知識を聞きながら観た方が効率的だと思う。特別興行だとかでやたらとチケット代も高いし、こんな炎天下の中わざわざ映画一本のために県越えして外を歩くとか、いや、でも、うーん……。

後日。
自分は結局県を越えて、遠路はるばる映画館へとやってきた。
小粒な理由が積み重なっていた。例えばいつものGレコオタクの友人たちとのリモート飲み会が近かったし、まぁつまらなくても分からなくても最低限話の種にはなるかなという気持ち。あるいはなんか久々に、映画観てーなーという気分。特に理由なくプチ遠出でプチ豪遊してぇ~、というささやかな欲求もあった。
しかし正直、さして期待はしていなかった。やおら評判良かったⅢが自分的にそこまでピンと来なかったのもあって、まぁ”いつもの面白さ”があれば儲けものかな。それくらいの気持ちで劇場の席について、やがて映画は始まった。

――よぉし! こうなったら最後まで見届けてやろうじゃねぇか!


Vの次回予告が流れて、映画が終わった。その直後の気持ちであった。

Ⅳが自分に魅せたもの。

GレコⅣはなんというか、みんなものすごく自由に、そして適当に生きていた。

まず真っ先に特筆したいのはマニィだ。ついこの前(Ⅲ)までマスクとよろしくやっていたはずなのに、気づけばⅣの初っぱなからメガファウナでみんなと仲良くやっていたあいつ。「いつ仲間になったっけ?」と後からオタクに聞いてみたところ、「Ⅲでメガファウナに捕まったけど特に(仲間になるなどの)描写はない」とのこと。自由過ぎる。
なんだかんだで目的地である人類の住む宇宙の果て。ビーナスグロウブにやっとこさ辿り着いたと思ったら、なんの前触れもなく突然現れたジット団。みんな大好きキア隊長は自分で故郷に穴を開け、自分で穴を塞いで死んで、キア隊長が泣いている……満艦飾!
このアニメは普段そんなことぜってぇやらねぇのに、ここぞとばかりに悲壮感のあるBGMまで流しちゃって、誰がどう見ても露骨にキア隊長の愚かさを皮肉っている。実際ぼくもここはめちゃくちゃ笑った(劇場ゆえもちろん心の中で、ですが)。
しかしこれは後で詳しく書くのだけど、ここは自分が自分なりにGレコを紐解くにあたって、ちょっとしたターニングポイントになった節もあるのだ。だから今となっては笑いどころとは別の意味でも好きなシーンなのだけど、それはそれとして。

やがて人が住む宇宙の果て、その穴を抜けた先には、地球のような青い空が広がっていた。ワカメを間抜けに頭に乗っけたGセルフに、のどかな生活を営んでいた漁師のおじさんが驚き逃げた。ジット団の秘密兵器? であるGルシファーやジーラッハはあろうことに、どこにでもありそうな町工場で製作されていた。た……楽しい! 思った。このアニメは楽しい!
なんというか、なんというか。Gセルフが宇宙から海を渡り、青空へと突き抜けた瞬間。すごくグッときたのだ。遙か遠い宇宙の果てだって、青空の下で人は普通に平穏に生きている。言葉にし難い謎の浪漫がそこにはあった。
ベルリVSジット団が盛り上がるその片隅で、Gルシファーがものすごく雑に盗まれた。ルシファー。Gの名を冠した堕天使。昔々テレビ版Gレコが放映されていた(そして私は全く観ていなかった)時期、ガンプラの箱かなんかで見かけたこいつを自分はラスボスかそれに近い類の存在だと思っていた。だってほら、Gの名を冠した堕天使だぜ? え、いや、あの……こんな簡単に窃盗していいんですか!? 
いいらしい。あまりにも適当過ぎるけど、でも適当な町工場に潜入して秘密兵器を盗むのは絶対に楽しいよなぁ!
そうしてあれやこれやあったあと、気づけば当主の家でわりと楽しく過ごしていて、気づけば当主から馬鹿ほどに気が長い、数千だか数万年単位の計画を聞かされて、ムタチオンとか言われて突然変異した体を見せられたが、テニスしていたら開き直った。私は健康!
これまでに比べて描写の多かった(気がする)宇宙生活もとても魅力的だった。宇宙船の中をランニングしたり、テニスしたり、船外でMSと人が一緒に作業したり、窓の外に広がる星を眺めながら少年少女が語らい合ったり。そんなん、そりゃあ、楽しいに決まってる!

好き勝手に盛り上がったりこっそり秘密兵器盗んだり宇宙でわちゃわちゃ生活したり、当事者から見ればそりゃあ楽しいだろうなぁと、妙に羨ましい気持ちで眺め続けていたのを覚えている。
センスオブワンダーだ。ちっとも理解できないけど、妙に賑やかで色彩溢れるこの世界で適当に生きて、適当に死んで、適当に仲良くなってはまた別れる。そんなキャラクターの営みがとても心地良く、爽快に映ったのを覚えている。
わざわざ遙か遠く金星圏くんだりまで行ったのに、気が遠くなるような計画と意味があるんだかないんだか分からない衝撃の事実を聞かされて、なにを得たのかよく分からないまま彼らは地球へと舵を切った。何を得たんだかよく分かんないけどなんかスッキリして帰って行く。その様子がとても旅だなぁって思ったのを、覚えている。
目的がなんだかふわふわしていても、行き当たりばったりの旅路でも、明確に得た物がなくても、旅っていうのはとても楽しいものらしい。

ところでⅣは思うに、(自分がGレコに見出していた)芸風が爆発した回だったと思う。
今までこのアニメは、執拗なまでに物語の焦点を定めることを放棄してきた。キャラクターの事情をこっちに悟らせる配慮もほとんどなく、そのくせキャラクターの描き方そのものは妙な一貫性を保っている。どの組織でも捕虜の扱いがクソ雑で、みんな楽しそうに戦争してて、人の死をろくに嘆くことはなく、脚本もキャラも人の悲しみに寄り添わない。
そういったものを延々と描き続けてきた末にⅣで展開されたのは、視聴者のことなんてちっとも気にせず自由に、縦横無尽に動き回る人と世界だった。
それがとても気持ちいいものだから、ただでさえ分からなかった本筋がここに来て本格的にどうでも良くなっていた。
ただただこのドタバタを眺めていたい。そう思っているうちにあっという間に過ぎた90分。そしてVの次回予告でベルリは言った。「僕はGセルフの義務を果たす!」
ベルリの……義務……? ここに来てそんなこと言われても! マスクといかにも因縁のライバルですみたいな面してるのも含めて、こいつらは一体何をやっているんだ?
こいつらの言っていることは、相も変わらず分からない。だから自分はVを観よう。旅の行く末を見届けてやろう。そう思った。

映画GレコV、分からない清々しさ。

Vはこれまでのロードムービー感が嘘のようにひたすらバトル、バトル。バトル! だった。
戦いっぱなしだから作中でもエネルギー切れがしょっちゅう起こるのが、なんか連動感あって良かったなぁ。あと当然のように勢力図とか全然分からないけれど、そこかしこで激しいドンパチが繰り広げられているのは単純に楽しい。まずもってロボットバトルが好きじゃなきゃ、こんなところ(映画館)にまで足を運ばねぇぜ!
そんでGレコはGレコなので重い人間ドラマなどを挟むこともほどんどなく、ビーナスグロウブの超兵器をそこかしこでぶん回しては各人がビビったり立ち向かったり雑に死んだり生き残ったりする。
V全体を通した戦闘のなにが良いって、よくよく見れば誰1人大義や使命を抱えて戦っているやつがいないところだ。GレコVはカップルのカップル性が妙に強調されているのもポイント。誰も彼もが個人的な愛憎だけを軸にして好き勝手に暴れているわけだ。
そんでその辺、一番印象に残ったのがユグドラシル。世界樹とかいうご大層な名前のわりに真っ赤な三角錐としか言いようがない異質な機体から出てくるのは、えげつないほどの火力と範囲を持ちながら見た目が超きしょいビーム兵器。あんなやばいものを「マスクに良いかっこしたい!」という一心だけで振り回すのがとても恐ろしくて愉快なのだ。
あちこちでそんなこんな超兵器をぶん回しつつ、話はぬるっとシームレスに大気圏降下へと移りゆく。各軍勢がいちゃいちゃしたりしなかったり、戦艦の形ヨシ! うっかり労災起こしたりしつつ、地球へと帰ってきた。
ギアナ高地というどこぞのGで聞いた地名。久々に見る、地球本来の青い空と大地に広がる大自然。画面の綺麗さに見とれたのも束の間、なんか横から別の戦艦が出てきて、文字通り息つく暇もなく最終バトルへと突入していく。
GセルフVSカバカーリーの、今まで散々戦っていた宇宙空間とは大きく様相を変えた大自然を利用しまくるド迫力のバトルを中心として、最後のドンパチが繰り広げられる。なんか今クンパ大佐が谷底に落ちていった気もするが、そんな些事に構っている余裕は誰にもない。そうこうしている間にルインが負けて、ベルリの名を空へと叫び、次の瞬間にはマニィとゆるキャンしてた。あ、もしかしてこれエンディングか!?

またしてもぬるっと突入したエンディングは、妙に清々しかった。
いつの間にかクレセントシップは世界一周旅行するとかいう話になったらしい。ところでルインお前『許せねぇぜ世界を牛耳る独裁者の血筋!』とかそれっぽいスタンスはどこへ消えたんだなんでその満ち足りた顔でクレセントシップ見送ってんだ。キ、キ、キ、キアJr~!?通りすがりに大統領はダイナミック暗殺されて、ベルリは船を降りていた。
どいつもこいつも好きにしてくれ~!
そういえば、結局ベルリの言っていたGセルフの義務とは一体なんだったのだろう。ぶっちゃけこうして執筆している今でもよく分かってないし、特にそんなに興味もない。
ベルリは船を降りた後、のどかな日本を駆け回り、世界を自分の足で回ると叫んだ。私にはこいつの考えていることがちっとも分からない。だけどあるんだかないんだか分からない義務を放り投げて、1人で自由に旅をすると決めたその姿が妙に眩しく見えたことは覚えている。
やがてベルリはあとから追いかけてきたノレドと鉢合わせ、どこかの国で一緒のテントに収まって映画は終わった。なんだかよく分からないまま、私はすっきりした気持ちで映画館を出た。すっきりしたその理由さえ、よく分からないまま。

映画Gレコの結び。旅の果てに見えたもの。

結局この映画はなんだったんだろう。
帰りの電車に揺られながら、まぁまぁあれこれ考えてみた。それで2つほど、はっきりと思ったことがある。

まず1つめ。Gレコ世界において、人は誰もが勝手に物語を創っているということ。
その点においてはキア隊長がものすごく分かりやすい。自分で穴開けて自分で埋めて、それを仲間はもて囃し、戦艦をぺかぺか光らせたりキアJrとか言い出したりする。これら全ては明らかに滑稽なシーンとして描かれている。間違いなく笑いどころだ。でも彼らはそれを本気でやっている。彼らにとってはそれが正しい物語なのだと、確信できるシーン群でもある。
Gレコは1人のキャラクターに焦点を当てることを徹底的に避けてきた。視聴者に追わせる”軸”のようなものをろくに創らず、個々人がそれぞれの導線らしき物を追ってばらばらに動いている。その果てに描かれたのがⅣの無法な暴れっぷりであり、Ⅴの多面的な戦闘でもある。
Vがイチャコラ祭りだったのも、その辺に根っこがあると私は勝手に読み取っている。実際あの世界に生きる人たちの中で集団のために戦っている人間はほとんどいなくて、みんながみんな色恋や仲間のため、自分の物語のために戦っていた。
ベルリが言っていた義務とやらも、そういうことなんだろう。世界が彼に使命を課すことはなく、Gセルフを託されたその意味について問いかけるのもベルリ本人だけだった。
このあたり、ムタチオンについて聞かされたあとのアイーダを思い出す。なんだか世界の根幹を揺るがす話を聞いた気がするのに、テニスをしてたらスッキリして以降思い出すことさえなくなったムタチオン。
きっとGレコ世界において個々の問題というものは、どこまでいっても個々が抱えるものでしかないのだろう。

そして2つめ。Gレコ世界は気楽で適当で賑やかである……その一方、残酷で冷たく寂しい世界でもあるということ。
Gレコ世界は異様なところで異様な一貫性を持っている。例えば捕虜の扱いが死ぬほど適当で、あまりにも気楽に所属を渡り歩けること。例えば戦争被害をろくに引きずらないこと。
例えば接触回線という設定まであるほど体が触れ合うコミュニケーションを大事にしているくせに、ろくすっぽ他者の悲しみに寄り添えないこと……。
その辺色濃い記憶として残っているのは、フォトントルピードがもたらした被害に対するベルリ自身の恐怖と、すぐに戦いを促した周囲の温度差。あるいは父親が死んだ直後のアイーダとその周囲にも、似たような温度差を感じた。
映画Gレコは、人の悲しみに寄り添わない作品だ。シナリオもカメラも世界さえも、そんなことは些事だとばかりにすぐ流し、時には映しさえしない。
あの世界の人間は薄情ではない。むしろ情と活気だけでざっくばらんに生きているような人たちばかりだ。それでも誰かの死に嘆き悲しむことができるのは、その誰かとよっぽど深い仲の人たちだけだ。そこを映画Gレコは、執拗なまでに徹底している。
リギルド・センチュリーは冷たい世だ。誰もが大義なく雑に怒って雑に戦って、そして雑に死んでいく。人の死は羽根のように軽く、世界はそれに無関心だ。
だから、自由なのだと思った。
どれだけ深く触れ合ったって、人が真に分かり合うことなんてできない。だからそれぞれ勝手に悲しんで、勝手に立ち直って、そんで好きに旅に出て、好きに追いかけて良いのだ。
ベルリが最後に降り立った日本は、いくつもの勢力を巻き込んだ宇宙戦争なんて全く知らないかのようにのどかな場所だった。宇宙の果てに行って返ってきてもなお、小さな地球はとても大きかった。ベルリはそんな世界へと、今までの全てをほっぽり出して旅に出た。追いかけてきたのは、ノレドただ1人だけだった。
本質的な繋がりの薄っぺらい世界なればこそ、それぞれが勝手に物語を創って、自由に歩いて行ける。Gレコ世界はそういう世界なのだと閃いたとき、私の中で劇場版Gのレコンギスタという物語はひとつの結びを得た。

いつか全てを忘れて、そのあとに残るのは。

ここまでがっつり8000文字も書いてこう言うのもなんだけど、私とGレコとの距離感は今でも微妙なものだ。
ⅣとⅤは見放題にでもなったらもう一回くらい見返したい。Ⅰ~Ⅲだって、Gレコオタクたちと酒での飲みながらウォッチパーティに付き合うくらいはやぶさかじゃない。
あと、こう、Gレコ系ガンプラの1個や2個くらいは欲しくなった。売ってないけど。売ってないんだけども。

でもたぶん、それ以上はない。
TV版はいつか観られればいいかな~と思いつつ、この文章が世に出たそのときになってもたぶん観ていない気がする。
そもそも自分は普通に主人公を追いかけて、ストーリーに手に汗握りたい系の視聴者なのだ。だから映画Gレコは『すごく変で結構面白い作品のひとつ』として、きっと緩やかに忘れていく。ただでさえ色々覚えづらい作品だし。そうしていつか、曖昧で小さな記憶のひとつになるのだろう。
なんだか世界が冷たいなぁと思った時、そんな世界で適当に生きていたやつらを思い出して、なんとなく元気を貰う。
そういう存在として、彼らは今日も適当に、自分の心の片隅にでも居座っているのだと思う。

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