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父を変えたアルコール

父は優しい人だった。仕事も真面目にこなし、成績はいつもトップクラスだったそうだ。

アルコールに溺れるまでは・・・

出社拒否

いつからか父は、朝から晩までお酒を呑む生活を送っていた。

私の記憶には、出社前の父は必ず吐血をしていた。

そこからスーツに着替え、ネクタイをきっちり締め、スーツに合う靴を選び、会社に向かうのであった。

その光景が当たり前のように続いていたが、父はいつからか会社に行くこともなく、ただひたすら酒を呑む生活を送っていた。

後から母に聞いた話によると、この頃は無断欠勤と出勤を繰り返していたそうだ。

働かない父

いつからだろう。

自宅に帰れば、狭い三畳の部屋でいつも父は一人でお酒を呑んでいた。

私の住んでいた団地は、三畳・四畳半・六畳の部屋に、四畳くらいのキッチン。
四人家族が住むには、狭い間取り。

こんな狭い間取りの一番狭い、三畳の部屋で酒を呑み続ける父。
とても寂しそうな背中を、毎日こちらに向けていた。

当時保育園に通っていた私、父の仕事が休みの土曜日が楽しみでならない。
毎日引きこもって酒を飲む父が、自転車に乗って迎えに来てくれるからだ。

母は自転車に乗れず、いつも徒歩で迎えに来てくれていた。
障害者の妹がいたため、母は妹をバギーに乗せて。
自転車で迎えに来る友達の母を見ては、その光景を羨ましく思っていた。

そのことを何度も両親に話した私。
すると、父の仕事が休みの土曜日だけ、自転車に乗って迎えに来てくれるようになった。

とても特別に感じていた、土曜日。

だが、父は仕事に行かなくなり、年中家にこもり、浴びるように酒を呑むのだ。

土曜日のお迎えもいつの間にやら来なくなり、いつも通り母が迎えに来た。

父の借金

父は、営業の仕事をしていた。

その業界ではとても顔が利くやり手のサラリーマンで、昭和後期のサラリーマンの平均年収をはるかに上回るほどだった。

30代前半で営業部長に昇進したので、自信も沢山あったのだろう。

そんな父を皆信頼し、接待などでは会社のツケにして吞むことも多く、店主に父の名前を出せばビールをサービスしてもらえたり、割り引いてくれるなど、どのお店でも良い待遇を受けていた。

だが、働かなくなってしまった父には、そのツケが多額の借金を作ることとなった。

働きもしないのに、行きつけの店に行ってはツケで吞んでいたからだ。

後から父に聞いたのだが、一回当たりの飲みの席で5万~10万は当たり前だったそう。
今の時代は令和だが、一回の飲みでそんなに出せます?

どんだけバブリーだったのよ、お父ちゃんw

働きもしない父に、そのツケを払える能力は到底ない。
そのため父は、借金を作る羽目に。

ツケの総額は、100万以上は超えていたそう。

当時の時代は昭和後期だが、現在令和初期でも、100万の借金は肩身が狭いものである。

貰えないお金

小学生の頃だっただろうか。

酒を呑んでいる父に『お父さんのスーツのポケットの中身を見てごらん』と言われた。

言われた通りポケットを探ると、高そうなチョコレートと小銭が沢山。

『そのチョコレートと小銭を春奈にあげるよ』と、呂律の回らない声で言い出した。

千円くらいはあっただろう。
正直欲しかったけど、それをもらったら共犯者になる。
悪いことに手を染めてしまうようで、頑なに断った。

それでも父は、『春奈にあげるよ』と、暗い三畳の部屋でうすら笑いを浮かべる。
これが私の父なのか?と、鳥肌が立つ。

チョコと小銭を手にし、私は部屋を後にした。
そして、父がいないところで泣いたのだ。

借金がある割に父は働かず、重度障害の妹の通院にもお金が掛かる。
母は保険会社で働き、なんとか生計を立てていた。

父が働いていた頃はとっても裕福。
ディズニーランドも沢山行ったし、何でも買い与えてもらえた。

裕福なのに団地に住んでいたのは、妹の障害があったからだ。

父くらいの稼ぎがあると団地には住めないが、家族に介護が必要な者がいると優先的に住めるらしい。
もちろん、時代は昭和後期。
令和初期の今は、どうなのでしょう?


少しお金持ちなお嬢さんから、かなり貧乏なお嬢さんになるまで、そんなに時間は掛からなかった。

色々な感情が頭をぐるぐると回り、手に掴んだ小銭をスーツのポケットに戻した。

『お金はいらないよ・・・』と父に伝え、三畳の部屋を出ると、涙が出た。

『お金なんていらないから、お母さんに辛い思いをさせないで欲しい・・・』

娘というものは、母親の感情や表情などにとても敏感である。

しかし私は、チョコを返した記憶がないw

食べてしまったのかも・・・。



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