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間に合わなかったメロスのその後の話⑥

メロスの敗北 最終話

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メロスは、夢を見ていた。

目の前に生きて縄を解かれたセリヌンティウスがいた。間に合ったのだ。メロスは万感の思いで友の元に歩み寄り、その手を握りしめた。目に涙が浮かんだ。

「私を殴れ。力いっぱいに頬を殴れ。正直に言う、私は途中で一度君のことを見捨てようとした。あの悪い男を許すわけにはいかない。どうか殴ってくれ」

セリヌンティウスが頷き、周囲がぎょっとするほど力を込めて頬を打った。頑強な石工の腕っぷしだ。たまらず倒れるところを友は素早く支えると、優しく言った。

「メロス、私のことも殴ってくれ。同じくらい力いっぱいに。私もこの3日の間で一度君を疑い、友情を捨てようとした。愚かな男を殴ってくれ。仲直りはそれからがいい」

ああ、知っている、君をどんなに苦しめたか。本当に許しを請わなければいけないのは私のほうなのに、どこまでも優しい男だ。
それでも彼のためだと拳を固く握ると、力を込めて思い切り彼の頬を打った。満身創痍の身体だ。打った拍子に足腰がふらついてまたもや倒れそうになったが、倒れなかったセリヌンティウスに先程と同じように支えられた。

二人の口から同時に笑みがこぼれた。
「ありがとう、友よ」
それ以上は言葉にならなかった。固く抱き合って、周囲も憚らずに、ただ声を上げて泣き続けた。

そこら中からすすり泣く声が上がった。
誰かが拍手した。拍手はみるみる周囲に広がっていき、あっという間に観衆一体の大喝采に変わった。
メロスは友を抱きしめたまま、熱い祝福の渦に身を任せていた。

ふと、歓声が静まった。
ディオニス王が観衆に分け入り近づいてきたのだ。王は顔を紅潮させながら二人に語りかけた。
「お前らの言葉は真実だった。真の信頼というものはけっして嘘やまやかしではなかったのだな。わしが間違っていた。ああ、どうかわしをお前らの仲間にしてもらうことはできぬか。恥は承知の上だが、わしは今この胸が熱くてたまらないのだ」

王が差し出した手を、メロスとセリヌンティウスはしっかり握った。
三人から笑みがこぼれ、再び観衆に割れるような拍手と歓声が上がった。

目が覚めると、頬に涙を伝った跡があった。親友に打たれた痛みが頬に、歓声が耳に、王の手の感触が両手にありありと残っていた。そのときメロスは自分のやるべきことがわかった。

深く息を吐くと、寝床から半身を起こして、周囲を見回した。主を失った家は静かで、窓から弱まった日の光が射し込んでいた。
フィロストラトスの姿はなかったが、外の仕事場から小さく石を打つ音が聞こえて来た。
メロスが部屋を出ると、石を打っていたフィロストラトスが気づいた。

「疲れていたのでしょう、とても深く眠っておられました」
無理もないが、さすがに眠りすぎたようだ。見れば日は傾き、橙色の光が通りに射し込んでいる。

「フィロストラトス、世話になった」
「昨夜は良い時間でした。先生もメロス様を家に招くことができてきっと喜んでいます」
「礼を言うのも詫びるのも、すっかり時期を逸してしまった。いまさら詫びたところで赦されるはずもないが、フィロストラトス、本当にすまなかった」

フィロストラトスは寂しげに笑った。
「もうよいのです。先生は自分の意思で去っていったのですから。私が文句を言ったら、先生に叱られます」

「私の親友を支えてくれてありがとう。それに私のことも」
「メロス様はもうひとりの先生のようなものですから。二人とも同じくらい、手のかかるお方です」
今度はいたずらっぽく笑った。十六の若者の、年相応の笑顔だった。

「君はこれからどうする」
「私は石工としてここで先生の後を継ぎます。もう教えを受けることはできませんが、この二年でたくさん学ぶことができました。一人でも何とかやっていけるように励みます」

「そうか、それは何よりだ。ところでフィロストラトス、私は一つやらねばならぬことを見つけた。今から王城に向かうので道を教えてほしい」

フィロストラトスの顔色がさっと曇った。

「何をなさるのですかメロス様、まさか助かった命をまたなげうつのですか?」
「いや、もう短剣を持って押し入ったりはしない。 王に、私を臣下にするよう申し入れるのだ」

フィロストラトスは驚き、困惑した。
「いったい、何を考えてそのようなことを仰るのですか。あなたは早くシラクスを離れるべきです。昨日殺されなかったからといって今日もそうとは限りません。ここにいたら今度こそ王はあなたを磔にするかもしれない」

「その時はその時だ。だが、きっと王は私を殺さぬ。 聞いてくれフィロストラトス。
 王は、本当のところは私達の真の友情を知っていたはずだ。セリヌンティウスが最後まで私を信じるのを見て、それに気づいた。
気づいたからこそ、それを許せず私に刺客をよこしたのだ。

 だが私はそれを乗り越えてシラクスに戻った。あのとき王は遅れてきた私を嘲笑うことは一切しなかった。私の心を知っていたからだ。私は友を死なせた愚か者だが、王は確かに私達の本心を見たはずだ。
 だとしたら、セリヌンティウスも忠臣のアレキスもいない今、このシラクスで、私以上に信頼のおける人間を王は知らないはずだ。

 だから、私が王に仕える。そうして、王と民の間をとりもって、信頼を回復させてみせる。人質を取ったり、殺したりしなくてもいいようにしてみせる。

 王の仕業を忘れたわけではない。だが私は友に命を託されこうして生きている。もう私一人の身ではない。もう許せる、許せないは問題ではない。私はちっぽけな男だが、今はもっと大きなものが私を突き動かすのだ。誰に後ろ指を指されようと、私はここで成すべきことを成しとげたい。フィロストラトス、セリヌンティウスなら私を止めると思うか」

フィロストラトスは少しの間黙っていたが、やがて諦めたように微かに笑みを浮かべて答えた。

「いえ、止めないでしょう。先生は今あなたと共にいる。あなたがそうするなら、きっと先生がそうするのです」

「ありがとう、フィロストラトス」

メロスは王城への道のりを教わり、フィロストラトスに別れを告げると、何も持たずに友の家を出た。

王城はここから半里ばかり先だという。日はさらに傾き、西日が長い影を落としていた。
昨日の今頃は生きた心地がしなかったが、今日はそう急ぐ必要もないだろう。日没に間に合わずとも、失う友もない。

シラクスは相変わらず活気がなく、よそよそしい空気に満ちていた。

歩いているうちに、なんだか見覚えのある通りに出た。思い出して懐かしさが蘇った。
二年前にもここを訪れている。あのときは多くの露店があり、目移りするほどたくさんのものが売られていて、持ちきれないほど買いこんだ。セリヌンティウスも一緒だった。

大きなシラクスの街での活気に満ちた暮らしぶりを聞くのは楽しかった。
故郷を懐かしむセリヌンティウスに積もる話も尽きなかった。
故郷の村中の人を集めたよりもたくさんの人が行き交っていた。

夜になっても活気は衰えず、広場ではリラの演奏が始まった。
陽気な音楽に歌に踊り。メロスとセリヌンティウスも加わった。
酒も食事も大いに楽しんで、セリヌンティウスの家に帰ってもなお楽しい時間は尽きなかった。

亡き友との記憶にメロスは胸が痛んだが、心が思い出すままに任せていた。

その思い出の場所で、妹と同じくらいの年頃だろうか、小綺麗な装いの若い娘が花を売っていた。
メロスはふと、自分が昨日と同じく薄汚れたままの格好でいることを意識した。

何も持たずに来たが、この出で立ちでは守衛の目に映る印象が良くないのではないか。
またもや懐に武器など隠していると思わせてはいけない。

メロスは若い娘に話しかけた。「すまないが、一輪だけ花を分けてはもらえぬか。これからディオニス王に会いに行かなければならぬのだが、見ての通りの格好で怪しまれそうでな。せめて花をかかげて敵意がないことを示したいのだ」

娘はメロスの顔を見ると、はっと気がついた様子でおずおずと訪ね返した。

「昨日命拾いしたばかりで、いったい何をしに行くのですか」
メロスは驚いた。この娘は私を知っている。昨日あったことを知っているのだ。

「そなたは昨日あの場にいたのか」
「おりました。あなたの親友の身が心配でたまらなかった。日が沈むずっと前から刑場で見守っていました」
「もしやそなたは、セリヌンティウスと恋仲だったのか」
「いいえ、あの方は私を知りません。私が密かに慕っているだけでした。あの方はシラクスではよく知られた石工です。腕がよく、人望も厚く、皆に好かれていた。 この通りでよくあの方を見かけました。一度だけ、花を買っていったことがあります。あの方は覚えていないでしょうが、私はとてもよく覚えている」

友の知らぬところで、友のことをずっと慕う娘がいた事実に、メロスはまた胸を痛めた。

この若い娘は、私をどのように見ているのか。言葉に詰まっていると娘は続けた。
「王に会って何をするのですか、あなたはもう罪を問われない。友人のいないこのシラクスにいる理由なんて無いのではありませんか」

ああ、この娘は私を恨んでいる。この街から出ていってくれと言っている。当然だ。想い人を死なせた男が目の前にいるのだ。何一つ弁解の余地はない。

メロスが返答に窮していると、娘は堰を切ったように続けた。

「昨日のあなたを間近で見ていました。あなたは決して自分が助かるためにわざと遅れてきたわけじゃない。あの場にいた者なら皆知っています。あなたは死力を尽くして戻ってきた。何よりあのお方が信じていた。 でも、あなたは、間に合わなかった。それが苦しい。あなたを責められない。あなたがあの方を人質になどしなければ死なずに済んだのに。 私は、気持ちの持っていく場がない。殺したのは王なのに、 あなたが殺したように思えて仕方がない。それが苦しくて、苦しくてしかたがないのです」

そこまで吐き出すと娘は涙を拭った。目を閉じて深く呼吸し、必死に感情をおさめようとしていた。

メロスは脳裏に昨日の出来事がまざまざと蘇った。メロスの目にも涙が滲んだが、歯を食いしばってこらえた。いま私に泣く資格はないのだ。

「そなたの大切な人を死なせたこと、お詫びの言葉もない。そなたにも、この街の人々にも、私は本当に取り返しのつかぬことをした。償っても償いきれぬことだが、それでも私は死んだ友のため、この街の人々のために、これからできることをしなければと思いここにいる。王に会うのはそのためだ」

娘が目を赤くしながらも聞いてきた。
「何か、考えがあるのですか」

この娘には正直に話したいと思った。メロスは先程フィロストラトスに話したのと同じことを伝えた。

娘は目を見開いたまま、メロスを見つめていた。

メロスが話し終えても、娘は胸に手を当てたままじっと何かを考えていた。少し経って、ようやく口を開いた。

「そういえば、今日は誰も処刑されたという話を聞いていません」
「昨日までは毎日だったのだな」
「ほとんど毎日でした。でも、ただの偶然かもしれない」
「偶然でなければ、王に心変わりがあったのかもしれぬ」
「けれども王があなたを信じるか、わかりません」

「それでも、私はやらねばならぬ。命のある限り何度でも頼み込むつもりだ。それが私にできる罪滅ぼしだ。すまないが、もう行かなければならない。どうか花を分けてはもらえぬか」

わかりました、と娘は白い花を選んだ。それを一輪ではなく両手で持てるだけ束にしてメロスに手渡した。
それから着ていた緋色の外套を脱いで広げると、すっと近寄り、それでふわりとメロスを包んだ。

娘の体温が身に伝わってきた。

「さしあげます。大切なものです」
メロスはうろたえた。

「奇抜な格好ですが、着の身着のままの丸腰よりはましです」
「なぜ私に。それに、花もこんなに」
「あなたに持っていてもらうことにしました」

娘はもう泣いていなかった。ただ真っ直ぐにメロスを見ていた。

「どうか無事で」

メロスは胸の前で花束をしっかりと持ち直した。

「ありがとう、行ってくる」
そう言って別れを告げ、王城に向かって歩きだした。

日没がそこまで近づいている。メロスは足を早めた。

手にもった花から優しい香りが溢れて、鼻孔をくすぐった。
緋色の外套が風になびく。包まれていると、心まで緋色に燃えるような気持ちがした。

メロスは、駆け出した。約束の刻限などないが、日没までに王に会いたいと思った。
王城まではもう一本道である。息を弾ませ走り続ける。

大きな力が背中を押していた。

この先何が起こるのか、メロスにはわからない。いや、誰も先のことなどわからない。

私は愚かな男だ。どうしようもない痴れ者だ。勇者でもなんでもない。本当の勇者は死んでしまった。
私は今や何者でもない。私は、

ただの男だ。ただ信じられているから走るだけの男だ。

神々よ、運命だの、結果だのは、すべてお任せする。
私はただやるべきことをやる。ただその一点のみだ。

王城が見えてきた。城壁が近づき、段々とその輪郭がはっきりしてきた。正門に守衛がいる。
少し手前で立ち止まった。

深呼吸し、息を整える。

夕日は紅く、西の空にだだ一点の光となり、小さく揺らめいていた。

メロスは胸に花束をかかげ、守衛に向かいゆっくりと歩いていった。

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