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間に合わなかったメロスのその後の話⑤

メロスの敗北 第5話(全6話)


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先生と二人になったとたん、私はこらえきれず涙を落としました。先生は格子から腕を伸ばし、彼の肩を叩いて慰めてくれました。

私は先生を引き留めたい気持ちをこらえました。未練がましい言葉が出てきそうになるのも胸の内に押し込めました。
ネストル様の話で私は先生の覚悟を知りましたから、共に過ごせるこの最期の時に、先生を困らせるようなことはしないと固く心に決めていました。

私は乱暴に目をこすって、泣くのを止めました。これから聞くのが先生の最期の言葉になる。それを私はメロス様に余さず伝えなければならない。私にしかできない。一言も聞き漏らすまいと気を引き締めました。
先生はすぐに話し始めました。この三日間で身に起こったこと。どんな思いでメロス様を待っていたか。
怒り、不信、希望。絶望。そして覚悟を決めるまでのこと。死を選んだ理由と、メロス様を助ける理由。
今までにお話した通りです。そうしてメロス様への遺言を伝え終えた後は、私への最期の言葉を残されました。
ずっと先生の話を聞いていたかったし、離れたくなかった。私はわがままを言ってしまいそうでした。

そこで、扉が開く音がしました。入って来たのは看守ではなく王でした。私は身を固くしました。
「別れの挨拶は済んだか」

王は冷たく私達を見下ろしながら連れてきた刑吏たちに「連れだせ」と命じました。
私はぎょっとして叫びました。
「お待ち下さい、約束の時間はまだ先ではありませんか」
「早めに刑場へ連れ出すことにした。暇乞いの続きは聴衆の前でするがいい。日没まで、友への信頼を熱っぽく訴えかけてみせろ。信頼が厚いほど、約束が果たされなかったときにどうなるか、民へのいい教訓になる」

私は王の残酷さに、わなわなと震えました。一緒に過ごす最期の時間すら引き裂かれたのです。

一方で先生は、少しもうろたえていませんでした。涼し気な顔のまま、背筋を伸ばし、しっかりとした足取りで刑場に歩いていきました。
刑場に連れ出された先生は、磔台の根本に縄でくくりつけられました。

王は「どうだ、自分の最期が現実味を帯びてきたのではないか」
「日没には、今より高いところにいさせてやるぞ。沈む夕日はさぞいい眺めであろうな」と言って挑発を繰り返しました。

先生は全く動じる様子もなく、「王はずいぶんと自分の予言を信じておられる。何かよほど確かな裏付けでもあるかのようだな」と皮肉を言って笑いました。
笑いながら「メロスは来る。私たちは負けない。メロスは、来る」ときっぱり宣言し、あとは何を言われても聞こえないという様子でそっぽを向いていました。

私は先生の側でどうしていいかわからず立ちすくんでいました。

先生は私の手を両手でしっかりと包み込み、王に向けたのとは違う優しい笑みをみせると、
「大丈夫だから、もう行け」と言いました。
それでもう、ここで私ができることはない、行かなければならないときが来たと悟りました。

私も先生のように笑おうとしましたが、どうしてもうまく笑えませんでした。声を震わせて別れの言葉を口にしたとたん、私はたまらなくなり背を向けました。泣き顔を見られないようにすることが精一杯だった。
私は振り返らず、ゆっくりその場を立ち去りました。

背中越しにかけられた「良い弟子だった」という言葉が最期になりました。

王城を出た私は家に戻り、準備しておいた食料や水、けが人の手当のための道具を抱えて、ネストル様に言われた場所へと急ぎました。
西陽が射すころ、私はあの峠でネストル様たちと落ち合い、メロス様が来るのを待ちました。

予想よりずいぶん遅くやってきたあなたはひどく消耗していたけれど、襲いかかられたときは驚くほど俊敏だった。
あなたの底力を侮っていた私たちは慌てて逃げたあなたを追った。
私も一緒に追いながら、メロス様が逃げ切ることをどこかで期待しました。でもあなたは峠を下った先で力尽きて倒れていた。

全員でそっと近づいて注意深く様子を見ました。あなたは長いこと倒れて眠ったままだった。
このまま日没まで倒れたままでいてくれれば、これ以上あなたを痛めつける必要もなくなる。

私達は少し離れた物陰からあなたの様子をずっと見ていました。

日没が近づいても、まだあなたは動かなかった。
そうして、いよいよ今からではもう間に合わぬだろうという頃合いで、ネストル様たちは王に報告するため、私を残し急ぎシラクスに戻っていきました。

私は物陰に身を潜めたまま日没を待っていました。あの時間がもっとも辛く悲しかった。

いよいよ、先生は助からない。今このときにも、処刑されようとしている。なのにメロス様はいつまでたっても起き上がらない。
私はがっかりしました。そしてたまらなく腹がたった。あなたを間に合わせてはいけない、これでいい、これが先生の望んだことのはずなのに、私は悔しくて仕方がなかった。メロス様のあのような姿を見ていたくはありませんでした。

今すぐに駆け寄って、メロス様を揺さぶり起こしたいと思いました。走れようが走れまいがどちらでもいい。これ以上あのような姿を見ていられない。でも、できなかった。私には何もできない。日没まで、ただここで待っているしかない。
何もできないことが苦しくて、物陰で私は声を殺して泣きました。

ひとしきり泣いた後で気づくと、あなたの姿がなかった。私は胸が高鳴った。泣きながらあなたを追いかけました。自分でもどうしていいかわからない気持ちに振り回されながら、あなたと同じくらい死にものぐるいで走った。

シラクスの直前でようやくあなたに追いついた。私はあなたを止めようとしました。シラクスに入れるわけにはいかない。先生の遺志が無駄になってしまう。
でも、あなたは止まらなかった。信じられているから走るのだ、間に合う、間に合わぬは問題ではないのだと言いきった。
メロス様、あの時の私の気持ちがわかりますか。

もうあなたを止められない。止めたくない。思い切り背中を押したいと思いました。
なるがままに、天にすべてをおまかせしようと決めました。

あなたは、走った。すべてをなげうって、命を燃やすように走った。

そうして、間に合わなかった。

「これで全部です。これが先生と私が見たものの全てです」

フィロストラトスが話し終えたときは既に真夜中だった。メロスは暗がりの中、フィロストラトスをずっと見ていた。

「さあ、話は終わりです。帰りましょう。私もくたびれました。帰って身体を休めましょう。家まで案内しますからついてきてください」

フィロストラトスが立ち上った。ややおいて、メロスもゆっくりと立ち上がった。
フィロストラトスが歩きだす。メロスは黙ってそれに従った。フィロストラトスの後ろを静かに歩いた。

家までの道中もメロスはずっと無言のままだった。自分の知らなかった真実に圧倒されて、なにも言葉が見つからなかった。

あまりにも多くのことがあった。
あまりにも大きなものに、メロスの心はのまれていた。

今は、張り詰めていたものの一切が消えていた。
足取りはふわふわとしていて、どこか現実感がない。

前を歩くフィロストラトスは闇に半分溶け込んでいる。ぼんやり眺めていると、どこか若き日のセリヌンティウスと似ている気がして、そう思って見るとセリヌンティウスの後を追いかけているような錯覚を覚えた。
声を発すればいとも簡単に解けてしまう錯覚である。
無言でいられることに救われる思いだった。

メロスは、歩きながら空を見上げた。故郷へ戻ったときと変わらぬ、初夏の満点の星空だった。
それを見ていると、闇に包まれたシラクスの街とは違い、空に眠らぬ巨大な街があるかのように見えた。

賑やかに瞬く星々を見ていると、あの場所はこの地上とはまったく別の楽園で、星々は膨大な数の小さな窓から漏れ出る明かりで、その向こうでは目もくらむような盛大な宴をやっているのではないか。

メロスはずっと、友の幻影と星を眺めながら歩いた。

気づくと、見覚えのある家が目の前にあった。セリヌンティウスの家だ。
メロスは懐かしさとともに中に入った。二人、瓶から汲んだ水を飲む。大きく長い溜息がでた。

破れかかった服を脱ぎ、水を浴びた。乾いた布で体を拭くと、
冷えた身にじんわりと体温が戻ってきて、全身がほぐれていくのを感じた。

家の中のそこかしこに、友の暮らしていた気配が残っている。生活を営んでいたにおいが残っている。

フィロストラトスが食事を用意した。最近では食事の支度も自分の役目になりつつあったと打ち明けた。

丸一日ぶりの食事を一口ずつ、噛むようにしてゆっくり味わった。五臓が満たされていくのを感じた。

渇きを癒し、身を清め、腹を満たす。自分の体が生きている。馬鹿みたいに生きている。

メロスはぽつり、ぽつりと話しだした。これは昔からセリヌンティウスの好物だったとか、普段から自分よりずっと良いものを食べているとか、他愛もないことを口にした。

フィロストラトスもまた、他愛のない話でそれに相槌をうった。先生は味のこだわりが強くて難儀したとか、食べ方の作法にうるさかったとか。

少しづつ、二人の口数が増えてきた。

メロスは、故郷で共に過ごした友を思い出して語った。

フィロストラトスは、シラクスで共に過ごした師を思い出して語った。

思い出が一つ、また一つとこぼれだした。

二人の顔に、血色が戻ってきた。

そうして、皿の上の食事をすべて平らげる頃には、話が止まらなくなった。

亡き人は無言で、二人の間を繋ぎ続けた。

大きな笑いも、大きな涙もなかった。

ただ時間を忘れて、滔々と語りあった。

やがて夜が白み始める頃、二人は眠りに落ちた。

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