ダシにされてるだけなのかも。
都心のとある飲み屋街に小料理屋のような雰囲気の小さなラーメン屋があって、そこで出されるあっさり系煮干しベースのラーメンがとても美味だった。
出汁を取るために大量の煮干しを使っていて、そのスープは臭みもなく馥郁とした香りでなんとも言えないコク深さがあり、何度でも食べたくなる味だ。
そのにぼしスープを無心で見つめながら啜ってたら、美味しさのあまり心がゾーンに入ったのかスープに焦点が合わなくなった。
この美味しさってどこから来るんだろ。
にぼしになった魚たちから取れる “ 出汁 ” つまり旨み成分なのか。
そもそも旨みって何だ?
旨味は味覚の1つらしいが、美味しいというのは主観的なものじゃないか。
にぼしスープが嫌いな人もいるだろうが、私は煮干しにされる魚の中に凝縮される成分を “ 美味しい ”と感じる。
彼ら小魚はこの私に “美味しい ”と認識されているわけだ。
その旨味成分があの小さな身体に凝縮されるために必要なものは何か?
つまるところそれは命そのものだ。
彼ら一匹一匹が膨大な数の命から成っている。
彼らよりもっと小さな、プランクトンのような夥しい極小の命たち。
その命を彼らが自分の体に取り込んで、それを私達は食べている。
もちろん私達に食べられなかった個体もいるが、私達の食事にならなかったところでいずれ他の魚の餌になるのだろう。
人間以外のほとんどの生き物にとって、老衰で寿命を全うすることはほぼない。彼らはある日突如食べられてその命を終える。遺体が残ることもない。
彼らは命奪われるその時その瞬間まで、全力でも適当でもなく、ただ自然のままに、過不足なく命を使い切る。
その使い切るまでの過程で彼らが曝される環境、それはきっと冬の凍てつく海水であったり、身体を押し流す激しい潮の流れだったり、夜昼関係なくつきまとう捕食される危険だったりと過酷なものだ。
そんな食うか食われるかの否応もない生存競争を強いられる中で、食べられる番が来るまでは食べ続けて、そうして育まれた体に宿るもの、それはいわば巡り続ける命であり、私達が美味しいと感じるものの本質は巡り巡って凝縮された命なのだ。
うん、貴重だね。尊いね。感謝して味わおう。
…本当に?
この透き通ったスープの中に彼らの姿は一匹も見えない。彼らの味はするのに、姿はどこにもない。
濾されているからだ。食感を損なうから。頭や内臓も取り除かれているはずだ。苦みやえぐ味になるから。
私達が欲しいのはありのままの彼らの実体ではない。抽出された旨味だけが欲しいのである。そこに頭や内臓は要らない。よって捨てられる。獲った彼らの数だけの頭と内臓がどこかに捨てられている。
私は良いところだけ、美味しいところだけを存分に味わえるのだ。人間である私にはそういうことができるのだ。
私は思う。私達は神ではないかと。
自分たちから見て現実的に知覚できない上位の存在が神なら、私達は彼ら魚にとっての神ではないか。
私達は彼らの命を味わいたい。それには大量の彼らの命が必要になる。
生きるためというよりは、娯楽として楽しむために。
彼らの体、頭や骨や内臓は要らない。ただ旨味だけが欲しい。苦味や雑味は要らないのだ。
一杯のラーメンのスープを楽しむために、彼らの命の上澄みである旨味だけを取り出したい。
彼らの命の上澄みは美味しい。
彼らの命のエッセンスを啜るのが楽しい。
といっても寒い日の空腹のとき噛みしめるように味わうこともあれば、お酒のあと塩分が欲しくなり半ば記憶にも残らない状態でぞんざいに胃に流し込むこともある。
なんなら私達の半数はラーメンのスープを残している。塩分が身体に悪いという矛盾した理由で。
彼らは知らない。捕らわれた自分たちの命の行く末がどうなっているのか。幾千幾万の仲間の命を私達が何の目的でかき集めているのか、知る由もない。
私達は彼らの命を楽しんでいる。文字通り彼らをダシにして楽しんでいる。
今日び私達は、誰かに捕食されることはほぼない。
私達はたいてい殺されないし、老いるまで生きて、誰かに看取られて死に、丁重に弔われる。
だけど時々、巨大な災いの見えざる天網にすくわれて、あっけなく命を散らす。
私達の肉体は朽ちるが、もし肉体の中に目に見えない命のエッセンスが含まれていたら、そのエッセンスはどこにいくのだろうか。
どうなるのだろうか。
天国にいく?地獄にいく?それとも生まれ変わる?
神様がそれをジャッジしているのか?
もし、そんなふうに私達を自由に処せる存在がいるのなら、私達の命のそれは、単なるダシにされるだけってこともあり得るとは思わない?
私達の命からもしも出汁がとれるのなら、それが誰かにとって美味しいものなら、その旨味だけを抽出して、その他のものは邪魔だから要らないのかもしれない。手っ取り早く殻から中身だけ取り出したいのかもしれない。
誰かにとって、私達の命のエッセンスが美味しいスープのダシになるのなら。
たとえその誰かにとって生きていくのに不可欠なものじゃなくても、楽しい娯楽になり得るのなら。
その楽しくて美味しい上澄みの一杯のために、そのために何千何万の私達の命がまるごと必要だというのなら。
私達の命を欲しがる存在がいないって、どうして言い切れる?
だって、私達がこの世界でやっているのはそういうことでしょう?
そんな世界に、私達も生きているんでしょう?
私は、丼に残ったスープを一滴残らず飲み干した。
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