研究者であり、アーティストである。いつも目指すのはその時代の最先端。
アート&テクノロジー領域の研究者として、京都大学で教授をしながら第一線で活躍し続けているNaoko Tosaさん。自然や日本美をテクノロジーと組み合わせた作品を展開しています。今回は、なぜ、アートとテクノロジーの二軸でやっていこうと思ったのか、また作品が生まれる過程についてもお伺いしました。
人間の感情の揺れ幅が面白いと思っていた
どんな幼少期を過ごされたのですか?
絵を描くのが好きな母と、工作機械の営業をしている父の元で育ちました。小さい頃から読書が好きで、人類進化論を図鑑で読んでいるような子供でしたよ。おもちゃで遊んだ記憶があまりないですね。おもちゃってすぐに飽きてしまうんだけど、本だと色々考えるから飽きない。学校の図書室、本屋、古本屋にもよく行きました。学校で頭ごなしに色々言われた時は反論したりする子供でした。
どんな本がお好きだったのですか?
小さい頃はシュルレアリスムにかなり影響を受けていて、フィクションの小説、特に奇妙な話やSF・オカルトが好きでした。なんでこうなるの?て思うことが世の中に沢山あったので。例えば変な漫画を読んだら、なんでこの登場人物はこんな行動するんだろうって興味を持って、そこから実際の人間に興味を持つんですよね。人間って合理的かと思えば、急に不条理なことしたり、感情的になったりするじゃないですか。そこのギャップがすごい面白いなって思ったんです。
自分にも人間的におかしな部分はもちろんあって、それを思いっきり出しても許されるのが芸術だと思ってます。人に喜ばれたい気持ちも、もちろんわかるけど、その反対にあるものこそが実は人間の真理なんじゃないのかなと。なので、全員に共感は得られなくても、なにか自分にしか出来ないことをしようと思いました。でも、当時の見本が草間弥生さんぐらいしかいなくて。やっぱり草間さんまでにはなれないなと思って。でも、正論と正論じゃないところの間をずっと生きて、ここまで来たんだと思いますね。
思春期は何をして過ごしていたんですか?
思春期の時にすごく影響を受けたのは、ヘルマン・ヘッセですね。教科書に載っている『車輪の下』とかじゃなくて、『知と愛』とか『春の嵐』とか、心の中を書いた世界が好きでした。あと絵を描いたりもしてました。美術の先生とも相性が良かった。大体、美術が嫌いなのは、美術の先生と相性が悪いのが理由なんですよ(笑)考えるのがとにかく好きで、小さい頃からよくボーッとしてましたね。そのせいで何度か交通事故にあいました。違う世界に一人だけ行っている時が多かったんです(笑)
産業と結び付いたアートイノベーションをしたい
大学は工学部に入学されたのですね?
工学ではなくて、美術のための工学ですね。現代のアートは、その時代の先端技術を使うべきであるという自分の考えがあって。なぜかというと、奈良の大仏とか、西洋のピラミッドとか、そうやって時代の中で残ってきているものっていうのは、当時の最先端技術を使っているからと気付いたんです。アートをやる意味っていうのは、なんらかの形で社会に貢献したいからなんです。それを考えた時に、自分が成し遂げられることは何だろうと考えました。演劇をやったり、彫刻や油絵もやったりして、でも何か違うなと思って、結果、アートとテクノロジーに辿り着きました。アートとテクノロジーを合体させることに、なんか自信があったんですよね。
当時からアーティストとして生きていこうと?
そうですね。でも、みんなに反対されました。色々やってみたんですけど、私、お金儲けが上手くなくて。お金のことを考えるのあまり得意じゃないんです。お金に困らず自分の好きなことを追求していく職業ってなんだろうって考えたら、今の職業だったんです。今は、そこから、アイデアを研究のレベルにまで持っていって、これが実現したら社会が良くなるぞってとこまで提案する。テクノロジーは大学でも需要ありますし、さらには、大学で終わるのではなくて、産業に持っていきたいんです。そうしないと、象牙の塔の中に入ってしまって、ただの学者として終わってしまう。絶対に産業と結びついて、世の中に色々広がっていくアートイノベーションという形でやりたいんです。
研究を進める中で、周りからそれは「アートではなく科学技術である」と指摘されたお話をお伺いしました。科学とアートの境目、どのように考えていらっしゃいますか?
これは難しい問題です。論文だけで終わるか、物を使うのか。当時はまだ私自身、アートとしては未熟だったんだと思いますよ。1995年ぐらいに『Neuro Baby』という作品を作ったんです。今は人工知能がリブランディングで流行っているけれど、当時はその全盛期で、わたしは人工知能が感情を認識するものを作ったんです。今でこそ、Siriがありますけど、当時は言葉じゃなくて、音声についている感情を認識させたんです。その音声に合わせてCGの赤ちゃんが泣いたり笑ったりする作品です。当時はとても斬新なもとだと認識されました。わたしは、コンピューターを人間にできると思いました(笑)会話するまでいかなくても、泣いたり笑ったり怒ったり、ノンバーバル出来るようにしようと思いました。でも、やればやるほど、感情の認識率を上げなくちゃならない。認識率を上げるってなると、もう、工学なんですよ。コミュニケーションから得られる感動こそがアートなのに、このままではどんどん離れていってしまうなと感じました。
Neuro Baby Internet Mail by Naoko Tosa
でも、とにかく作品が斬新だったのと、わたしがまだ若かったので、マスコミも飛びついてきて、結構な話題になりました。子供も産まずにひたすら勉強や研究ばかりしていた背景も注目された。しかも当時はリアルネットワークが話題になっていて周りも当然これがもっと成長すると期待したんですよね。でもそんなに劇的に成長はしない。期待に答えようと頑張れば頑張るほど、技術にいくんですよね。
自分がどの道に進むべきか非常に悩みました。当時非常に面白いシーズは得たと思います。だけど一生涯ぐらい費やさないと、自分の納得のいく仕事が出来ないぞと。このままだとこれだけで人生が終わってしまうと気付き、もう一度自分が何者になりたいかを考えました。結果周りは引き止めましたが、当時の研究は辞めることにしました。
その後のATRの研究職、そしてMITヘ行かれたのですね。
MITにずっと行きたくて、チャンスをずっと伺っていました。当時はコネクションもお金もなかったので。でも『Neuro Baby』がすごくヒットしたおかげでATRの研究医の仕事に就くことが出来ました。その期間は夜の12時頃まで論文を読んだりずっと仕事をしていたので、とても勉強になった期間ですね。海外とのコネクションはその時に作りましたね。その時はなるべくアートに基軸を置くことを考えていました。
人間って喜ばれたり、ニーズがあるって言われると、どうしてもそっちに動いちゃうんですよね。それに気を付けながら、本当にこれでいいのかって一年に一度は自問自答して修正してました。なかなかニーズと、自分がやりたいことがマッチしないんです。いつの時代もそうだと思うんですけど。そこを上手く整理するのに時間がかかりました。気を使いつつ、挑戦も忘れず。求められていることをガーっとやって、そこで信用を得て、それから自分のことをやるパターンが多かったですね。
デジタルの中には人間の思考とデータだけ。自然や宇宙へ。
アートを追求する中で、改めてアナログに注目したわけは?
実はアナログこそが一番最先端なんです。デジタルだけでやるのはリミットがあると気付きました。本当に新しいものっていうのはデジタルの外にある。『サウンド・オブ・生け花』もアナログから作って、最終的にデジタルに持ってきてるんですよ。デジタルの中には本当は何もないんです。人間の思考とデータしかない。自然ってもっと凄いじゃないですか。人間を圧倒するようなものがある。そこからインプットするべきだと思ったんです。
Naoko Tosa's 4K New Sound of IKEBANA -Spring-
我々なんて地球の表面に張り付いているちっぽけな存在なんです。そんなちっぽけな存在が考えた小さなコンピューターで仕事するなんて、三蔵法師の手の中で仕事するようなものじゃないですか。その中で勝負しても意味はないんですよね。プログラマーやエンジニアは職業的にいいと思いますよ。でも、本当に凄いことっていうのは、やはり、もっと、もっと、自分の外にあるんです。自然とか宇宙とかそういうところにある。
MITにいた時、MIT博物館がある建物の3階に入っているセンター・フォー・アドバンスド・スタディーズという研究所で働いてたんです。その下の階にMITミュージアムがあり、ミルククラウンとか、ホログラフィーなどが常設展として沢山並んでいたんです。それらを日常的に見ていたのでかなり影響を受けました。
最初にハイスピードカメラでやろうと思ったのは、そのミルククラウンだったんです。でも、心が折れそうになるくらい、ゴミのような映像しか撮れなくて本当に大変でした。アメリカと日本とフランスを行き来しながら、疲労も重なり、もう少し自然に出来ること、説明しなくても出来ることはないかな、と考えたんです。その試行錯誤の末、今の代表作品となった『サウンド・オブ・生け花』が誕生しました。その瞬間は一回きりで、二度と同じものは出ない、禅のメッセージがあります。それを証明してくれるかのように、建仁寺や妙心寺のお坊さんが、作品を見て、禅的だって言ってくれたのは嬉しかったですね。時代によって人の心は変わりますが、変わらないものや普遍的なものっていうのはあって、それをずっと追求しています。
Sound of Ikebana, Autumn 2
今後の展開についてお聞かせください。
まずは自分のオリジナルを追求していくのが一番重要だと思います。あとはユニークなものも重要かもしれないですね。デジタルは本当に最後の最後でいいと思います。レオナルド・ダ・ヴィンチの時代、人間は自然界から美を学んでいた。なぜこんな形をしているんだろうとか、なぜ水はこう流れるんだろうとか、色々スケッチしたり。その原理や法則を見つけたのが、科学者や数学者なんですよ。彼らもその原理や法則を見つけて美しいと思った。だから、美っていうのは、人間が生きていくために一見無用に見えるけど、やはりいるんです。我々の進化だって美の一つだと思うんですよね。そしてその民族が美しいと思ったものが今の時代まで生き残っている。
今の時代っていうのは美の集積をデジタル化したものなんです。ビックデータから様々な分析をしている。CGもそうなんですよ。私も若い時はそこから入ったんですけど、だんだんやればやるほど、元の自然から学ぶことにどれだけの価値があるかっていうことに気付きました。そこに一番価値があるんです。デジタルのものを再デジタルにするのは自分じゃなくても出来るんです。だからこそ自然の中から、1から取ってこないといけない。やっぱり自然からデジタルに持ってくることがアートの最先端なんだと思います。
研究者であることとアーティストであること。その両軸が必須なんですね。
そうですね。例えば、データサイエンスはアナログから抽出して分析して新しい原理原則が出てくるものです。本当に面白いなと思ったのが、日本文化の生花ってどこの流派でも生花はアシンメトリーの三角形を描くんです。ガラスの生花とか光の生花など様々な作品を作っていますが、最初は生花の流派の家元からクレームでも来るのかなと思っていたんです。ところがクレームがないどころか、facebookでどこぞの家元から友達申請が来たりするんです。あらためて日本の伝統文化の懐の深さを感じました。守るだけではなく、新しいものをどんどん取り入れていこうという姿勢が見えた。そういうのを見ていると、先端技術を持ってその時代の美を作るのはやっぱり間違ったことじゃないなって思います。
今は京大にいますけど、それによって、様々な違う分野から色んなものが生まれる可能性もあるんですよね。それが面白い。だからこういう場でこういう形で色々やっている。そこから生み出されたものが、世の中や社会の役に立てばもっと良いことだなと思っています。
Naoko Tosa
国際的に有名なアーティスト兼アート&テクノロジー領域の研究者であり、京都大学大学院総合生存学館アート・イノベーション産学共同講座の教授。マサチューセッツ工科大学の先端視覚研究センター (CAVS、現在は芸術、文化、技術の MIT プログラムとして知られている ) のアーティスト・フェローを経て現職。土佐の作品の特徴は、自然に隠された日本美をテクノロジーを用いて取り出し作品に結集させることにある。現在は、企業との共同によるアート・イノベーション(アートをベースとした社会の革新)プロジェクトを推進している。
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