シリーズ日英対訳『エッシャー通りの赤いポスト』コラム 愛と性にどう向き合うか②
世界の性愛事情はどうなっているか
性表現規制が依然として厳しいまま、性についての理解が周回遅れしている日本の状況を見てきた。では、世界の性愛事情はどうなっているのだろうか。
子供が訪問してはいけないことであるが、複数の国にはヌーディストビーチが実在する。
ヌーディストビーチとは裸で楽しめるビーチのことだ。アメリカ、カナダ、ドイツなど世界各地に存在する。それらの多くは公有地内にあり、各々の場所によってセクシャルハラスメントや自慰・性交などの性的行為を避けることを求めて使用上のルールを設定している。それでも法の下に従えば、一般の人でも自由に利用することができる。
アメリカの場合、1800年代に性表現規制を求める声が宗教団体や婦人団体などによって高まっていた。しかし、1960年代に入ると「表現の自由」を重視するようになり、徐々に性表現規制を見直す動きが進んでいった。やがでヌーディストビーチが点在するようになり、一種の性愛文化として浸透していったのであろう。フロリダ州マイアミ・デイド郡にあるホーローバー公園内に郡が公式に指定した服装自由の区画がある。これは全裸になることを「許可」されているが、必ずしも「義務」というわけではない。全裸の人と服を着た人が混在しているのだ。
フランスの場合、キャプ・ダクドは世界で最も自由なビーチとして知られている。このビーチでは裸で自転車に乗ったり、街を歩き回ったりしても全く問題ないという。ただし、ビーチに入る時は検問所で服を脱ぎ、預けなければならないほどのハードなルールがある。そして、会員制のヌーディスト・リゾート地であることから、1日2000円程度の入場料を支払うことで利用できる。旅エッセイストのたかのてるこ氏が『純情ヨーロッパ 呑んで、祈って、脱いでみて 西欧&北欧編』(幻冬舎文庫)でキャプ・ダクドの体験談を綴っている。詳しくは読んでいただきたい。
ドイツの場合、サウナ文化が根付いている。しかも男女ともに全裸でサウナを楽しんでいるのだ。日本で唯一のサウナ大使として世界のサウナ文化を知悉する漫画家のタナカカツキ氏は世界各国のサウナの聖地を旅した体験を『マンガ サ旅 マンガで読むサウナ旅』(マガジンハウス)で描いている。『サ旅』の2巻で舞台にしたのはドイツである。
ドイツには古くから温泉地が盛んであるがゆえに、サウナの施設も整備されている。タナカ氏が訪れたホテルサウナには男女ともにオールヌードで入ることができる場所があれば、サウナを利用するにあたっての独特なルールを取り入れる所もある。日本をはじめとするアジア系の人たちには全裸文化に抵抗を感じる人がいるだろう。いくつかの施設では女性専用スペースを設けているところがある。
だが、タナカ氏は全裸文化が永遠に続く保証はないとみている。時代の流れによって男女全裸を禁じる運動が起きても決して不思議ではない。次なる感染症の流行や国際政治情勢の変化により、光熱費の高騰で閉める施設も出てきたからだ。その実情を目の当たりにしたタナカ氏は性愛文化のありようが時の社会情勢によって衰退していくと考えている。
このように、ヌーディストビーチや全裸でのサウナ文化を楽しめる環境があるのは平和と安定の時代に過ごしているからである。だが、現代の世界情勢を見ていると、大規模な戦争が起こりうるような状況になるのか否かの岐路に立っている。一触即発の事態に陥れば性愛を楽しめる場合ではなくなる。感染症についても次なる流行の兆しはどこの国でも表れる可能性は無きにしも非ずだ。性愛文化はすぐさま廃れるべきと考えるか、無くなってはいけないことかは各々の考え方次第である。
文化としての性 -文化人類学の視点から-
そもそもセックスを行う理由は子孫繫栄や健全な愛を育むための行為である。しかし、望まない妊娠があることからセックスを拒否する人は少なからずいる。これはもちろん個々の自由であってよい。だが、中には虚しさを感じることがあるだろう。真に愛する人との絆を持ちたい。子どもをつくって幸せな人生を共に歩んでいきたい。そういった人間の欲が無くなってしまっては楽しく生きていくことができない。心の中では寂しさがあるのだ。
では、人間以外の世界ではどんな性活動をしているのだろうか。
言うまでもなく、セックスは我々ヒトだけが行うものではない。他の哺乳類もセックスを行っている。文化人類学者の奥野克巳氏は著書の中で興味深い研究事例を紹介している。一つはボノボの性交である。
ボノボの生態を観ると、乱交を繰り返すことで父親が誰であるかがわからない状態で、争い事が起こらず子どもが殺されるのを避けようとする。その行為が結果として安定した社会を築いているのだ。
文化人類学の研究では「性肯定社会」と「性否定社会」の二つの社会に区別されている。前者は性活動を行うことに高い価値を見出す社会、後者は性交が心身の衰弱と見なされ、創造的な活力や経済活動を阻害すると考えられる社会である。つまり性に寛容な社会と不寛容な社会にそれぞれ分かれているのだ。
別の事例を上げよう。人類学者の須藤健一氏はミクロネシア連邦を訪れ、フィールドワークを実施した調査研究の例を紹介している。ミクロネシアの若者の性行動が興味深い。これは「性肯定社会」であり、性の楽園と呼ばれている。
このように、ミクロネシアの若者の性活動には独特な性愛文化が根づいている。いわば「文化としての性」はヒト以外の世界で至る所に存在するのである。
性感染症に気をつけよう
人間は子孫を残して次世代につなげたいという思いがある。だから意中の相手を見つけてアピールし、健全な愛を育み、幸せのあり方を追求している。しかし、注意すべきことは性感染症の問題であろう。
国立感染症研究所のデータによれば、近年梅毒の感染者数は急増している。
梅毒の感染者数が年々増えている背景は、SNSの普及によって性行動の変化が表れているという。特にマッチングアプリといった出会い系アプリの浸透によって男女が知り合い、性交渉を持つようになったことだそうだ。
性感染症を予防するためには性感染症の知識を会得しなくてはならない。感染症医の岩田健太郎氏は性感染症との向き合い方を知っておくことが重要だと説く。
とはいえ、梅毒や性器クラミジアといった厄介な性感染症にかかりたくない人は誰でも思うことだろう。その場合、「セックスをしない」という選択もある。これは医学的に正しいと岩田氏は言う。
しかし、岩田氏はセックスをしないという選択には疑問を投げかけている。
アブスチネンスのおかげで性感染症からリスクを回避できることはわかる。だが、それでは子どもをつくることや将来の遺伝子を残して受け継ぐことすらできなくなる。
例えば、MLBで活躍する大谷翔平選手の野球センスと努力を見た女性は「この人と結婚したい!」という感情を持つとしよう。驚異的な才能を持っている人を見れば、女性は大谷選手の類まれなる才能を備えた遺伝子を将来の子どもに受け継がせたいと考えるはずだ。そのためには大谷選手との性交渉をしなくてはならない。その代わりに、性感染症に罹患するリスクがあることを覚悟しなくてはならない。もっとも、大谷翔平選手は意中の人を選ぶ権利を持っているが。
あるいはインフルエンザにかかるリスクについて考えてみよう。インフルエンザの最善の予防方法は「外に出て人に会わないこと」。つまり、家に引きこもることだ。岩田氏はこのテーマについても疑問符を打つ。
子孫を残したくて愛する人との性活動を選択する者はセックスをすればよい。妊娠を望まずに愛する人と楽しく生きたいと考える者はセックスをしなくてもよい。世の中には多様なものの考え方があるのだ。
この話は研究者だけでなく一般の人々でも、性行為についてのリスクとどう付き合うかを真剣に考えるべきであろう。
HPVワクチンについて
性感染症を予防する唯一の手段はHPVワクチン(ヒトパピローマウイルスワクチン)である。これは「子宮頸がんワクチン」と称され、日本でもようやく普及している。岩田氏はワクチンの効用についてこのように解説する。
HPVワクチンの効果は絶大である。しかし、中には接種を受けた人が運動障害や認知障害などの神経学的症状を起こす事例となったため、ワクチン薬害訴訟が行われ、裁判に至ったケースがある。このようなケースから日本人の中にHPVワクチンに対する疑念が生まれ、接種を断念する人がいるのも事実だ。厚生労働省や感染症の研究者の間ではさらなる医学的エビデンスに基づいた安全性を示す必要がある。ワクチンを接種できる環境が整ったとしても、薬害による不安が払拭できなければ利点がないからだ。
愛と性にどう向き合うか
本コラムの締めくくりとして、愛と性について深く考えるための本を挙げよう。赤坂真理氏の『愛と性と存在のはなし』である。赤坂氏は本書の中で愛もセックスもそんなに簡単なことではないと言う。
「セックスはそんな簡単なことじゃない。愛を育むことも。」という赤坂氏の言葉は確かにその通りかもしれない。
人間が魅力的な存在となる者に出会えた時のシーンを想像したとしよう。
男性の場合、魅力的な女性に出会った時、すぐさま「俺とセックスしてよ。」と言える人は果たしてどれだけいるだろうか。凄腕の豊富な恋愛経験者なのか。女のカラダを目当てとする下心丸見えの者なのか。いずれの男性に捕まえられた女性は嫌な気持ちになるだろう。女性の場合は慎重に選ぶことになるかもしれない。どういう男に魅力を感じるのだろうか。頑健で筋肉質の者なのか。スマートでエリート街道を走る者なのか。そのような男性に出会った時、女性はすぐさま愛の時間を堪能したいと心の底から想うのか。そう受け止めた男性は言葉に詰まるだろう。
愛と性について考えることは容易ではない。小手先のセックス技術を身につけても意味をなさない。
健全な愛を育み、幸福で豊かな人生を送るためにも性について理解を深める姿勢がより一層求められることになる。
ご助言や文章校正をしていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。