私が見た保守系の本
あれは私が大学生の頃である。大学に通い始めて間もない頃、恩師の研究室を見て衝撃を受けた経験から書店巡りや読書を本格的に始めた。英語についての学術的知見を得ようと、英語関連の本を見て回り、気に入った本を買い漁るようになった。当時はお金が無かったため、アルバイトで稼いだ給与から少ない金額の範囲で買うようにしていた。
書店を巡る中で目についたのは英語学者の故・渡部昇一氏の本である。英文法に関する著書が多い生粋の研究者であった。私の恩師も渡部氏の英語本をよく読んでいた。英語教育界では「彼の名を知らない人はいない。」と言われるくらいだった。
渡部氏は英語に関する書籍だけではなかった。日本史・世界史・人間学・教育論など幅広い分野で評論活動を行っていた。膨大な読書経験に基づいた深い学識と教養の幅の広さは学界のみならず、出版界でも高く評価された。「知の巨人」として名を刻んだのだ。
大学卒業後、大学院に進学したが就職先が見つからず、実家で引きこもっていた頃である。求人を募集している会社に応募書類を郵便ポストに投函するため、外へ出る機会があった。帰りに近所の書店にふらっと立ち寄った。そこで渡部氏が英語本のほかに日本史の本を書いていたことを知った。当時は何の疑いもせず手に取り、パラパラとめくって内容を読み通すだけだった。それほど深く読み込むようなことはしなかった。
ネット検索でたまたま渡部氏の記事を読んでいた時、彼が「保守系言論人」であることを知った。
渡部氏は、「日本の歴史教育は自虐史観まみれである。」と喝破し、「再び日本を取り戻すためには正しい歴史を教えなければならない。」と主張していた。
日本の保守界隈で通奏低音となっている歴史観はこうだ。
・大東亜戦争(保守陣営が呼称する)は侵略国からアジアの国々を解放するための自衛の戦争を行った
・南京大虐殺は日本の歴史になかった
・朝鮮人虐殺はなかった
・従軍慰安婦において強制連行はなかった
・ルーズベルトは日本を戦争に引きずり込んだ
・GHQが日本人洗脳計画を企てた。だから、呪縛を解き、真の独立国とし
て振る舞うべきだ
・靖国神社に祀られている大東亜戦争の英霊たちは日本国を守るために戦った英雄であり、神社に眠る殉死者への供養を行うのは当然だ
・特攻隊員は日本国の防衛のために命を捨ててでも守った誇るべき存在であり、感謝の念を持たねばならない
これらの内容はどの保守系文化人・言論人も似たようなものだった。渡部氏もその一人である。私がネット記事で渡部氏の主張を読んだとき、「この方は自国優越主義史観の持ち主だな。」と考えた。
2014年、集団的自衛権をめぐる安全保障関連法案についての論議が行われていた。その時は故・安倍晋三氏が内閣総理大臣を務めていた。安倍氏は中国や北朝鮮の軍事的緊張が徐々に高まり、東アジアの安全保障環境が厳しくなっていると主張し、戦争に発展させないためには日米同盟の強化とともに集団的自衛権の行使容認をしなければならないという。そのためには「現行憲法では不測の事態に備えられない」とし、「日本国憲法第9条を改正すべき。」だと国民に訴えた。安倍氏と親和性がある渡部氏は「アングロサクソン国家と対立しなければ安泰でいられる。」という文明史的視点で論じ、「集団的自衛権の行使を可能にする法整備を実行すべきだ。」と主張した。ただ、いつまでもアメリカに頼るわけにはいかない。「自分の国は自分たちで守る」ことを念頭に置き、「中国や北朝鮮の脅威から国土を守るために、最終的には米国から独立し、核武装を前提とした軍事戦略を打ち立てよ。今こそ日本人は目を覚ますべきだ。」と檄を飛ばしたのである。
この主張に対し、リベラル派の言論人・文化人は反発した。「集団的自衛権を容認すれば、近未来において米国が関わる戦争に自衛隊が参加することになる。日本国憲法の9条に反する行為だ。」と批判する。一方の保守派は「憲法9条が平和を守ったのではない。軍事行動に参加できないための制約でしかない。現実的に国際政治は厳しくなっている。中国や北朝鮮がやりたい放題である以上、日本人も毅然とした態度で戦う覚悟を持つべきだ。」と反論したのだ。
このやり取りを見たとき、「日本の『保守派』と呼ばれる文化人や言論人は過去の歴史を捻じ曲げて、都合のいい定説に塗り替え、他国への敵愾心をむき出しにしているのではないか。」と気づいた。それで私は渡部氏の歴史本を読むことを止めた。
当時、手に取った歴史本のタイトルを挙げるとすれば、『名著で読む日本史』、『名著で読む世界史』(育鵬社)である。他に大型書店で見かけたのは『「日本の歴史⑥昭和篇 自衛の戦争だった「昭和の対戦」』、『「日本の歴史⑦戦後篇 「戦後」混迷の時代から』(共にWAC)といった日本の歴史評論シリーズを刊行していたのだ。
これらの歴史本は自己優越感に浸るような聞こえのいい内容である。だが、太平洋戦争を経験した元軍兵の体験談や戦争の犠牲者となった親族からの悲惨な話が揉み消されているようにしか思えなかった。歴史学界では、昭和史に関する綿密な史料調査によって年々新しい発見がある。また、戦争体験者へのインタビューを地道に行ってきた在野の作家の功績も歴史研究の更新に貢献しているのである。ご都合主義の歴史観は人や国を間違った方向へ進んでしまう。
おそらく渡部氏は太平洋戦争で敗れた時、悔しい想いをしたのだろう。日本人に「敗戦恐怖症」という病が内在し、アメリカや中国から舐められるようになったことに怒りの感情が湧いてきた。無抵抗のまま大国に飲み込まれることを嫌ったのだ。
また、渡部氏は中国や韓国に対する憎悪を煽る本を次々と出版していた。
だから、再度一等国として振る舞うことが国家の誇りであると考えた。そのためには日本人に内在する「自虐史観」を排し、「日本人の誇りを取り戻す」ための歴史観に変えるという使命に燃えたのではないか。そんな気がしてならなかった。
2020年代に入った今、2017年に逝去された後も昭和史に関する著作の復刻版が次々と刊行された。一部のファンにとって未だに根強い人気を誇っていると考えられる。
他にも興味深い話がある。
私は大学生の頃、授業が終わって実家に帰宅する途中で小学校の向かい側に漢方薬局があった。その一室で、ある光景を目にした。漢方薬局の室内に小さな本棚が設えていた。本棚にはタンパク質に関する本や医療系の本が並んでいたが、その中に保守系の本がずらりと並んでいたのだ。
その頃に見た本のタイトル名を今も覚えている。まず、渡部氏と弁護士の南出喜久治氏の『日本国憲法無効宣言』(ビジネス社)だ。
現行憲法はGHQによって制定された「押しつけ憲法」であると唱え、戦前昭和期の「大日本帝国憲法」を復活させるべきだという結論に至る。現職の東京都知事の小池百合子氏の元政務担当特別秘書で、東京都の外郭団体である東京水道株式会社の社長を務める野田数氏は南出氏の思想に影響を受けたに違いない。かつての帝国憲法を現代に蘇らせるべきだとの持論を展開し、ネットで物議を醸したのである。
次は、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズの『竹林はるか遠く』(ハート出版)である。
この本はヨーコ氏が第二次世界大戦後の朝鮮半島と日本で引き揚げ者として過ごした頃の戦争体験をもとにした自伝的感動物語を描いている。アメリカで刊行され、日本でも翻訳版が刊行した。2005年に韓国でも刊行し、売れ行きは好調だった。だが、2007年に英語の原作がアメリカの教科書に使用されることで韓国系の父兄から反発が起こった。この論争に韓国メディアが乗り出し、「ヨーコ自伝物語」は捏造であると批判が巻き起こった。
米国ではこの本の教材使用禁止運動を行っていた。理由についてはこのような解説がなされている。
他方、この作品を評価する韓国系生徒とその家族や教師もいた。このような教育的論争が起こるほどの問題作だったのにも関わらず、漢方薬局を経営していた高齢の事業主はこの本の内容を丸吞みにしていたのだろうか。
次は、漫画家の山野車輪氏の『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)である。
事業主は他にも当時の嫌中・嫌韓ブームに乗っ取った形で、漫画本を天井近くの書棚に置いていた。この漫画は韓国に対する差別感情を全面的に押し出したとして、出版社から拒否されたほどのタブー本だった。
最後に、憲政史家の倉山満氏の『噓だらけの日中近現代史』、『噓だらけの日韓近現代史』(共に扶桑社新書)である。
事業主は倉山氏の本を読んでいた。これも嫌中・嫌韓ブームの波に乗り、「売れているんだな。」と思って書店で見つけたのだろう。倉山氏は中国や韓国に曲解した事実をつきつけて、敵意を燃やすような言説を流布したことに恥じらいすら感じていないようだ。
これらの本を堂々と並べていることに驚きを隠せなかった。処方薬を買いにきた利用客はどう思っていたのだろうか。数年後、その漢方薬局は廃業した。事業主が高齢のため続けられなくなったのである。元々自宅の一部を漢方薬局にしていたため、空いたテナントは別の事業主に貸し出した。現在は海鮮丼屋である。
老境に差し掛かれば、徐々に保守的な傾向が強くなっていくことは近年の社会調査から明らかになっている。
イギリスの大手シンクタンクでは50年間の統計調査で「高齢者ほど保守を支持する場合が高い」という結果を示した。また、コロンビア大学・心理学科の研究によれば、米国内92の研究機関による調査で「人は老化と共に知的好奇心が低下する。」との結論を出し、権威主義的な政治に対する反発が弱まる傾向があるという。それがきっかけで保守的な考えを固めるようだ。
日本の高齢者の思想や価値観は年を重ねるごとに保守的になる上、不幸なことにバブル崩壊に直面した。国内経済が徐々に低迷していったのだ。日本社会が下り坂の時代を迎えることから、その「淋しさ」に耐えきれない。結果として、他国を攻撃する言説に取り憑かれてしまう。中国や韓国に対する憎悪の念を持つようになったのも2010年代に入って顕著に表れている。
令和時代に突入した現在、嫌中・嫌韓本や日本礼賛本、陰謀史観の本は売れなくなったため、出版市場から姿を消した。その代わりに、YouTubeを観るだけで済ますようになり、陰謀論やフェイクニュースをそのまま信じるようになるという問題が浮上したのである。内容を理解せずにワンフレーズだけで世の中を理解したかのように酔狂する。発信者の内容を切り取ってあたかも真実かのように語る。非常に厄介な事態だ。
このような人々を前にすると、もはや「保守」とは言えない。差別感情をむき出しにして、排外主義的主張を展開するようになったとしか思えない。
もし私がヘイト本や日本礼賛本、陰謀史観の本を鵜呑みにしていたら、偏ったものの考え方になっていただろうと思う。家族や友人から忌み嫌われる存在になっていた。そう考えると、寒気がする。
読者の方々には一部の偏った考えを持った人の言説に対し、「本当にそうなのか?」と疑う姿勢を持っていただければよいと願う。
ご助言や文章校正をしていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。